第六章 儀式④
カウロが震える声で叫んだ。
「待ってくれよ! 行っていいのか? 親父、まさか俺たち──」
振り返ったディエノは顔色も悪く及び腰ではあったが落ち着いていた。
「いいから来るんだ。私たちは食べられたりしない。お前には役目がある」
ミリアムは辺りを見回した。ソロ村の一行を監視しているカイエン人たちとの距離が少しずつ縮まってきている。この場に留まってもいいことはなさそうだ。
カウロは渋々扉をくぐった。生き残った人足たちも怖い顔をしながらついて行った。
ファニは立ちすくんでいた。体が小刻みに震えていて、今にも倒れそうだった。
ミリアムはファニに手を差し出した。
「一緒に行こう。私、あなたを守るようにシエラに言われてきたの。シエラは、あなたをあまり傷つけたくないんだと思う」
ファニは泣きはらした顔でこくりと頷いて、ミリアムの手をつかんだ。
「この向こうに何があるのか、ミリィは知ってるの?」
「知らない。けれど、村の言い伝えでは、この山には塩の妖精が閉じ込められているんだって」
「妖精……」ファニが息をのんだ。「この人たちが……」
扉の中の通路は階段が続くゆるい上り坂になっていた。頭上には卵塔の枝の実が光り、先をゆっくり進むカイエンの司祭が一族の歴史を語っていた。
「はるかな昔、我々がまだ広く深い海に住んでいた頃、一族の長がご神託を受けた。とある山に眠る
「イハラゴ様というのは、そなたたちの神か」
司祭のすぐ後ろを歩くブランボが質問した。
「今はそう呼ばせていただいている。幼き神の子じゃ。この山も昔は海だった。我々が使える神の一柱が
ここでカイエンの司祭は話を止めた。だいぶ息が上がっていた。
坂を上りきると、巨木が枝で天井を支える大きな空間にたどり着いた。巨木のような構造物はロスアクアス家の屋敷より太く、高さは屋敷の遠景にそびえるオルエンデスの山並みまで入りそう──ミリアムがそう思うほど桁違いな空間だった。
構造物は、頭上の枝が天井の中心で纏まり、真ん中に大きな胞を編み込みながら岩床を貫いてできていた。その表面は、堅くしまった枝部分とは異なり、赤黒くぶよぶよしていたが、胞は透明で、中にいるまだ赤子と呼ばれる以前のものが、器官や臓腑が形成過程にある薄桃色のやわらかい体をくたりとくの字に曲げて収まっている姿を目の当たりにすることができた。
人間の誰もが司祭からの説明がなくても、その構造物が卵塔の本体で、胞の中の異様な生物が「
頭部と思われる端は、空っぽの水泡とまだ薄膜を被った大小の眼窩が混ざって房状態で、その下に何重にも重なったえらがひらめく。背面で寝ている背びれは尾ひれと一筋につながり、腹側にはいずれ鰭か歩脚になりそうな付属肢の纏まりをかかえている。
ミリアムは気が遠くなりそうになった。ククルトが胞に向かって唸り声をあげていて、その響きがミリアムの胸を絞めつけた。
ブランボは引きつった笑みを浮かべていた。
「こんな大きな水属性の妖物がいることを今まで知らなかったとは……あの特殊な関所でなければ出入りもできない結界は、こいつを守るためにあったのか」
カウロも目を丸くしてつぶやいた。
「なんてでっかい化け物なんだ……」
カイエンの司祭がカウロを杖でバシバシたたいた。
「お前たち! 言葉を慎め! 体が整えば、それにふさわしい神格が宿る身なのだぞ! それを『こいつ』だの『化け物』だの!」
急に
「
注目に気づいた瞬間、ミリアムは
幼神も再びえらや尾ひれをばたつかせる。付属肢をほどき、ミリアムを掴もうとする。卵塔が弾性ぎりぎりまで伸ばされて痙攣する。
『我が主よ! 我、今忠誠を示さん!』
ククルトの咆哮に同調してミリアムも何か叫んでいた。自分でも何を言っているのか分からなかった。夢中で剣を抜き、妖神へ振りかぶり──激しい衝撃がミリアムの背をはしった。衝撃は外から放たれ、ミリアムの内側のすべての力を止めた。体が固まったように動かなくない。力が入らない。ミリアムは剣を落として地面に倒れこんだ。
走り寄ってきたファニの後ろで、ブランボが手に光を散らしながら立っていた。
ブランボの薄笑いがぼやけていく。全てが白一色に溶け込んで平らな景色になる。
しまった! しまった……と悔いるククルト、狂ったようにミリアムの名を呼ぶファニ、聞いたことのない言葉で祈りを捧げるカイエンの司祭の声がミリアムの耳奥で混濁して、内から揺さぶり、千々に砕き、遠くへ拡散させる──
何か温かいものに拾われた感覚があった。
そのままくるまれて、沁みとおってきた温もりでまとめられる。少しずつ口笛も伝わってきた。あの時、あの夢で習った旋律──ククルトだ。
まだ自分が重くしんどい。
すっかりおなじみになってきた歌に、微かに「オルト……オルト……」と呼ぶ声がかぶった。
近くにおばあちゃんがいるのかしら。
こみあげてきた懐かしさで、だんだん意識がはっきりしてきた。
動けないミリアムの脇でククルトが小さくなっていた。最近は閉じ込められている金の柵がはち切れんばかりに大きくなっていたのに。今では金の柵はかき消えて、ミリアムが抱っこできそうなほど縮んだククルトが口笛を吹いていた。
ククルトはミリアムに気づくと、口笛を止め、うなだれて、ぽつんとつぶやいた。
『すまぬ、ミリアム。あの水のやつらは、我らの宿敵で……』
ミリアムはゆっくり頷いてみせた。いつもその力で助けてくれるククルトを責める気にはなれなかった。それよりも気になるものがある。目が覚めれば覚めるほど霞の奥から現れてきた、ククルトの後ろに立つ人影だ。
影はすらりと背が伸が高く、まだあやふやな輪郭で揺れていた。くせ毛の前髪から覗く優しいまなざしでミリアムを見下ろしていたが、それ以外の容姿はよくわからなかった。背の高さだと大人のようだが、本当にそうなのか、男女の判別もつかない。
それよりももっと気になること──ミリアムはできる限り記憶を手繰り寄せた──やはりそうだ。ククルトのいる世界に自分以外の人が入ってきたことは記憶の中ではない。先生でもオルト婆でもできなかったことだ。
『トスカというそうだ』ミリアムと以心伝心のククルトが言った。『どこから来たのかはわからないが、ずっとそばにいてくれた』
ククルトは再び笛を吹き始めた。
なだらかなリズムがミリアムの胸をくすぐる。強張っていた鼓動がだんだん強く鳴りだし、柔らかく温かく満ちていく。
色々訊ねたいことがあるのに、ミリアムの声はでなかった。
影は、喘ぐミリアムを見つめながら、片腕を真っすぐ上げて自分の後ろの上部分を指差した。指の先には丸い窓が浮いていた。ミリアムがちょうどくぐれるくらいの直径で、粗目の格子がはまっていた。
影は一度大きく震え、すっと窓に吸い込まれた。あっという間だった。
気がつけば、不安げなファニの顔に上から覗きこまれていた。
「よかった、気がついて」
ファニの表情が少し緩んだ。
もうククルトの口笛は聞こえなかった。代わりに、カウロとディエノの言い争いが鈍痛の響く頭に覆いかぶさってきた。
薄暗い魔石燈が釣り下がった室内は固い岩盤の壁に囲まれていて、息が詰まるほど湿気がこもり、かび臭かった。ミリアムは冷たい床から削り出して作られた石の台の上にむしろを敷いて寝かされていた。隣でファニが腰かけているのも同じものだった。
訊ねたいことがいろいろ浮かんできたが、ありすぎて何から聞いていいのかわからなかった。それに、やっぱり声が出ない。唇も喉もからからで、空気を吸うだけで奥に痛みがはしった。
『まずは起きてみろ。体調はだいたい整った』
言われた通り、いや、言われなくてもそうすると、ミリアムはつぶやきながらひじをつっかえ棒にするように上体を起こすと、ファニがひび割れたガラスのコップに枕もとの水差しから水を注いで渡してくれた。水には少し塩気があったが、ミリアムは構わずごくごく飲み、ようやく声が出るようになった。
「ファニ、ここは、どこ?」
「あいつらに案内された部屋よ。ここが客室なんだって。牢屋みたいだけど」
ファニの怒りと疲労感にまみれた声が、ひときわ大きくなったカウロとディエノの怒鳴り声でかき消された。
「嫌だって言っているだろう! 放せ! 放してくれよ!」
「我々は昔からそうやってきたんだ! お前は、一生分の血晶岩塩をここで稼ぐつもりでやるんだ!」
カウロ達の声はベッド二つ分ほど離れた壁のさらに先から聞こえてくる。暗がりの被る隅に、隣室へつながる人間サイズの穴があった。
ちょうどそこからディエノが二人のカイエン人を連れて出てきた。ディエノは顔を真っ赤にほてらせ、今にも倒れそうなほどよろめいていた。カイエン人の二人は、穴のわきにあった円形の大岩に手をかけると、横に滑らせて穴をふさいでしまった。岩にはこぶし大の窓が開けられていて、そこから父親を罵るカウロの声が漏れていた。
ディエノはミリアム達の方を向いたが、焦点は宙をさまよっていた。微かに口元が動いたが、声にはならなかった。
「あの、ディエノさん……」ファニが恐る恐る訊ねた。
「結婚式って、私たちも出るんでしょうか……」
我に返ったディエノは、ああ!と悲鳴のような声をしぼりだし、また怒鳴り散らした。
「俺たちが富を享受するのは当然なんだ! お前もその権利を得るんだ! わかったか!」
驚き固まるミリアムとファニへ、ディエノは目をむき顎を突き出して更なる威圧を押し付けたあと、ふらふらと部屋を出て行った。
カイエン人達も後について部屋を出ると、カウロの部屋と同じように外から大きな岩を転がしてきて、今度はミリアム達の部屋の入り口をふさいでしまった。
ディエノの高い靴音とカイエン人の濡れた布を落としていくような独特の足音が遠ざかって聞こえなくなっても、ミリアムは息ができなかった。目の前でだらだらと涙を流すファニの腕を自動的にさすっていた。さすりながら、ディエノの言葉が脳裏を強制的に反芻していて、意味を探ろうとしたが、訳が分からなかった。
ふと視覚の端に卵塔の枝先がのびてきているのに気づいた。
それが出ているのは、明りの射さない壁の上に開けられた穴だった。目の粗い格子がはまっている。影が差し示したものとそっくりだ。
ミリアムはさっきから訊きたかったことを思い出した。
『ククルト、あの影は味方なのかな』
『分からぬ』
『近くにいたりしない?』
『おらん。影はおらんが、ミリアム、我はおるよ。もう失態はしない』
『どうかなぁ。信じられない』
『そんなこと言わないで。我はミリアムを守るためにいる』
『うそだよ、それ。さっきは私のこと完全に忘れていたじゃない』
ミリアムは大きなため息をついた。かび臭い空気でも大きく吸って全身に回せば、気分をほぐす燃料となった。
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