第六章 儀式③

 これまで何時間も魔石カンテラの心もとない灯の下に暗澹たる坑道を進んできたミリアムたちは、小さいオレンジの明りが届かなくてもその先にある物影を見極められるほど全身の感覚が鋭くなっていた。足音の振動で崩れ、下が覗いた足元の穴、曲がり路に急に眼前に現れる鍾乳石、地面に置きっぱなしの錆びたつるはし──これらの障害を、誰に注意されなくとも闇で磨かれた勘で避けてきたミリアムの神経は、この部屋には明りの外にも膨大な空間が広がっていることを悟った。そして、その神経の末端を焦がすような鋭い視線も。

 ミリアムは自分の小さなカンテラを高く持ち上げた。カンテラを持つものは皆同じようにして視線の正体を探ろうとした。

 ブランボが呪文でカンテラの輝度を上げた。あたりは真昼のように照らされ、暗闇に慣れたミリアムの目が痛んだ。薄目で見回すと、暗闇は遠くに退き、代わりに人間の体から上る湯気や舞い上がる塵がきらきらと踊っている。地面は所々鉱脈や結晶の混じった暗緑色の安山岩で、湿って艶を帯びていた。そのてらてらした地面を軸に視点を前に進めると、村の家数件は建とうかという距離で、光の空間はおぼろげに漂う靄に断ち切られていた。そこには決して光の侵入を許さない濃く黒い霧の壁が立ちふさがっていたのである。そこから、無数の視線と重厚な威圧がミリアムたちに向けられていた。

「奴らの砦か」

 ブランボの問いにディエノは震えながら頷いた。

 人足たちが顔を見合わせた。「まさかあの中を進むのか」

「いや、に荷物を降ろしてくれ」

 ディエノの言葉で、全員が無言で荷物を降ろした。

 ついてきたロスアクアスの男たち4人がディエノの傍に集まった。一人が「頼んだぞ」とディエノの肩をたたき、険しい顔のディエノから鍵を受け取った。今くぐったばかりの石の扉の鍵だ。

 ロスアクアスの男たちは茫然と立ちすくむカウロやミリアムたちの間を抜けて石の扉へ向かった。

「おじさんたち、どこに行くんだよ」

「カウロ、お前もしっかりな」

 一緒に行こうとしたカウロを男たちは押しやり、自分たちは部屋の外から重い扉を引きずるように閉めてしまった。

 カウロが大声をあげて扉をたたいたが、反応はない。

「黙れ」

 力なくカウロを一喝したディエノは、よろめくような足取りで置かれた荷物に寄り、一抱えの包みを取り出した。

 ブランボは印を組み何かを唱え始めた。人足の男たちはディエノに一瞥され、戸惑いながらもそれぞれの得物を構えてブランボと並んだ。

 ミリアムは彼らの一歩後ろで花嫁とカウロを背に剣を抜き、何が起こるのか固唾をのんで見守った。

 ディエノは包みを持ってブランボと人足の間に割って入ると、大きく息を吸い、霧に向かって叫んだ。

海淵カイエンの民よ。道をあけてくれ。今一度約盟を取り交わそう。あのお方の洞へ私たちを連れて行ってほしい。私たちはお前たちが喜ぶものをたくさん持ってきた。ここを通してほしい」

 パキッと高い音が鳴ってブランボの前に何かが転がった。鉱石の矢じりを付けた骨の矢が折れていた。

「動くな」逃げようと身を引いた一同をブランボが制した。「防護の陣を張っている。続けてくれ」

 ディエノは生唾をごくりと飲み、深呼吸をして再び叫んだ。

「裏切者は私たちが成敗した。この通りだ。どうか道を開けてくれ」

 ディエノは包みを解いた。白目をむいた青白い男の首が出てきた。ミリアムの知らない老人だった。

 花嫁が小さな悲鳴を上げた。

 ミリアムも崩れかけた男の首に驚いたが、花嫁の声にもハッとして振り向いた。怯える花嫁のベールをそっと持ち上げる。シエラではなかった。シエラと背格好が似ているファニという村の娘だった。

「どうしてあなたが…」ファニがミリアムの口をふさいだ。しかし、カウロに気づかれた。カウロが乱暴にベールを払い上げ、ファニに迫った。

「なんでお前がここにいる。シエラはどうした」

「頼まれたの、シエラに」ファニは涙声になった。「こうするしかなかったの」

「親父、ファニがシエラになりすまして…」

「黙れ!」ディエノが強くカウロを怒鳴った。

 カウロが口をつぐんだ。

 ミリアムはふと天井を見上げた。頭上を覆うどこまで厚みがあるのかわからない暗い天井を。この場の誰でもない者の声が聞こえてきたからだ。じわり、じゅえりと岩盤から染み出たように水気のある吐息のような声だった。ミリアムには短い音節ごとに震える塊となって降ってくるように見えた。微震する透明な塊は人の間を飛び回り、耳元で不快な共鳴を聞かせた。

 ブランボはじっと霧を睨んだままだが、他の人々はきょろきょろあたりを見回し始めた。どこから聞こえてくるのか分からないようだった。

 霧の中からまた矢が飛んできた。今度は無数に絶え間なく。

 カウロが悲鳴を上げ、ミリアムもまた目をつぶりそうになった。矢はブランボの防御陣を破ることができず、次々に力尽きる。

 ブランボが新しい印を組み、謎の音節と同じ音を口ずさんだ。呼ばれた音節がブランボの息に集まり、印を通って正しい順序に編纂される。ばらばらの震えが、徐々に美しい呪文の詠唱に整っていく。

「開錠」

 ブランボの言葉で、調律された呪文が一気に霧へ放たれた。甲高い女の悲鳴のような尾を引きながら霧の壁に食い込む。霧が低い地響きをたてながら渦を巻く。

 男女の混じる喧騒に似た轟音とともに霧が散開した。光がなだれ込み、空虚にこだまする残響すら駆逐する。

 気が付くと、霧の壁があったところに、光がゆらゆら照り映える水面が広がっていた。目の前に青黒い水をたたえた大きな地下湖が現れていた。対岸は霞がかかり、まだ暗闇がくすぶっているようでよく見えない。

 ひどく生臭い匂いが漂ってきた。ちゃぷちゃぷとはねる水音もついてくる。

 霞をかき分け、小舟が五艘近づいてきた。

 全身の力が抜けて倒れそうになっていたディエノが、しゃきっと襟を正した。

 小舟には一艘につき二人ずつ人影が乗っていた。前に一人、後ろで櫂を漕ぐものが一人。どれも小柄でミリアムと大差ない。

 岸につくと、真ん中の小舟から一人下りた。ぼろぼろのローブを羽織って杖をつき、紡錘形の大きな金の冠を被っている。集団のまとめ役らしいその小男は冠の下から皿のように大きな目玉をぎらつかせてこちらを見つめた。

 ブランボがカンテラの光を元のオレンジの薄明りに落とした。

「ほう、気が利くじゃないか」

 冠の男は、さっきの水気を含む声を発してゆっくり近づいてきた。前かがみでローブの裾を引きずりながら、時折跳ねるようにして歩いてくる。小さい顔に太い首、乏しい赤茶色の髪の毛、全く血の気のない染みだらけの皮膚はぬめりで覆われ、瞼がないようにみえる真円の目玉、面皰にも似た低い鼻、枯れて縮んだ花びらのほどの小さい耳まで裂け、硬い唇に縁どられた大口──動作といい顔貌といい、原始の猿と蛙を混ぜたような男だった。

「カイエンの司祭様、お久しぶりです」

 ディエノは冠の男にあいさつしたが、男はディエノを無視し、ディエノが持つ老人の首をじっと睨みつけた。

「へっ、本物か。この男も身内には油断したとみえる」

 カイエンの司祭は首に唾を吐いた。そして、無表情のブランボを見上げた。

「砕いて送った鍵の陣を、矢を防ぎながら再構築するとは頼もしいことだ。新しい司祭は土地の者ではなさそうだが、この上で暮らして何年だ?」

「私は司祭ではない。司祭はそこの娘だ」

「またか!」カイエンの司祭は軽く跳ねた。「まったく! ばかにしとるのか」

「司祭がこの土地になじんだ者でなければならないのはきいている。私は補佐をする。一人前になるまで二人でやればいい」

 カイエンの司祭は頭を九十度傾け──顔が肩の肉に三分の一埋まってしまったが──ブランボの大きい体に隠れていたミリアムをじろじろ観察した。

「陣のかけらを目で追っておったな。素質はあるようだが、風なるものに憑りつかれておるではないか。風は我らの体に合わぬ」

「その憑りついているものの力が、今は役に立つかもしれんぞ」

「どうだろうか。カイエンの司祭様」ディエノが我慢できないという風で割って入った。「また前のように洞に入れてもらえるだろうか」

「ふん。毒も加減をすれば薬になるというわけか。貢物を忘れるな」

 カイエンの司祭が後ろを向いて杖を振ると、小舟から何人か下りてきてミリアムたちの荷物を舟に積んだ。こちらのカイエン人は司祭よりは筋肉質で上背もあったが、やはり司祭のように──程度の差はあったが──魚か蛙の混合を想像させる容姿をしていた。着ている服は司祭のものよりおんぼろで、色も形もよくわからないほどだった。

 ミリアム達も緊張しながら司祭と荷物運びのカイエン人についていった。小舟は、エルテペの湖などでよく見られるように船首がとがって竜骨が船底の真ん中を通っている形をしていて、十人も乗ればいっぱいになる大きさだった。ただ材質が木ではなく、何かの骨と皮をつなぎ合わせて作ってあって、ミリアムは千疋皮が舟になったようだと思った。ミリアム達はその奇妙な小舟に分けて乗せられた。ディエノとブランボはカイエンの司祭と、ミリアムはカウロやファニと一緒だった。舟の両側のへりには皮のロープが結わえられ、先は水の中に沈んでいる。ミリアムがそっと上から覗いてみると、ロープの先を銜えたカイエン人がだらりと浮いていた。

 舟が動き出した。船尾のカイエン人が櫂を操り、ロープを銜えたカイエン人が水をかく。小舟は司祭の乗った舟を先頭に一列になって、水煙に霞む湖の奥へ向かった。

 奥は漏斗のようにすぼまって狭い水路になっていて、出口はなかなか見えなかった。時折前の舟に乗るブランボが頭を下げる。天井が低くて鍾乳石が頭をかすめるのだ。

 ミリアムの後ろでは、カウロがまたファニに詰め寄っていた。

「なんでお前がここにいるんだ。シエラはどうした」

「もちろん上にいるわ。今日だけ代わってくれたら、父さんがシエラの家に借りたお金、もう少し待つって。そうでないともう家を追い出されそうで……」

 カウロたちは声を潜めたつもりのようだが、トンネルに響いて話は丸聞こえになった。ディエノが後ろを向いてカウロを睨んだ。カウロは首をすくめた。

 後ろの人足たちもこそこそ話をしていた。不安のあまり黙っていられないようだった。人足たちは「さっきから潮の香りがする」「この先は海じゃないのか」と言っていた。ミリアムが生臭いと感じている匂いが海の匂いらしい。

 ミリアムは海を見たことがない。先生レングの話や村の学校で聞いたことがあるだけだ。オルエンデスよりはるか遠くの低い土地に、しょっぱい水と魚をたたえた水たまりがどこまでもどこまでも広がっているのだという。いくら長時間地下を下ってきたからって、まさかそこまで行くはずがない。勘違いだろうとミリアムは高をくくっていたが、舟が水路を抜けた時、一瞬その話を信じかけた。

 やっとトンネルを抜けたかと思うと、空気に肌がべとつき息苦しくなるほどの濃密な塩気と水分が加わり、水路の幅が一気に広がったのだ。青白い明りの下、遠くなった左右の対岸には暗緑色の険しく高い崖がそそり立っている。その崖に切り取られた細長い空には無数の星のような小さな光が瞬き、これが下界を照らしていた。さながら、夜に峡谷を流れる大河のど真ん中を回漕しているかのようだった。

 しかし、よく目を凝らすと、星のように見えた光は、頭上をうねうねと網の目のようにはしっている管から垂れた雫か実のようなものが発する光だった。

「あれは血晶岩塩ではないのか」

 ブランボが尋ねると、カイエンの司祭は笑ったように軽く肩を上下させた。

「あれは“卵塔”の末枝から染み出た粗悪品でな。魔石燈の代わりぐらいにしかならん」

「ラントウとはなんだ?」

「先に行けばわかる」

 崖の方にも別の光が点り始めた。崖の壁一面には窓のようにたくさんの穴が穿っていたが、そこに光るのは、雫や岩盤に混じる結晶の反射ではなく、敵意のこもった生物の眼光だった。崖下の水辺には桟橋がいくつも突き出していて、ミリアムの乗っているような小舟やはしけがつながれていたが、そこにもカイエンの住民が大勢出てきた。みな舟のカイエン人と同じ半猿半蛙の姿で、座った者も立っている者も大きな目を爛々と輝かせながら黙ってこちらをうかがっていた。

 カイエンの司祭がディエノからひったくった首を高々と掲げ、喉を震わせて何かを叫んだ。

 それを聞いた他のカイエン人は一斉に騒ぎたてた。ミリアムには分からない言葉で唸り、指の間に膜の張った大きな手足を振り上げ跳ね回った。

 鉱山に来てからずっと黙っていたククルトが胸の内でむくりと起きた。

『“裏切者の首だ” “ピサロは死んだ”とさ』

『分かるの?』

『少しな』

 興奮が頂点に達したカイエン人が次々に水に飛び込んで、舟に近づいてきた。司祭の持つ首へは唾と意味不明の怒号を浴びせた。舟べりに手をかけ舟を揺らし、ミリアム達に手を伸ばした。泣きじゃくるファニはベールを引っ張られ、ミリアムは危うくカンテラを取られそうになった。泳いで舟を引くカイエン人はあちこちから嬲られ、殴打されて、悲鳴をあげていた。早く泳げと言われているようだった。ミリアムは、周囲で喚きたてるカイエン人よりも舟を引っ張っているカイエン人たちの方が自分たちに似ていることに気づいて、背筋がぞっとした。

 五艘の小舟は、水面と岩盤を踏み叩く音が反響し、狂声が飛び交う祭場の中を、水流にまかせた木の葉のように進んでいった。

 やがて、騒いでいたカイエン人が舟から離れると、進行方向に大理石でできた白い巨大な扉が現れた。表面にはカイエン人のような人とも蛙ともつかない者や、もっと大きくて不気味な生き物のレリーフが刻まれていた。扉は真ん中から少し開いていて、卵塔の枝はそこから出て天井に広がっていたのだった。水路はそこから二つに分かれていた。ミリアム達の小舟は、扉の前の広場に着岸した。

 広場にはカイエン人が二人待っていた。この二人が司祭が舟から降りるのを手伝い、ミリアム達を扉の中へ案内しようとした時だった。

 待っていた二人が突然後ろから殴られて倒れた。

 半開きの扉から、広場の岩陰からこん棒や石器を持ったカイエン人が出てきた。その数、十名ほど。

 異様な光景の連続にずっと辺りを警戒していたソロ村一行は、すぐにディエノやカウロたちを中に入れて円陣を組んだ。ミリアムもファニをかばって人足たちに混じり剣を抜いた。

 ブランボの魔法と数回の剣戟で勝負はすぐについた。人足が一人やられたが、襲撃者は全て倒した。

「これがカイエン人の意志か」

 ブランボが、疑心暗鬼でまだ構えの解けないミリアム達を代表して鋭く司祭に訊ねた。

 自分の魔法で身を守っていたカイエン人の司祭は、赤い血だまりに沈む襲撃者に唾を吐いた。

「わしの指示ではないよ。わしが穏健派ならこやつらは急進派よ。泳ぎもままならぬ半端者どもめ。こやつらは今すぐにイハラゴ様をふ化させて、そのお力を頼りに海に帰ろうとたくらむものたちだ。自分たちなら長い旅路を耐えられるとふんでいるのだろう。自分のことしか考えられぬ勝手な者たちだ」

 今の騒ぎで、狂乱の盛り上がりをみせていたカイエン人たちはすっかり静まりかえっていた。近くで様子をうかがっていたカイエン人たちは、動かなくなった人足と襲撃者たちを水路の淵や穴の暗がりに素早く引きずっていった。引きずられた先からは、すぐに骨や肉を割く音と血の匂い、咀嚼音が流れてきた。

 カイエンの司祭の言葉は続いた。

「早々と与えてくれた貢物の礼として、少し我らの謂れを話してやろう。表の司祭には代々口伝で伝わっているはずだが、ピサロはその面構えだと伝える余裕もなかったようだからな」

 相変わらず周囲はカイエン人達の光る双眸がミリアム達を囲んでいた。敵意むき出しだったその光に、血の匂いで目覚めた別の欲望が宿っていた。

 カイエンの司祭は体を揺らしながら扉の中へ入っていった。

 ブランボがその後に続き、ディエノがブランボを盾にするように歩いていく。

 ミリアムも彼らの後をついて行くしかなかった。

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