第二章 エルテペの町①
イセルダ・カーマインの別荘は、巨木の密集した暗い森の中の湖のほとりに隠れるようにあった。
表向きには、オルエンデスの中心である州都のはずれの屋敷を借りていることになっていたが、本人はさらに山奥にあるこの古城を改装して住んでいた。この辺りには古城以外に人の手になる建物は見当たらず、その古城も湖に面した敷地以外は木やコケに覆いつくされて目立たないので、人のいる気配は全く感じられない。迷いそうな深い森に踏み込んであえて近づこうとする者もいないので、世間からほぼ隔絶された場所だった。
今は真夜中で、ただでも静かなところが更に静まりかえっている時間だったが、トリクシーは忙しかった。銀の盆に白磁のお茶の道具を乗せて、いそいそと廊下を歩いていた。
観音開きの大きな扉の前に来ると、両手がふさがっているトリクシーの代わりに扉の両側に立っていたメイドの一人がノックして、ゆっくり開ける。トリクシーが開くスピードに待ちきれなくてすき間に滑り込むよう部屋に入ると、またゆっくり閉められていった。
トリクシーは一息ついて、部屋の中を見渡した。
部屋は広い寝室だ。真ん中に天蓋のある大きなベッドがあったが、空間には十分余裕がある。
窓際は見晴らしのいいテラスになっていて、椅子とテーブルが用意されており、そこにこの城の女主人が座っていた。赤いガウンを着て、結い上げていない素の金髪を肌寒いそよ風になびかせながら、物憂げに月下の湖を眺めている。膝の上には卵型の白い容器を乗せ、赤いひざ掛けにくるんで白い手をそえており、距離をおいて見るとお腹をいたわる妊婦のようなシルエットだった。
そんな女主人を見て、トリクシーは声量は控え目だが明るい声で呼びかけた。
「お待たせしました、イセルダ様」
トリクシーは速足でテラスに行くと、持ってきたお茶のセットをテーブルに並べた。
「いいもの持ってきましたよ。どうせ眠れないんだったら、お茶でも飲んで、のんびりお月見でもしましょうよ」
イセルダはきびきびしたトリクシーの動作をぼんやりと追いながら話しをした。
「お茶を飲んだら、余計に眠れなくなるんじゃないかしら……」
「細かいことは気にしない、気にしない。それに、このお茶、薬膳なんですよ。体にいいんですって」
「どこで手に入れたの?」
「えへへへ。ないしょです」
トリクシーはにこにこしながらブリキの茶筒をかぱっと開けた。
「ちょっと貸して」
イセルダはトリクシーから茶筒を受け取ると、中を覗いて臭いをかいでみた。「甘いフレーバーね……大丈夫かしら。いいわ、入れてちょうだい」
トリクシーは最近覚えた”美味しい紅茶のいれ方”を口の中で反すうしながら、たどたどしい手つきでお茶をいれはじめた。
「色が紫なんだけど……」
「大丈夫です。こんなお茶なんですよ」
「ほんとに?!」
「ほんとです。さあ、どうぞ」
イセルダは、白磁の上品なティーカップに入れられた立ち上る湯気も紫に見えるような濃い色の飲み物を怪訝そうに眺めた。
「お砂糖は好みで入れてくださいね。私はこのままでいただきます」
トリクシーはイセルダの向かいに座ると、自分用に入れた紫のお茶を一口飲んだ。
「……はあっ、よかった。我ながらおいしくできましたぁ~。ささっ、イセルダ様もどうぞ」
イセルダは恐る恐る自分のカップをソーサーごと持ち、笑顔で自分を見つめるトリクシーを見ながら口に運んだ。
「……おいしい、わね」
「でしょー? お砂糖とか、何か入れますか?」
「このままいただくわ。香りもとてもフルーティーで、このままでも飲みやすいわ」
「よかったぁ、気に入ってもらえて」
トリクシーは二口目を飲むイセルダを見て、ほっとした表情で話し出した。
「このお茶はですね、エルテペで見つけたんですよ。ほら、この前お話した女の子。あの子が卸しているお茶なんです。疲労回復の効果があって、お店でも一番人気だって、薬局の人が言ってました」
「さっき、このお茶の出どころはないしょだって、言ってなかった?」
「ありゃりゃ、つい……」
イセルダの突っ込みにトリクシーは顔を赤くしてほほをかいた。そんなトリクシーを見て、イセルダもプッと吹き出した。
「そうね。なんだかほっとするわ。ほんとに疲労回復の効果がありそうよ。そこの机の一番上の引き出しを開けて。奥にクッキーが入っているわ」
「あ、はい……って、こんな奥に入れているんですか」
「だって、大ぴらに出してると、エルザが片付けてしまうんですもの」
「まあ、そうでしょうねぇ」
トリクシーは”堅物メガネ”と冷かされるまじめな侍従長を思い出して納得した。
二人は、砂糖をまぶした甘いクッキーと珍しいお茶を交互に口にしながら真夜中のお茶会を堪能し始めた。
イセルダが尋ねた。
「このお茶を卸してる子、魔導士見習いか何かなの?」
「その子のおばあちゃんが魔導士なんですって。おばあちゃんがこういうのを作って、その子が町の薬局に届けているんだそうです。私よりちょっと年下かなあ……。この辺の人の服の他に、変わった手甲をしていて、エルテペでも有名な子みたいなんですけど、でもいい子でしたよ。今、おばあちゃんからいろいろな薬の作り方を習っているんですって。畑にもいろんなハーブを植えてるって」
イセルダは一生懸命話すトリクシーを見ながら微笑んでいた。
「素敵ね、トリクシー。どこへ行っても、すぐにお友達ができて」
「イセルダ様だって、ちょっと外に出てお話すれば、すぐにお知り合いができますよ。その方たちと屋敷でパーティーを開いて──」
「今はいいわ。そういうのは」
イセルダが話をせき止めた。
トリクシーは言いかけた言葉をグッと飲み込んで、急いでお茶を一口飲んだ。イセルダは、遠くの景色に目を移した。女主人の憂鬱な表情をうかがいながらトリクシーはお茶を飲み続けた。
しばらく外を眺めた後、イセルダは少し気が晴れた様子でトリクシーの方を向いた。
「ごめんなさいね。気を遣わせちゃって」
「い、いえ、そんなことありませんって」
トリクシーは首を振ってまた話を始めた。
「私も初めてだったんですよ。上級薬局に行って、同い年の子に会うのって。普通の薬局ならともかく、ああいうところってもっと年上の……見習いでももっと何年も修行したような人がいるところじゃないですか。魔導士でなければ剣士とか、呪具屋ですかって感じの人相の悪い人とか……。田舎のお店だし、そんなもんだって思って入ったら、店主と商品の話をしてる子がいるからすごいなって思って。私みたいにお使いで来た感じでもないし、この子小さいけどほんとは魔導士じゃないかって思って、聞いてみたんですよ──」
イセルダは膝の卵をなで、微笑みを浮かべながら話を聞いていた。
「──そしたら『違いますっ』って顔を赤くしてました。その時買ってきたお薬は、その子の家のを中心に選んできたんです。店主さんもいいよって言ってたから」
「確かに他の薬も質が良かったわ。都のものと変わらない。お茶はこれしかないのかしら?」
「あの子のは、あと二、三種類あるみたいですよ」
「そう。じゃあ、また買ってきてちょうだい。この紫のお茶と他のお茶も。もっと飲みたいけど、なくなりそうよ」イセルダは茶筒を振ってみせた。「ブランボにも聞いてみて。用立てて欲しいものはないか」
「ブランボさんですか……」
「フフフ。苦手みたいね」
「はい、まあ……」
トリクシーははぁっと息をついた。イセルダに仕える魔導士ブランボもちょっと苦手だが、本当はその仕事場が嫌なのだ。
そこには、イセルダと渡りあって捕らえられた魔導士が閉じ込められていた。動きはイセルダの
時々誰のものともわからない悲鳴が聞こえるその場所の近くにくると、トリクシーは寒気を感じて走って通った。普段は美しく優しいイセルダも、自分の目的のためには冷徹になることを、今はだれの意見も聞かないことをトリクシーは見てきていた。
(お願い、トリクシー。あの人の心を、あなたの明るさで守ってほしい。無茶をしないように)
トリクシーは自分の上司にそう言われてイセルダの下に来ていたが、その役目を果たせているかということには自信が持てなかった。
「あの様子だと、まだバンシーを戻すわけにはいかないみたいだから。早くしてもらいたいのよ。他に気になることもあるから」
「気になること、ですか?」
恐る恐るトリクシーは尋ねた。
「そうよ」
イセルダは再び遠くを眺めた。
「オルエンデスは恐ろしい所ね。こんな風が吹くなんて」
「風が、どうかなさったのですか」
「風というか、声というか……。答えるものがいるのかしらね」
トリクシーは耳を澄ましてみた。 月夜に冷やされた風に揺れる木の葉、遠くで鳴く梟、その鳴き声で距離をはかりながら移動する小動物の足音、思い出したように跳ねる魚の水音──。自分の耳は、祖先のエルフの血のせいもあって、普通の人よりよく聞こえると自負しているのだが、それらしい声や風の音は聞こえない。イセルダが何を聞を聞いているのか、トリクシーはとても気になった。それが分かれば、もっとイセルダを楽しませる話ができるに違いない。
「フフ、私の心象よ。本気にしないで」
真剣な面持ちで耳をそばだてているトリクシーにイセルダが言った。
「州都では偉いさんからどこかの市井の魔導士までが訪ねて来るし。こっちが求めた魔導士は言うこときいてくれないし。思い通りにいかないものね。バンシーにも力を取られているし、疲れてるのよ。トリクシー、いい薬を買ってきてね」
「わかりました、イセルダ様」
耳を澄ますのをやめ、姿勢を改めてトリクシーは頷いた。
「ブランボには、そうね、私から聞いておくわ」
「いえ、いいですよ、ゆっくりしていてください。バロネットにお願いしますから」
「あらいいの? バロネットはあなたの先輩じゃなくて?」
「そうだけど、いいんです。バロネットったら、この間ですねぇ……」
再びトリクシーのおしゃべりが始まった。イセルダは一瞬呆れたような顔をしたが、まっすぐ自分を見て他愛もない話を明るく語るトリクシーにつられて穏やかな表情になり、卵をなでながら黙って聞いていた。
真夜中のお茶会は、トリクシーが語りつくして、あくびをするまで続いた。
ミリアムは熱が出た。鉱山でククルトがミリアムを守るために”力”を使ったため、それが体に負荷をかけてしまったらしい。左腕は黒い部分が増えて腫れあがってしまった。
オルト婆は、高熱でうんうん唸るミリアムの額を水に浸した布でずっと冷やし続けた。そして、ミリアムの左腕全体に薬を塗り、包帯でぐるぐる巻きにした上に魔法の模様を描き、何度も呪文を唱えた。
ミリアムは体がきつくて頭もぼんやりしていたが、意識を操作してククルトに会いに行った。ククルトは金糸の籠の中で、大きい手足やしっぽをお腹の下にたたむようにして身を縮めていた。
『大丈夫?』
ミリアムは、眼も固くつぶっているククルトの眉間のしわをそっとなでた。
ククルトがしわを緩めてうっすら目を開けた。
『それはこっちのセリフだ。しんどい思いをさせているな』
『私は平気だよ。ククルトは何も悪くない。私を守るためにやったんだから。おばあちゃんもすぐよくなるって言ってたよ』
ミリアムはククルトの目の前に座り込んで、再び目を閉じた竜の鼻をなでた。以前、先生が「お互い影響しあう」というようなことを言っていたから、ククルトもきついのだろうと思った。オルト婆が自分にしてくれているようにククルトも冷やしてあげたかったが、ここには水も布も持ち込めない。ミリアムはククルトの鼻を撫で続けた。
四日間寝込んで、やっと、ミリアムは寝床から出ることができた。左腕の腫れもひいて、ご飯もいつもの献立で食べられるようになった。
こうなると、元の元気なミリアムに戻るのに時間はかからない。すぐにオルト婆と一緒に、三日後に月一で開かれるエルテペの大市に合わせて薬やお茶を卸す用意を始めた。大きな町に出るのは楽しい。寝てる間に考えたこともあって、ミリアムは張り切って支度を進めた。
大市の日の一日前の朝早く、ミリアムは二頭のロバに荷物を積んで出かける準備を整えた。黒い籠手は上着の中に仕込み、毛長ヤギの毛でできたストールにつば広の帽子をかぶり、腰には山刀の他に刃のない直刀も下げた。
「それも持っていくのかい。役にたたないし、生兵法は怪我の基だよ」
「いいじゃない。おばあちゃんは使わないんだから」
ミリアムは離さなかった。
オルト婆が弁当代わりの水筒やパンを持って出てきて、先頭のロバにくくり付けられた鞄の中に入れた。そして、ミリアムの首にヒスイでできたお守りのペンダントをかけた。
「何があっても外すんじゃないよ。魔よけの呪文をかけておいたからね」
ミリアムが小さい頃はオルト婆も一緒に出掛けたが、最近は留守番が多い。今回もミリアムの看病で腰が悪くなって、断念することになった。ミリアムにとっては、そのほうがのびのびできて好都合だ。
「じゃあ、行ってきます」
「気をつけて。ロメオによろしくね」
ミリアムはオルト婆に手を振り、先頭のロバに乗って出発した。
家の前の岩だらけの急な坂を下りソル村へ続く道に出てしまえば、それに沿って進むだけでエルテペの町につく。
ミリアムは、荷馬車が一台通れるぐらいの幅の、何十年にもわたって踏み固められた石と土の山道に出て、ロバのペースでのんびり下って行った。山の急斜面に張り付くようにのびている道だが、ジグザグに折り返しながら続いているので、道の傾斜はそんなにきつくない。
まだ少し薄暗いが、今日もいつも通り晴れ渡っている。日が高くなれば、今は影になっている遠くの谷間に低木と下草で覆われた緑の草原が見えてくる。そこまで下りれば、なだらかな丘陵地帯になってきて、エルテペまではもうすぐだ。
『計画通り、探すのか』
いつもの調子を取り戻しているククルトが、ミリアムに尋ねた。
『そうよ。町に行けば、人がたくさんいるし。先生のことを知っている人が……もしかしたら、先生本人がいるかもしれないでしょう?』
『あの男が、あのまま町にいれば、目立つだろうな』
『それならすぐに見つかるね』
山道を下って谷底の街道と合流した。見晴らしの良い草原の丘を地面の凸凹に合わせて蛇行しながらエルテペに向かう道だ。道端の草の生え具合のよいところで、早めのお昼を食べた。ロバにもオルト婆特製スペシャルフードを食べさせ「もうちょっとがんばってね」と声をかけた。食べ終わったら、すぐに出発する。通いなれた道で特に不安はないつもりだったが、やはり一人なので、なるだけ早く到着したかった。
進んでいくと、だんだん空気が暖かく湿ってくるのを感じる。生える草木も背丈がのびて大きくなってきた。ミリアムのように、荷物を持って町へ向かう人々をちらほら見るようになった。
やがて、眼下に緑の山に囲まれた低地に広がる青い湖面とその周りに群がる赤い屋根の塊が見えてきた。空より青いあの湖がテペ湖で、その傍の町がこの辺りで一番大きい町のエルテペだ。テペ湖からは一本の川が流れ出ていて、この川の下流にオルエンデスの州都がある。ミリアムはまだそこまで行ったことがない。
あちこちの山や谷から続く道がエルテペにつながっていて、そこを通る人々がエルテペに吸い寄せられるように入っていっていた。にぎやかな町の喧騒が、風に乗ってここまで聞こえてくるような気がする。
あともう少しだ──ミリアムは、足でロバの腹を軽くたたいて足を速めた。
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