扉を開けて

「いえ、こちらは特に何もしていませんよ。むしろ、助けられたくらいで……」

「「冬眠」の最中に目が覚めたのでしょう? その話は娘たちから聞いたわ」


 マリアンヌは少し笑った。ミカゲも笑顔になった。


「そうなんです。あの二人に助けてもらったんです。ですから、お礼を言うのはこちらのほうで……」

「いいのよ、気にしないで」


 ふと、ミカゲは、双子が自分の家に預けられたことは正解だったのだろうかと思った。ガーネット家に留まっていたほうが安全だったのではないか。ひょっとしたらその場合、「冬」に目を覚まさなかったのではないか。しかし、何故、目を覚ましたのか、そこがよくわからないが。


 ミカゲは「冬」に見た、ガーネット家を思い出した。近づくことさえできなかった。今はその時とは全く違う。近づくことはもちろんできるし、中に入ることもできるし、不穏な気配など微塵もない。ミカゲが黙っていると、唐突に、マリアンヌが言った。


「あなたに見せたいものがあるの」

「何でしょう?」

「……エヴァンジェリンに関すること。あの子の部屋に来て欲しいの」


 ミカゲは軽く衝撃を受けた。エヴァンジェリンの記憶が蘇る。まだ生きていた頃のエヴァンジェリン。ここに暮らしていて、自分もよく遊びに来ていた。階段を上って、エヴァンジェリンの部屋へと向かう。亡くなって以来、入ったことがない部屋だ。


 時間が急に巻き戻されたような気がした。けれどもすぐに我に返り、ミカゲはマリアンヌに続いて、エヴァンジェリンの部屋へと向かった。




――――




 何か、妙な気分がしていた。二階に上り、エヴァンジェリンの部屋に近づくにつれ、その妙な気分とやらは大きくなっていた。よく知った廊下――いくつかのインテリアが変わっている――を通り、その先にエヴァンジェリンの部屋の扉が見える。


 違和感は大きくなっていた。エヴァンジェリンの部屋との距離が縮まっていく。ミカゲは黙っており、マリアンヌもまたそうだった。部屋の前で、マリアンヌが立ち止まった。ミカゲは眩暈のようなものを覚えた。マリアンヌが、服のポケットから鍵を出した。どうやらこの部屋は施錠されていたらしい。ミカゲはそれを訝しく思った。


 鍵を開け、マリアンヌの手がドアノブへと伸びる。何だろう、すごく、奇妙な気配を感じる。この先に何かがあるのだ。それが何かはわからない。良いものかもしれないし、悪いものかもしれない。けれどもそれはともかく、まだ見たことがないようなもの――。


 しかし、この先にあるのはエヴァンジェリンの部屋なのだ。何度も訪れた場所。楽しく寛いだ時間を過ごした、大好きな場所。よく知っている――はずの場所。怯える必要はないはずなのに。だが――エヴァンジェリンが亡くなった場所、でもある。自分は彼女の死と向き合うのが怖いのだろうか。


 マリアンヌの手がドアノブを捉え、そっとそれを回した。ドアがゆっくりと内側に開く。マリアンヌが足を踏み入れ、それからミカゲが続いた。素早く、マリアンヌが扉を閉めた。部屋の内部は薄暗かった。鎧戸が下ろされているのだ。ミカゲは戸惑い、そして、ぼんやりと周りを見つめた。エヴァンジェリンの部屋、8年ぶりに入る。綺麗な気持ちのいい部屋だった。ここでエヴァンジェリンと、美しい彼女と、会話をしたり音楽を聞いたり本を読んだり、それに、それに――。


 少しずつ目が慣れてきた。室内の様子が、自分の記憶にあるものと大きく違うことに、ミカゲは気づいた。何かが部屋全体を覆っている。大きくて太く、うねりがあるもの。何か、木の幹のようにも太い蔓植物のようにも思われる。その表面は黒く、磨いたように滑らかだった。


 その謎のものが壁に天井に、辺りにびっしりとはびこっているのだった。まずは驚きがあって、そちらに心を占められていたため、恐怖は遅れてやってきた。これは――一体何なのだろう。


 ミカゲは謎のものに近づいた。小さな光が走った。目の錯覚かと思ったが、よく見ていると細かな光がまた黒い表面を走った。その数は次第に大きくなっていく。そしてあちこちでまとまりはじめる。手のひらほどの大きさになって、ゆっくりと明滅を始める。


 そこに映像が映った。ミカゲは呆気にとられてそれを見ていた。映像は、ぶれながら、歪みながらも何かを映し出す。それは砂漠の光景のようだった。赤い砂がどこまでも広がっている。小さな丘が見える。空の色は、見たこともないような紫色だ。


 映像はいくつもあった。ただどれも同じ場面を映しているわけではない。砂漠が見えたと思ったら、別の場所は雪山だ。海の中と思しき場所がある。星々だけが光っている場所、宇宙のような場所もある。草原に森に、氷河に密林。知っている場所、見たことがあるような場所だけではなかった。ある映像に映った光景は、辺り一面岩だらけで、それらは全てレモン色をしていた。

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