8. 世界と世界を繋ぐもの
よい日
ボリスは眠りから目を覚ました。明るい光が部屋に差し込んでいる。ボリスは目を開けて、まじまじと辺りを観察した。春だ。春がやってきたのだ。長い「冬眠」から目覚めて――といっても、ついさっきベッドに入ったような気はするが――春のさなかにいるのだ。
ボリスは上体を起こし、濡れた鼻で、すんすんと辺りの匂いを嗅いだ。ボリスは鼻が良いのであるが、春の匂いは特に好きだった。柔らかい、心地よい匂いであるけれど、それと同時に生命の粗野さも感じられるような、そんなわくわくする匂いだ。
ボリスは春が好きだった。特にこの目覚めの瞬間が。体内に力が満ち、自分の中にあった古いものが、新しくぴかぴかになったような愉快な気持ちになる。ボリスは大きく伸びをして、ベッドから出ようとした。と、その時、ふと、ミカゲのことを思い出した。
「冬眠」前、疲れた顔をしていたミカゲ。彼は無事なのだろうか、と俄かに不安がボリスの胸をよぎった。彼に危うさを感じながら、そのまま「冬眠」に入ってしまったのだ。ボリスはベッドから出ててきぱきと着替えると、まず、ミカゲの部屋に行った。
ノックをしてみる。「ボリスだが」声をかけると、中から明るい声がした。
「どうぞ」
ボリスはドアを開けた。そしてほっとした。ミカゲは既に起きていて、着替えも済ませていた。「冬眠」前の暗さはどこへやら、朗らかな表情をしている。ボリスは安堵して、笑顔になり、そしてミカゲに何と声をかけたものやら、少し迷った。
「……えっと、もう起きてたんだな。その……、おはよう」
なんだか間抜けな台詞になってしまった。ミカゲは笑って挨拶を返した。
「おはよう」
「気持ちのいい春の日だな。その……空は青くて」
部屋の窓からのびのびとした青い空が見える。ミカゲは同意した。
「そうだな。春らしい、いい日だ」
「うん。あ、今日中にはガーネット家に戻ることになるだろうが、とりあえず朝ごはんは俺が作るよ」
ここ最近はずっとボリスが食事当番だったのだ。ミカゲは嬉しそうに笑って言った。
「まかせるよ。おまえの作る食事は旨いからな。もう食べられないのかと思うと残念だよ」
――――
ボリスが部屋を出ていき、ミカゲは一人残された。本当によい日だった。空は澄み、爽やかな風が吹いている。ミカゲは窓を開けて外を見た。雪など一つも残っていない。あの「冬」の光景が嘘だったようだ。
ミカゲは窓から離れると、古い机に向かった。引き出しに手を伸ばし――わずかにためらった後、それを開ける。中には大理石の美しい板が、一つ、転がっていた。
ミカゲはそれを取り出し、机の上に置いた。そっと片手で撫でる。すると光の柱が立ち上った。光は淡く輝き、そしてその中に一つの形を作り始めた。
それは人の形だった。靄のようなものが渦巻き、離れ、またくっつき、人型を作る。すらりとした若い女性の形になる。長い髪を肩に下ろし、軽やかなドレスを身にまとった美しい女性。エヴァンジェリンだ。
エヴァンジェリンはミカゲを見て、歌い出した。しかし声までは聞こえない。「冬」に浜辺で見たエヴァンジェリンとはそこが違っていた。けれども他の部分はよく似ている。口を動かしながら、エヴァンジェリンは笑顔になる。そして、ミカゲへ向けて、その細い腕を伸ばした。
ミカゲもそれに応えるように、手を伸ばした。ミカゲの大きな手と、エヴァンジェリンの小さな手が重なり合う。しかし、触れ合うことはできなかった。
――――
マリアンヌが双子を迎えにやってきた。慌ただしく帰りの準備をしている双子たちを見ながら、マリアンヌはミカゲに言った。
「私たちの家に来て欲しいの」
ミカゲは迷った。ガーネット家にはもうずいぶん、足を踏み入れていない。踏み入れたくなかったのだ。けれども……。迷ったのは少しの間だけだった。ミカゲは気づけば、マリアンヌの申し出に「いいですよ」と答えていた。
客たちを見送った後、ミカゲはゆっくりとガーネット家の向かった。私たちと一緒に車に乗って行かないか、とマリアンヌに言われたが、辞退した。少し歩いて、ガーネット邸まで時間をかけて、心の整理をしたかったのだ。
緩やかな坂を上って、懐かしい門が見えてくる。緑の木々に囲まれたその先に、屋敷があるのだ。ミカゲは敷地内に入った。記憶にあるものと、だいぶ変わった気もする。もっとも、その記憶もおぼろで頼りないものではあるが。
音楽室の窓に枝を伸ばす、大きな木はそのままだった。ミカゲはなんとなく、窓を見上げたが、もちろん歌声が聞こえてくるわけもなかった。足を止めずそのまま玄関へと向かう。呼び鈴を押すと使用人が現れ、続いてマリアンヌが姿を見せた。
「今回は本当にありがとう」
マリアンヌは言った。仕事としては楽なものだったし、報酬ももらった。マリアンヌは何を思って自分を屋敷に呼んだのだろう。ミカゲは少し不審に思った。
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