春の女神

 そうして無事に連れて帰ってくることができ、エイダは満足していた。「冬」に目が覚め、しかもミカゲが行方不明という予期せぬ出来事が生じたが、しかしそれは解決できた。後は眠るだけだ。「冬眠」に戻ること。眠れる……かな、と少しエイダの心に不安が滲んだ。でも次はきっと大丈夫だ。根拠はないけど、そう思いたい。


 あの歌声のようなものは何だったのだろうとふと思う。ミカゲ発見に気を取られて、歌声の事は忘れていた。今、耳を澄ましても、聞こえない。風の音がするだけだ。木々を揺らす音、窓にぶつかり回る音。やっぱりただの空耳だったんだ、とエイダは思って、布団に入った。


 アデルは既にベッドの中にいる。アデルが、横になったままの状態でこちらを見た。


「……エイダ」

「どうしたの?」


 アデルが不安そうな、ためらいがちな声を出す。また何かあったのかな、とエイダも不安になる。



「そっち行っていい」

「そっちって、あたしのベッド?」

「そう。同じベッドで一緒に眠っていい?」

「いいよ」


 エイダが返事をすると、アデルが自分のベッドを出て、エイダの隣にするりと入ってきた。あまり大きなベッドではないので、やや窮屈ではある。けれども眠れないほどではない。


「ごめんね、エイダ。私、なんだか心配で、心細くなって、エイダにくっついていたくなって……」

「構わないよ」


 心細いのは実はあたしも一緒。エイダはそう思った。アデルの体温が暖かく、気持ちを落ち着かせる。そのことを言おうかどうしようか迷っていると、アデルが小さな声で言った。


「エイダ。……本当にありがとう」

「何が?」

「ミカゲさんを見つけるのを手伝ってくれたこと」

「いいよ。それは当然のことだし」

「エイダがいなかったら……私一人だったら、きっと何もできなかった。怖くてパニックになって、そのままだったと思うの」

「そんなことないよ」


 もしアデルが一人だったとしても、きっとアデルは勇敢にミカゲを探しに行っただろうと思うのだ。アデルは一途で猪突猛進なところがあるし……。エイダはここ何日かでつくづくそれを思い知らされていた。


「手、つないでいい?」


 恥ずかしそうに、アデルが尋ねる。微笑んで、エイダは頷いた。


「いいよ」


 二人の手が触れた。エイダはますますほっとした。アデルがいてくれてよかった。一人では何にもできなかった、とアデルは言うけれど、自分だって、たった一人では上手く行動できる自信がない。


 つないだ手が、不思議なことに淡く発光していた。エイダは驚いてそれを見つめた。アデルも目を丸くしている。そういえば前にもこんなことがあった。海辺で、過去を見たときだ。しかしその時よりも光は弱く、柔らかかった。


「今度は過去は見れそうにないね」


 エイダが言った。光が頼りなかったからだ。その言葉にアデルはくすりと笑った。


「もう見れなくてもいいの」


 頼りない光ではあったが、ほのぼのと優しかった。こちらの身体をそっと温めてくれるかのようだった。つないだ手を放す気にはなれず、エイダはぼんやりとその光を見ていた。


 眠気が次第にやってきた。アデルも眠そうだ。顔がぼんやりとしていて、瞼が閉じかかっていた。エイダはアデルに言った。


「おやすみ、アデル」

「……うん……おやすみ……なさい……」


 今度目が覚めたときには春だわ、とエイダは思った。今度こそ、間違いない。明るくて、楽しい季節が待っている。エイダも目を閉じた。眠気はさらに増している。よかった、眠れそうだ。


 風の音が眠りに落ちる寸前のエイダの耳に入ってきた。それと同時に違う音も。風の音に混じる、何か他の音だ。人の声のような……。うとうとしながら、エイダは思った。そうだ、歌声。ミカゲさんを探しているときに聞いたあの歌声だ。


 やっぱり歌声がするわ。エイダは確信を深めていた。アデルの言う通り、女の人の歌声。風の音に混じりながら、綺麗な澄んだ声が旋律を奏でている。きっと、歌っている人も綺麗なのだろう。エイダは歌い手を想像した。それは、一人の若い女性になり、さらには、すらりと手足が伸び髪が長く、長い裾の服を引きずる、春の女神のような姿になった。


 女神は歌っている。歌いながら「冬」の世界を巡っている。女神は大きくて、それと同時にとても小さいのだ。一人でもあるし、同時に複数の箇所に存在できる。裾を翻しながら、眠る生き物たちをそっと見守っている。芽吹きを待つ枝に触れ、小さな小鳥の巣を覗き、目を開いたまま眠る魚たちにも挨拶している。女神は楽しそうに歌っている。春の歌を歌うのだ。生命が目覚め、その活動を初め、生き生きと快活に動いたり踊ったり揺れたり増えたりする、そんな季節の歌を。


 女神はミカゲの家にもやってきた。するりと壁を通り抜けて、双子の眠る部屋へと入る。一つのベッドに寄り添う双子を見ると、微笑みを浮かべた。手を伸ばして、そっと、二人の頭を撫でた。そして、まるで煙のように、溶けるように、消えていくのだった。

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