7. 彼女は歌う

眠りの儀式

 「冬眠」の日がやってきた。今夜眠りについたら、次に起きるのは、春の朝だ。やることは既に全て済ませてある。けれどもエイダには気がかりなことがあった。


 アデルだ。裂け目が現れた日から、妙に大人しい。もともと大人しい性格ではあるが、それに輪をかけて大人しい。ショックが大きく、すぐには元のようには戻れないのだろう。かくいうエイダだって、今はそんなに明るい気持ちになれない。


 けれども春が来たら、とエイダは思うのだった。春になれば世界は一変する。暖かくて、明るくて、悩み事など吹き飛んじゃう。早く春が来て欲しいと、エイダは願う。でも、眠ってしまえばすぐだ。次の瞬間には、春だ。


 夜になり、ミカゲの家に集まった人々は、みな自分に与えれた部屋へと引き上げていく。アデルとエイダは大人たちよりも一足先に、自分たちの部屋に入った。エイダはベッドに上がって、枕を整える。ここに頭を置いて、目を瞑って――そしたらすぐに春だから、心配することなんて何もない。


 アデルはシルクのベッドを綺麗にしていた。洗濯した清潔な敷物を、丁寧に敷いていく。傍らにはシルクがいる。「冬眠」前のアデルの儀式のようなものだ。シルクの前に飼っていた犬に対しても、同じようにしていた。こうすることによって、アデルは心を落ち着けているのかもしれない。


 綺麗になったベッドにシルクを入れる。その毛を、アデルが無言で撫でていた。エイダはそれを見て、何故かわからないが不安な気持ちになった。アデルは何を考えているんだろう。裂け目が生じたその日の夜、眠る前に、アデルがエイダに謝った。


「……ごめんなさい。私が無茶したから。エイダまで危険にさらしてしまった」


 表情が暗い。倒れたこともあるし、まだ疲れが相当残っているのだろう。エイダはアデルを気遣って、首を振った。


「ううん。あたしは大丈夫だったし。あんまりくよくよ考えないほうがいいよ。今日はとにかくぐっすり眠ってしまったほうがいい」

「うん……ありがと。エイダが止めてくれたのにね。私もう……無理に魔法を使わない」

「それがいいよ」


 エイダは優しく言った。確かに考えてみれば、アデルの暴走の結果だと言えなくもないが、責める気にはなれない。


 アデルは黙り、目を閉じた。少ししてから寝息が聞こえ、エイダはほっとした。あたしも……裂け目を見て、ほんとはすごく怖かったけど、興奮が今も続いているけど、でもあたしも早く眠ったほうがいい。


 エイダも目を閉じる。瞼の裏に、あのぽっかりと開いた穴が姿を現す。言い知れぬ異様さに包まれる空気。――早く眠らなきゃ、とエイダは思う。早く眠って、そして忘れたほうがいいのだ。


 エイダが考え事にふけっていると、部屋の扉が開いた。ローアンがやってきたのだ。そして、いよいよ「冬眠」へ入る。先生におやすみの挨拶をする。


「先生と同じ部屋で「冬」を過ごすのって、初めてですね」


 ちょっと甘えたようにアデルが言う。本当にそうだ、とエイダは思った。ローアンと一緒であるということだけではない。こんな風に、自宅以外で「冬眠」するのも初めて。何事も起こらなければいい……ううん、きっと、何も起こるはずないけど。


「そうですね。今回は少し違った「冬眠」になりますが、でも大丈夫。あなたたちは何も心配せずに眠って。そして、また春に会いましょう」

「はい」


 アデルが素直に頷いて、自分のベッドへと向かった。エイダも布団の中に潜り込む。寝具は自分の家から持ってきたのだ。肌に馴染んでいて、温かい。安心できる匂いがする。


「おやすみなさい、エイダ」


 突然、隣から、アデルの声がした。エイダははっとした。目を向けると、アデルもすっぽり首まで布団に埋もれて、微笑してこちらを見ている。


「……うん、おやすみ、アデル」


 アデルがにっこり笑った。そして仰向けになると、その目が閉じられた。長いまつげが合わさる。それをエイダはぼんやり見ていた。あたしも眠らなくっちゃ。エイダも仰向けになると、そう強く思った。自室とは違う、ミカゲの家の天井を眺める。が、それも長い時間ではなかった。明りが消された。続いてローアンがベッドに入る音がする。


 暗闇の中、目を開けていても仕方ないので、エイダも目を瞑った。眠らなくっちゃ。そして――そして、次に目を開いたときには、春だわ。




――――




 ミカゲは目を開いた。自分が今、どこにいるのか、最初は把握できなかった。見慣れた壁、カーテン、布団に家具たち……。そう、よく知った、自分の家の部屋だ。


 いつもは物置に使っている部屋だが、客人たちに自室を譲ったので、今回はこの部屋で「冬眠」することになったのだ。目が覚めた、ということはもう春なのだろうか。しかしどうもそんな気配はない。


 横になったまま、ミカゲは視線をあちこちに動かした。カーテンのすき間から光が入ってきていいるが、薄暗い。春なら、「冬眠」から目が覚めるときは、いつも春の朝なので、もっと明るいはずだ。この暗さは朝とは思えない。


 光は白く頼りなく、部屋全体も白っぽかった。そこに灰色が混ざる。不思議な暗さだった。朝ではない。しかしさりとて夜でもない。昼間でもない。夕暮れ……というよりも明け方に近い。夜明けの世界だ。少しずつ闇が追い払われ、かといって太陽が完全に姿を出しておらず、辺りは静かで、でも生き物たちが目覚めようとしている瞬間の。

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