去っていくもの

 シルクはよい癒しとなった。シルクとの日々が辛さを忘れさせてくれた。けれども――忘却は既にその前から始まっていたのだ。


「幻を作ろうと頑張っていたとき、私は怖いことに気づいたんです。日が経つごとに、犬の姿を忘れつつあるということに。でも、それは当たり前かもしれません。傍らからいなくなれば、少しずつ、その姿を忘れていく。それが普通なんでしょう。でもなんだか――私は恐ろしくて――あんなに仲良くしていたのに……あんなに大事だったのに……」


 アデルはおぼろな形の幻をなんとかはっきりとしたものにしようと頑張ったのだ。頭の中で何度もの姿を思い描く。けれどもそれは次第に曖昧なものになっていく。黒い短い毛の犬。耳が立っていて、くるんと巻いた尾をしていて……。毛と同じく黒い瞳が信頼を込めてアデルを見つめていた。けれども細部がわからない。細かいところが、自分の手から離れて、戻らないものになってしまっている。


「私は――……」


 薄情な気がしたのだ。嫌な、苦い気持ちが湧き上がって、アデルは黙った。隣で、ミカゲが静かに言った。


「それは――そういうものだよ。それでいいんだよ」


 部屋はさらに暗さが増していた。この暗さではミカゲの表情も判別しづらいものになっていたかもしれない。けれどもアデルはそれを確かめることなく、視線を落としていた。




――――




 夜中、ボリスはふと目を覚ました。トイレにでも行こうかとベッドを出る。まだ半分眠ったような頭で、今日一日のことを思い出していた。今日、いやもう、昨日のことになるのかもしれない。大変な事件があった。


 急に裂け目が現れたのだ。ガーネット家の双子のすぐ側に――。ローアンとミカゲが早めに対応してくれてよかった。ミカゲの魔力の程度はどのくらいなのか、実はよく知らなったのだが、あいつはなかなかどうして、すごいやつなのかもしれない……。


 用を済ませて寝床に戻ろうとして、ふと、ボリスは階下から光が漏れていることに気付いた。誰かがまだ下で起きているのだ。こんな夜更けにどうしたことだろう、と思い、ボリスは階段を降りていった。


 明りがついていたのは食堂だった。ボリスは扉を開けて中に入った。そこにはミカゲがいた。食堂のテーブルで、ミカゲが何かを飲んでいる。ボリスに気付いて、こちらに視線を向けた。


「まだ寝てなかったのか」


 テーブルの方に歩いていきながら、ボリスは言った。ミカゲは少し笑った。疲れた顔をしている。無理もない、今日はあんなことがあったのだし、とボリスは思った。


 ミカゲが飲んでいるものが気になった。ミカゲはあまり酒を飲まないはずだ。酔っぱらった姿など見たことがない。今も酔っぱらってはいないが――しかし、どこか危ういような雰囲気もあった。


「何を飲んでるんだ?」


 椅子を引いて、ミカゲの向かいに座りながら、ボリスは尋ねた。コップの中の透明な液体を見ながら、ミカゲが答えた。


「酒を――少し」

「珍しいな」

「そうだな。確かに普段はあまり飲まない。でも今日は飲みたい気分なんだ」

「今日は――いろいろあったから。疲れたろう」

「うん」


 ミカゲは穏やかだ。ボリスを見て、少しおどけた感じで言った。


「ローアンさんにはびっくりした。彼女はすごい魔術師だな」

「そうなんだ。ガーネット家に来たのはここ2、3年のことだがね。でもかなり名を知られた魔術師で。双子たちにとってはよい先生だし、よい守り手だ」


 ボリスは時折、自分が魔力持ちでないことをもどかしく思うことがある。今回のように、魔力でなければどうにもならない危機もある。そんな時、自分はあまり役に立たない――けれども、できないことをあれこれ嘆いても仕方がない、と思うのだ。できることに目を向けようと思う。魔法ではなく、もっと何か、物理的な危険からなら、自分はガーネット家の人びとを守れるだろう。


 ボリスはそんなことを考え、そして、ミカゲに向かって笑いかけた。


「おまえもすごかったじゃないか。ローアン先生に負けないくらい活躍していた。おまえのおかげで、双子は助かったんだ」


 ミカゲはわずかに微笑んだだけだった。謙遜している……風でもない。ただ、疲れているようだった。ボリスの言葉もあまり上手く届いていないようだった。


「おまえはすごい魔術師で――どうして、「門番」にならなかったんだ?」


 ミカゲの顔から笑みが消えた。まずいことを聞いてしまったかもしれない、とボリスは思った。視線を逸らしたミカゲに、ボリスは追い打ちをかけるように、言葉を続けた。


「……エヴァンジェリンさまのことがあったからか?」


 ミカゲが「門番」になることを諦めたのは、エヴァンジェリンの死の後だ。二人が仲良くしていたことを、ボリスは知っていた。とても大切な、特別な存在なのだろうとボリスは思っていた。ミカゲにとってエヴァンジェリンは。そして逆もまた然り。


 ミカゲは今ではガーネット家に足を踏み入れることさえしない。友人の気持ちはわかる。いや、軽々にわかると言ってしまってはいけないのかもしれないが……。目を伏せたまま、ミカゲはボリスにぽつりと言った。


「俺は、エヴァンジェリンの遺体を見てないんだ」

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