暗い穴
ぐらりと、エイダを取り巻く全てが歪んだような気がした。天と地が逆さまになり、エイダは宙へ放り出される。――ような気がしただけだった。エイダはちゃんとそこに、ミカゲの家の玄関前に立っており、ひっくり返ってもおらず、その足は確かに地面を踏んでいた。
けれども自分がここに立っているという、確証のようなものがなかった。世界は非常に頼りないものになってしまった。手はいまだにアデルを掴んでいる。が、心細い。かろうじてアデルを見ると、アデルも困惑し、非常に怯えた顔をしている。
あたしたち――どうなのったの? とエイダが聞こうとした時だった。エイダはアデルの背後に恐ろしいものを見た。そこだけぱっくりと空間が割れている。周囲にぱりぱりとした電気のようなものを帯びた、暗い穴が大きく口を開けている。
「――アデル!」
やっとのことで、エイダは声を出した。そして、自分の方へ、アデルを引き寄せる。アデルが転がるように、エイダに身を寄せた。と、ミカゲの家の玄関が開いた。出てきたのはローアンだった。ローアンはたちまち穴と双子の間に立った。
「早く、中へ!」
そう言って、ローアンが双子を玄関へと促す。玄関は再び開き、そこから今度はミカゲとボリスが出てきた。
「これは一体――ボリス! この二人を頼んだぞ!」
「了解!」
ミカゲがボリスに命じ、ボリスが答えて素早く動いた。ボリスは双子を連れて、玄関の中へと入る。呆然としているエイダの背後で、扉が閉まった。
「あ、あれは……先生とミカゲさんは……」
震える声で、エイダは言った。足ががくがくしている。何かとんでもないものを見てしまった。この世にあってはならぬもの。決して触れてはならぬもの。ボリスは優しく二人に言った。
「恐らく空間に裂け目が生じたのでしょう。でも大丈夫。二人に任せておけば」
ローアンは力の強い魔術師だ。でもミカゲはどうなのだろう。彼もまた優秀な魔術師だと、周りの人たちは言ってはいるが。心配になりながら、エイダはとりあえず、隣のアデルを見た。アデルは蒼白で、全く言葉もなかった。
アデルがふらふらとエイダに寄りかかった。エイダが慌てて支える。ボリスも助けに入った。強い緊張のせいか、アデルが気を失ったのだった。
――――
気が付いたとき、アデルはベッドの中にいた。ぼんやりと、ここがどこであるか把握する。ミカゲさんの家。私たちに与えられた二階の部屋。そしてこれは私のベッド。
「大丈夫!? アデル!」
最初にエイダの声がした。大丈夫よ、と言おうとする。が、声が出てこない。見ると、エイダの他に、ローアン先生にボリス、そしてミカゲさん、さらには母までいた。
彼らから一通りのことを聞いた。裂け目が生じたこと。けれども、先生とミカゲさんの力によって、それは修復されたこと。エイダが興奮していて、こちらにやたらと話しかける。ローアン先生がそんなエイダをなだめている。もう少しアデルは休んでいたほうがいいだろうということになって、みんなは階下へ移動した。
最後に母だけが残った。双子の母は、マリアンヌは、強張ったような表情でこちらを見ている。
「――本当に……心配したのよ」
「……ごめんなさい」
アデルは布団をきゅっと握りしめた。母に心配をかけてしまった。良くないことをしてしまったのだ。落ち込んだアデルを見て、マリアンヌはやや表情を和らげた。
「エイダから話を聞いたわ。昨日、過去を見たそうね」
「そうなの」
……あんなこと、できるなんて思わなかった。けれども見たのだ。エイダと二人で。過去を、ミカゲさんとエヴァンジェリン叔母さまの過去を見たのだ。
それを思うときゅっと胸が痛んだ。けれどもアデルはそんな気持ちを表に出さないように努めた。
「エヴァンジェリンのことが気になっているのね」
マリアンヌの言葉にアデルははっとした。エイダはどこまで喋ったのだろう。そもそも……エイダはどこまで、こちらの気持ちを知っているのだろう。マリアンヌは少し眉をひそめた。
「エヴァンジェリンが「冬眠」の途中で亡くなったから……今回、自分たちもそうなるんじゃないかと、それを恐れているのね」
アデルが、ひどくエヴァンジェリンを気にする理由、それを母親は知らないようだった。アデルはほっとした。ほっとして、思わず、頷いてしまった。
マリアンヌはアデルに言い聞かせるように、ゆっくりと優しく言葉を紡いだ。
「大丈夫よ。――ええ、今回のことは、いつもと違った場所で「冬」を過ごすことになったのは、あなたたちに不安を与えてしまったわね。それはわかる。申し訳ないとも思ってるわ。でも大丈夫。この家にいれば大丈夫なの。何も心配しなくていいのよ」
アデルは再び頷いた。そして小さな声で言った。「はい。お母さま」いつもの従順な私だと、アデルは思った。そういえば、ここに来る前、あれこれ心配してたっけ。確かに……今でも、通常とは違う「冬眠」に対して不安はある。しかしそれは、以前ほどではなく、違うことがアデルの胸を占めていた。
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