白い病室
もがくように身体を動かし、ただ前進することだけを願う。ふと、背中に何か気配を感じた。追われている、という気持ちが身体を貫いた。何かが僕を追いかけている。手を伸ばし捕まえようとしている。その距離はもうわずかしかない。もう少しで捕まってしまう。長い腕が、みるみる伸びて、そして僕の背中に――。
ロープを持ち上げて、道に転がり出た。気付いたら、まだ太陽の暑さが残る地面に頬をくっつけ、倒れていた。右足がひどく痛むことにもその時気が付いた。いつの間にか、どこかでどういう風にか、わからないが怪我をしてしまったらしい。
痛みはひどく、ミカゲを悩まし、気分を悪くさせた。倒れたまま、立ち上がる気力もなかった。意識が次第に薄れていく。もう追手は来ない、恐らく来ないのだろうが……考える力も、逃げる力も、もちろん戦う力もない。ミカゲは全てを放棄して、ただ、目を閉じた。
――――
目を開けると、病室のベッドにいた。心配そうな両親の顔がまず目に飛び込んでくる。ミカゲは何が起こったか咄嗟に把握できず、ただぼんやりと二人を見つめていた。そうしているうちに次第に記憶が蘇ってきた。禁じられた場所に入ったこと。謎の光を目にしたこと。そして、そして――。恐怖と吐き気が込み上げてきた。ミカゲは必死で、それを思い出さないように努めた。
二人が語ってくれたところによると、道に倒れていたミカゲを近くに住む人が気づいて、助けてくれたらしい。原因は裂け目にあるのだろうと二人は思っていた。どうしてあんなところに行ったの? と母親が聞く。意識を取り戻したばかりのミカゲに気遣ってか、責めている口調ではないが、ミカゲには辛かった。答えることができない。
足の怪我は深刻なものではないが、ぐるぐると包帯が巻かれている。念の為に一晩入院することになった。言葉少なのミカゲを両親たちが複雑な顔つきで見つめている。父親がいささか厳しい顔で、これからはもう禁じられている場所に近づかないようにと諫め、そして二人は帰って行った。
それと入れ替わるように、別の人物がミカゲの元を訪れた。優しそうな中年の男性、その下半身はヘビの形をしている。グエンだった。
ミカゲは慌てて跳び起きた。グエンは安静にしているように言い、ミカゲの側までやってきた。既に夕暮れ時だった。ミカゲのベッドの横にある窓から西日が差して、グエンに当たった。
「気分はどうかね」
グエンが言った。ミカゲはすぐには言葉が出ず、けれどもおずおずと少しずつ答えた。
「……いえ、そんなに悪くは……」
両親の話によれば、あの場所に行ったのは昨日のことらしい。それから長いこと意識を失っていた。けれども、今はそんなに具合が悪いわけではない。ただ、嫌な後悔の気持ちが胸の中に淀んでいるだけだ。
「……。先生。……すみません」
ミカゲは謝った。決まりを破ったからだった。禁止を無視して、不用意に危険なものに近づいて、そして怪我をした。恥ずかしかった。
グエンは黙ったままだった。その顔は穏やかで怒っているようではなかった。病室に沈黙が流れた後、少し微笑んでグエンは言った。
「怪我がひどくなくてよかった」
「もう、二度とこんなことはしません。むやみに裂け目に近づくようなことは」
早口に、ミカゲは言った。グエンの言葉を聞くより、自分が何かを喋っているほうがよかった。けれども何を喋るべきがわからない。考えながら、ミカゲはただ、口を動かした。
「どうかしてたんです。なんだか最近、いらいらすることが多くて……上手くいかなくて……」
夕日が病室を照らしている。白い清潔な病室、そして暗い赤色のグエンのウロコ。どちらも整然とととのっており美しかった。どこか、自分と遠いところにあるもののように思えた。美しいエヴァンジェリンが唐突に思い出され、そしてまた、エヴァンジェリンも遠かった。
「僕は……ちっとも上手くいかなくて……魔力も大したことなくて……」
涙が込み上げてきた。泣くのは嫌だったが、堪えられそうになかった。顔が歪んでしまう。こんな姿を先生に見られたくはなかったのに。
「……こんなはずじゃなかったような気がするんですけど……僕は……「門番」になりたくて……」
その夢も今ではずっと遠く、ずいぶんとはかなく馬鹿げたことのように聞こえた。頬の涙を一生懸命拭うミカゲに、グエンがそっと言った。
「夢を諦めることはない。まだ君はたったの14歳じゃないか」
そう、14歳で。「たったの」14歳で、ちっぽけな子どもに過ぎないのだと、ミカゲは泣きながら思った。
――――
夏が終わり、涼しい風が吹く季節がやってきた。ミカゲの足の傷も癒えた。そして何事もなかったかのように、日常が続いていた。「門番」たちの仕事によって裂け目は消え、場所の不安定さは改善されていた。
ちょうど用事があって、ミカゲは祖父母の家に行った。その帰り道だった。ふと気になって、海岸に降りてみた。4年前の夏の日、エヴァンジェリンと出会って、そして仲良くなった、あの海岸だった。
秋の海は穏やかで、そして今日もあの日と同じように、人っ子一人いない。遠くの空を鳥が穏やかに旋回していた。よく晴れていて、空が高い。
エヴァンジェリンとはやはりぎくしゃくしたままだ。早く仲直りをしたい、とは思う。けれども別に喧嘩をしたわけではない。どうすればまた以前のような関係になれるのか、ミカゲにはわからなかった。そもそも考えてみれば自分が、とりたててこれといってずば抜けたところもない自分が、ガーネット家のお嬢さんと親しくしていたことがおかしかったのかもしれない。
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