異世界なんて怖くない
世界は無数にあると言われている。今この世界に暮らす人々は、元は別々の世界から大昔やってきたのだ。けれども帰る道が閉ざされ、ここに残ったと言われている。
「「冬」をもたらす世界とは多分、別なんだ。そこには俺たちの故郷もある。故郷はきっと良いところだっただろう」
ボリスは半信半疑の顔だった。そんなあやふやな「故郷」よりも、もっと身近な「冬」のほうが恐ろしいのだ、とボリスは言った。
異世界なんてちっとも怖くないし、裂け目だって恐れる必要はない。次第にそんな風に、ミカゲは思うようになった。そしてふとした思いつきが心の中に忍び込んだ。今、町に出現している裂け目……。近づいてはいけない、と言われているけど、ちょっと行ってみてはどうだろう。たぶんそんなに恐ろしいものではないはずだ。少し近づいて、すぐに逃げればよい。その裂け目の向こうには、「冬」ではなく、自分たちが後にした楽園が待っているのかもしれないし――。
ミカゲはそう思い、そして心密かに、実行に移すことに決めた。
――――
夏の日の、ごく普通の一日が終わろうとしている。夕暮れ時、オレンジと淡い藍色に染まった空の下を、ミカゲは歩いていた。問題の場所に行こうとしていたのだ。裂け目が生じた場所。周りの大人たちから、近づいてはいけないと言われている場所。
さすがに少し戸惑いはあった。でもちょっと覗いてみるだけだ。なんなら近づかなくてもよい。遠くから、眺めるだけ。それならば悪くはないだろうとミカゲは思うのだった。それに――きっと多分、そんなに恐ろしいものじゃない。
言い聞かせるようにそんなことを考えながら、ミカゲはいささか足早に歩く。裂け目は小さいものだと言われていた。だから、今のところはそこから何かがこちらにやってくることはない。らしい。ただ場が不安定になっているので、この裂け目が小さなままでいるとは限らないそうだ。
不安がささやかに、胸の奥で声をあげる。けれどもミカゲはそれを振り払うように歩いた。涼し気な風が吹いていた。蒸し暑くうんざりするような日だったが、この時間になると多少はほっとする。
歩きながらミカゲは考えていた。何故、こんなことをする? 行って、どうするというのだろう。馬鹿げたことをしているのかもしれない。気温が下がったせいなのか、ミカゲの心も多少冷静になっていた。しかし――戻る気にはなれなかった。
上手くいかなかった、魔法学校での課題が頭に蘇った。両親は、ミカゲが魔法学校で落ちこぼれつつあるのを薄々と勘づいている。魔術師である父親はミカゲに優しく言った。10代の頃は魔力が不安定で、上手く扱えなかったりすることが多々あるのだと。けれどもミカゲはそれで心が落ち着くというわけではなかった。
実際、そんな話はよく聞く。思春期に力がコントロールできなくなること。本当によくあることらしい。けれども――それならば、魔法学校の他の生徒たちだって同じ条件のはずだし――ミカゲはふと、エヴァンジェリンを思い浮かべた。華やかな友達に囲まれて、楽しそうに笑っているエヴァンジェリン。どんな課題もさらりとこなすエヴァンジェリン。彼女にスランプだった時期などあったのだろうか。
薄暗くなりつつある空に、星が一つ光っていた。町のはずれで、辺りは青い畑が広がっており、その奥に、森が見えた。ミカゲはその方向に急ぐ。
木々の間にロープが張られていた。立ち入り禁止を示しているのだ。ミカゲはロープに近づいた。ふいに胸がざわついた。よくない気配というものが、ミカゲの背を撫でた。けれどもミカゲは決心を変える気はなかった。そっとそのロープの向こうへ入っていった。
――――
足を一歩踏み入れた途端、わっと叫びたくなるような、とてつもなく恐ろしい嫌な気持ちが、全身を駆け抜けた。出たほうがいい、とミカゲは思った。けれどもそれは一瞬のことであった。すぐに平常心の、切れ端だけでも取り戻し、ミカゲはなんとかその場に立っていた。
全く平気になったわけではない。けれども少しは落ち着いた。ミカゲはそっと足を動かした。ぴりぴりとする――皮膚を撫でる何か――何ともいえないもの――言葉にはできないもの――そんな気配がミカゲを取り巻いていた。大丈夫、落ち着け、と何度も自分に言い聞かせる。しかし、鼓動は早く、身体は少し汗ばんでいる。
森の中は暗かった。頭上を木々の梢が覆い、足元を低木や茂みが邪魔をする。ミカゲはそっと植物の間を分け入った。前方に目を凝らすと、何かうっすらとした光が見えた。
何だろう、とミカゲは思った。鼓動がさらに早く、大きくなる。あれが、裂け目、とやらなのだろうか。あまり直視をしたくないが、視線を外すこともできなかった。近づくにつれ、光はさらに大きくなっていった。と、突然、見ているものが歪んだ。ぶれて、歪み、形をなくして、全てのものが混沌と、ミカゲに迫ってきた。ミカゲは悲鳴を上げた。
光がさらに大きくなる。ミカゲは渾身の力を振り絞って、光に背を向けた。逃げ出そう、逃げ出さなければならない。強くそう思った。けれども、ミカゲの目の前で森全体が大きくぐるぐると渦を巻いていた。上も下もわからない。自分がきちんと立っているのかさえもわからない。
それでも必死にミカゲは足を動かした。何かにぶつかった。たぶん、木の幹だと思うがそれさえもはっきりしない。草や葉がミカゲの身体を容赦なく痛めつける。ミカゲはただただ夢中だった。ここから出なければ。その思いだけが頭を支配していた。
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