水の馬

 波が盛り上がり、形を作ったのだった。それは生き物のようだった。何かの意志を持って、海水が異様な動きをしていた。盛り上がった水はミカゲの目の前でみるみると変形し、そして一頭の馬の頭部となった。陽の光を跳ね返し、輝きながら、頭部から首、続けて前足が現れ、足は高く上げられ水の馬は大きく前身を逸らした。


 ミカゲはびっくりして悲鳴を上げて後ずさってしまった。エヴァンジェリンが笑っている。目が輝いている。


「びっくりした? これは私が魔法で作り出した馬で……」

「何をやってるんですか!」


 怒りが、ミカゲの胸に湧き上がった。馬がその形を保てなくなった。また再び水に戻り、重力に逆らえずに海へと戻った。その際のしぶきがミカゲにも散る。ミカゲは怒ったまま、エヴァンジェリンに言った。


「魔力はそんなに軽々しく使ってよいものじゃないでしょう!?」


 これは、魔力を持つもの全てに、ミカゲ自身も周りの大人たちから言われていることだった。力を軽々しく使えば、それは時に暴走し、制御が効かなくなる。使うときはきちんとしかるべきときに、遊びで使ってはならない……。魔力を持つものの鉄則なのだ。


 この決まりをエヴァンジェリンがあっさりと破ってしまったことにミカゲは怒っていたが、さらにはもちろん、驚かされたことにも怒っていた。また、無様な姿を見せたことも非常に腹立たしかった。エヴァンジェリンの顔からは笑みが消えていた。非常に真面目な、殊勝な表情になっていた。


「……。ごめんなさい。確かに、あなたの言う通りね」

「いえ、わかってくれればいいんですけど」


 態度ががらりと変わってしまったので、ミカゲはやや戸惑った。エヴァンジェリンはしょげている。明らかにわかるくらいに。ミカゲは付け足した。


「わかってくれればいいんです。あの、えっと、僕はもうそんなに怒ってないので……」

「そうなの? ならいいんだけど……。ごめんなさいね、驚かそうとして」


 エヴァンジェリンはサンダルを取ると、それに濡れた足を押し込んだ。ハンカチかタオルでも持っていればとミカゲは思った。エヴァンジェリンに貸して足を拭くこともできるのに。しかし残念なことにそのどちらもミカゲは持っていなかった。


「……なんだか言い訳がましくなっちゃうけど……」エヴァンジェリンが言った。「私、いつもはこんなことしないのよ。こんな風に不用意に魔力を使うこと。でも今日はなんだか特別だったの。なんだか妙にはしゃぎたくなっちゃって、私……」


「えっと、それは天気が良いから……」


 何と言っていいやらわからず、ミカゲは自分でもとんちんかんだと思える意見を言った。エヴァンジェリンは神妙に頷いた。


「そう。天気がいいから気分が上がってしまったのかも」


 エヴァンジェリンはミカゲを見て少し微笑んだ。


「じゃあ、私はもう帰るわね」

「あの……」


 がっかりさせたまま返すのはどうかとミカゲは思った。けれどもその原因は向こうにあるのであって、こちらが悪いわけではない。けれども気を遣ってしまい、ミカゲは思わず言っていた。


「あの、またどこかで会えるといいですね」


 言った後でミカゲは自分の言葉に呆れていた。図々しくないだろうか。ガーネット家のお嬢さんに変なことを言ってしまった気がする。けれどもエヴァンジェリンは気にしていないようだった。むしろ、ほっとしたような、明るい笑顔になった。


「本当ね。また会いましょう」


 エヴァンジェリンはそう言い、そして去って行った。生成りのワンピースの背中がどんどん離れていく。それをミカゲはぼんやりと見送った。なんだか変わった――こう言ってしまうのは失礼かもしれないが、ちょっぴり風変りな人だったな。


 ミカゲは先程見た水の馬のことを思い出した。魔力によって、少しくらいなら物を動かすことができる。あの馬もそうした力を使ったものだろう。けれども……動かすことができるといっても大抵はほんの少しなのだ。あんなに大きな魔法の馬は見たことがない。あんなに大きく精巧で生き生きとした……。怖さが、ミカゲの心に兆した。どれだけの力の持ち主なんだろう、あの人は。


 エヴァンジェリンの姿は既に見えなくなっていた。浜辺はまた人影一つなく静寂が戻っていた。波は穏やかで煌めいていた。いらいらするような暑さも変わっていなかった。僕もそろそろ戻ろう。そう思ってミカゲも海に背を向けた。




――――




 夏の間、学校の長期の休暇に入る。ある時、ミカゲの父親が言った。一緒にガーネット家に行かないか、と。


 お茶の時間に呼ばれているらしい。息子さんも一緒にどうぞということだった。ミカゲはどきりとした。どうして僕も呼ばれているのだろう。エヴァンジェリンが、海岸で僕に会ったことを家族に言ったのだろうか。


 それは秘密にするようなことでもない。けれどもミカゲはそれを自分の家族に話してなかった。理由は特にない。ただ、なんとなく、だ。


 あの海岸での一件から一週間ほどが経っていた。ガーネット家に行くのは何故か緊張した。あの人にまた会えるだろうか……エヴァンジェリンという人。琥珀の目をした人。馬の怪物を作った人――。ミカゲは心が騒いだ。

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