3. 夏の少女
夏の少女
暑い、夏の午後だった。ミカゲは――彼はこの時まだ10歳だった――うんざりするような気持ちで海辺に立っていた。夏休みを利用して祖父母の家に遊びに来ていたのだ。とはいえ特にすることはない。一人でふらふらと散歩に出てみた。
石の多い浜に、波が穏やかに打ち寄せる。入り江になっているせいか、あまり高い波にはならない。抜けるような青い空を反映して、海の色も恐ろしく青いが、浜辺が石だらけなせいか、ここで泳ぐものはいない。もう少し先に行けば小さな海水浴場がある。しかしそもそもミカゲはあまり泳ぎたいとは思わない。泳ぎが下手なのだ。
ボリスなら嬉々として泳ぐのだろうが、と、ミカゲは思った。ボリスは幼馴染だ。運動神経が抜群で、オオカミの顔したボリス。陽気で大らかな性格をしている。ミカゲとはずいぶん性格が違うが、物心ついたときから一緒にいるせいか、仲良くしていた。ボリスは単純といえば単純なのだが、しかしそれは真っすぐな心を持つということで――あんまり褒めるのは照れくさいが――まあいいやつだ、とミカゲは思っていた。
帽子を持ってくればよかった、とミカゲは後悔していた。真夏の太陽がじりじりとミカゲの頭を焼いている。光が、波の上できらきらと眩しく輝いている。風が少し強く吹いて、波を揺らした。帽子が欲しい――と思ったからではないだろうが、その時、ミカゲの目の前を、一つの麦わら帽子がころころと転がっていった。
風に煽られて誰かの帽子が飛んだらしい。ミカゲは反射的に帽子を捕まえていた。白いリボンが巻かれ黄色い花が飾られた麦わら帽子だった。「ごめんなさい!」と近くで女性の声が聞こえた。
ミカゲは声のする方を見た。ミカゲより年上の、ミカゲより少し長身の少女がそこには立っていた。生成りの袖なしのワンピースを着て、長い茶色の髪の毛と、スカートの裾が風に揺れていた。ちょうど太陽の方角に立っていたので、眩しくてミカゲは少し目を細めた。そしてじっと少女を見た。どこかで見たことがあるような気がする……。
「帽子が飛んじゃって……。拾ってくれてありがとう」
そう言って、少女はミカゲに近づいてきた。綺麗な顔立ちをしている。琥珀色の大きな目。ミカゲは思い出した。この人はガーネット家の人だ。
この町にある「門」を管理する、その中心的存在ともいえるガーネット家。「門番」である父がガーネット家とも親しくしていて、一度ミカゲも彼らと会ったことがある。5人の娘がいるのだ。末っ子はミカゲより3歳ほど年上で……そう、目の前にいるこの少女だった。
少女のほうも、何かに気付いたようだった。ミカゲを見て、少し自信なさげに言う。
「あなたは確か……ストウさんとこの息子さん」
「そうです」
そう言ってミカゲは帽子を少女に手渡した。白くて細い少女の手が、帽子を受け取った。
「私のこと、覚えてる? 一度しか会ったことないけど、私はガーネット家の娘で……」
「エヴァンジェリンさま」
「そうそう! 覚えててくれたのね!」
少女が、エヴァンジェリンがぱっと明るい笑顔になった。エヴァンジェリはもらった帽子を被り、さらにミカゲに近づいた。ミカゲは緊張した。ガーネット家といえば遠い昔の偉大な魔術師の血を受け継ぐ一家で、この町でも少し特別扱いされている。自分も魔力持ちで、恐らく将来は立派な魔術師になるであろうと思うが、しかしどうも気後れしてしまう。
それにエヴァンジェリンが美しいのも問題だ。妙に意識してどきどきしてくる。けれどもこんな事を向こうに悟られるのは非常に恰好が悪い。そこで、ミカゲは努めて平静を装ったのだった。
「この近くに住んでるの?」
ミカゲの気を知らず、エヴァンジェリンが無邪気に聞いていくる。ミカゲは落ち着いて答えた。
「いえ、住んでるところはもう少し遠くです。でも近くに祖父母の家があって、今はそこに来てるんです」
「そうなんだ。私は友人の家を訪ねた帰り。ここ、いいとこね」
そう言ってエヴァンジェリンは目の前に広がる海を見た。確かに綺麗な青い海が広がっている。が、どこにでもあるような、平凡な田舎の海だ。そうかなあ、そんなにいいとこかなあとミカゲは思った。
「ただ、今日は暑くて」
エヴァンジェリンが顔をしかめた。しかめっ面になっても、その顔は愛らしい。
「歩いててね、海に入りたくなったの。もうちょっと行くと海水浴場があるでしょ。でもそっちは家とは反対方向だし、そもそも私、水着を持ってないし……」
エヴァンジェリンは喋りながら、波打ち際へと歩いて行った。
「でもちょっと、海に足をつけてみようかなって思ったの」エヴァンジェリンは振り返ってミカゲを見た。そして聞いてくる。「どう思う? いいと思う?」
こちらに聞かれても、とミカゲは思った。何と返事をすればよいものやら。とりあえず、海に足を付けてはいけないという決まりは知らない。そこで適当に答えておいた。
「いいんじゃないですか」
「そう。そうよね」
エヴァンジェリンは白いサンダルを脱いだ。なめらかなかかとが見え、そしてその足を波が包んだ。「つめたーい!」と言って、エヴァンジェリンが楽し気に笑っている。またミカゲのほうを見て、エヴァンジェリンは言った。
「あなたも来てみたら?」
「いえ、別にいいです」
「そうなの? おいでよ」
誘われたら仕方がない。ミカゲは渋々と近づいた。その途端、不思議なことが起こった。
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