ミカゲさんはいい人
「海辺を散歩するのって好きなんです。あ、泳ぐのは苦手ですけど……。でも浜辺を歩いて貝殻や小さな生き物を見つけたり……、あ、そういえばカニがいますよね。今の季節はいませんけど……」
もう「冬」が近いので、ねぐらに籠ってしまっているのだろう。ちょうどアデルたちがそうするように。アデルはエイダとともにカニを捕まえたときのことを思い出した。
「カニって、面白いですよね」
「そうだな」
なんだか唐突な言葉になってしまったが、ミカゲは穏やかに同意してくれる。この話を膨らませようとして、アデルは一生懸命知恵を絞った。カニ……カニ……。しかし自分はカニについてそんなに詳しくはない。
「……カニは……カニはえっと、横に歩いて……そういうところが面白い……」
「うん」
ミカゲの言葉に笑いを堪えているような雰囲気があった。アデルはたちまち真っ赤になってしまった。どうして私はこんなに話が下手なのだろうか……自己嫌悪でつい俯いてしまうと、穏やかなミカゲの声がした。
「俺も幼い頃はよく海辺で遊んだよ。それに俺も泳ぐのが苦手だった」
「そうなんですか?」
驚いて顔を上げてしまう。隣にいるミカゲは痩せていて機敏そうで、泳ぎが苦手には見えないが。
「そうだよ。でもボリスは得意だった。あいつは運動なら何でもできるし」
「ああ、そう、確かにそうですよね! ずっと護衛をしてもらっているんですけど、本当にすごく運動が得意で。身体を動かすことが好きみたいですね」
ボリスとミカゲは幼馴染だったと聞いている。知っている人間の話が出て、アデルはほっとした。そしてエイダの事を思い出したのだ。
「エイダもなんです。エイダも運動が得意なんです。私と違って……。エイダはずっと明るくて活発で……」
「でも見た目はよく似てるじゃないか」
「見た目はそうなんですけど。でも性格は全然違うんです。エイダは――」
エイダの事ならいくらでも話せる気がした。そこでアデルはこの双子の片割れの事を話したのだった。家での出来事、学校での様子。ミカゲは面白そうに耳を傾けていた。
エイダの事ならよく知っている。そう話しながらアデルは思った。少なくともカニよりもずっと。エイダの事なら言葉に詰まらずに話せることが分かった。エイダはアデルにとって自慢の、憧れの姉妹なのだ。ミカゲは時折質問を挟みながら、聞き役に徹していた。アデルははたと気づいた。私ばかり喋りすぎじゃないかしら。
「あ、あの……そろそろ朝食の時間かもしれません。家に帰ったほうが……」
アデルは話をやめて、そう切り出した。ミカゲが同意し、そこで家に戻ることにした。話の間、少し離れたところでふらふらしていたシルクを呼び、リードをつける。二人と一匹は前後して階段を上った。
男の人とこんなに話したのは初めてじゃないかしら、とアデルは思った。家族やボリスを別にして。ミカゲさんはいい人みたい。昨日からそう思っていたけど、今はもっとずっと強くそう思う。よかった、「冬眠」を過ごすのがこの人の家で。ミカゲさんはいい人で――それにとっても話しやすい。
何故か心が弾んでいた。家に帰れば確かに朝食の準備が整っていて――それはボリスが準備したものだった――エイダとローアンも起きていた。ボリスの料理の腕は本当に確かなものだった。この日は、パンと卵とサラダの朝食、魚介のパスタの昼食、焼いた肉に特製のフルーツソースをかけた夕食を堪能して、双子とローアンはボリスの特技を知っていたけれど、それを知らなったミカゲは心底感心した様子だった。
「おまえが来ることを多少面倒に思っていた部分がなくもないけど――」そうミカゲは言った。「これなら大歓迎だな。合格だ! おまえはうちにいてもよし! 俺が許可する!」
「ミカゲ、おまえが許可するとかしないとかそういう話ではないんだ」ミカゲの言葉にボリスは真面目な顔で言った。「ガーネット様からそう命じられた。だから俺はここにいる」
エイダがそれを聞いて笑った。アデルも笑った。いつも冷静なローアンも少し頬に微笑が見られる。アデルは楽しかった。一昨日までは考えられないことだった。
一日が終わり、ふわふわとした気持ちでアデルはベッドに入った。ローアンはまだ部屋に来ておらず、エイダとアデルの二人だけだった。エイダはアデルを見て、面白そうに言った。
「なんだか機嫌がいいみたいね」
「そうかな」
「そうよ。浮かれてる」
「浮かれてはないわ」
アデルは否定した。そう、浮かれてはない。そう思う。
けれどもエイダは納得してくれないようだった。
「いーや、浮かれてる」
「……そうなのかな。もしそうだとするとそれは多分……ここがそんなに嫌な場所じゃなかったから」
「よかったじゃない。あたし結構困ってたんだから。アデルが散々ごねるから。でも来てみてよかったでしょ」
「うん」
アデルが素直に頷いて、エイダが笑っていた。静かな夜だった。恐れることは何もなかったわ、とアデルは思うのだった。私一人がここに来るんじゃなくて、エイダもローアン先生もボリスも一緒なんだし、それにシルクもいていいってことになったし、それに――アデルは少年っぽさを残したこの家の主のことを思い浮かべた。
それに――ミカゲさんはいい人だわ。
――――
「冬」の間、学校は長い休みに入る。「冬眠」の10日ほど前から長期休暇は始まる。その間課題も出るのだが、それをエイダが家に忘れてきたことが発覚し、エイダとアデルは取りに戻ることになった。
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