2. 閉ざされた扉
朝の海辺
アデルはシルクを連れて海岸に来ていた。ミカゲの家で最初の一晩を過ごし、その翌朝だった。いつもより早くに目が覚めてしまったのだ。朝食の用意もまだできていなかったので、シルクと朝の散歩をすることにした。
アデルたちが住んでいるのは小さな海辺の田舎町だった。アデルの家も海に近いが、ミカゲの家はさらに近い。歩いて1分もかからないうちに、海だ。湾になっており、湾の出口には島々があるのであんまり開けた海の光景とはならない。けれどもそれなりに広くすがすがしい景色が広がっている。
海岸は石が多く、綺麗な砂浜ではない。アデルは堤防の下に連なる岩の上を歩いた。秋も遅い、ひんやりとした早朝だ。辺りはまだ少し灰色がかっている。見渡す限り誰一人いない。アデルはシルクのリードを離すことにした。自由になったシルクは喜んで駆けだしていくが、アデルが呼ぶとすぐに戻ってくる。
シルクと一緒に「冬」を越せることになって本当によかった、とアデルは思った。アデルたちのベッドを置いた部屋の片隅に、家から持ってきたシルクのベッドも置いた。シルクはそこで居心地良さそうに丸くなっていた。そんなシルクを見ながら、アデルもまた幸せな気持ちで、自分のベッドに横になったのだった。初めてのところだからなかなか寝付けないかもしれない――ここに来る前はそんなことを心配していたが、予想外に、すぐに眠りに落ちてしまった。
本当はすごくここに来たくなかったのだ。「冬」を自分の家以外で過ごしたことはない。そんなことは考えられない。きっと寝付けなくて、ひとりぼっちで、みんなが「冬眠」しているなかをすごく寂しい辛い思いをして過ごすんじゃないかと思ったのだ。エイダは、「冬」になればみんな自然に寝てしまうから、そんなことない、と言ったけれど。でもどうしてそう言い切れるだろう。
ミカゲの事も心配だった。昔々に会ったことはあるそうだけど、覚えていない。もし、おっかない人だったらどうしよう。ボリスは――アデルはそもそも男性というものが苦手だが、ボリスは小さい時から一緒で家族のような存在なので怖くない――ハンサムな人だといっていた。だから少し期待していたが、思っていたほどではなかった。でも優しそう。シルクを受け入れてくれたし。ハンサムであることよりも、性格が良いことのほうが大事だ。
シルクがどんどんと先を行ってしまう。アデルはそれを追ってのんびりと歩いていたが、途中で呼び戻した。あんまり遠くへは行きたくなかった。そこでくるりと向きを変えてもと来た道を帰ろうとする。そこで、あっと思った。
視線の先に、人がいた。背の高い、若い男性だ。ミカゲだった。
――――
アデルは困ってしまった。このまま進めばミカゲと対面してしまう。他に道はない。ミカゲのほうもアデルに気付いたようだ。ますます困ってしまった。
対面すればよいのだが、ミカゲと二人きりというのが困るのだ。何を話せばいいのだろう。エイダがいれば……エイダがいれば、彼女が喋ってくれて、私は頷いているだけで済むのに……。アデルはそう思った。しかし残念なことにエイダはいない。
シルクもミカゲに気付き、一直線にそちらに走って行った。ミカゲが笑う。たちまちミカゲの元にたどり着き、ぴょんぴょんと飛びついた。ミカゲは笑顔でその頭をなでた。
「あ、あの……」
アデルも近づいて、声をかける。ミカゲはシルクに向けていた笑顔を今度はアデルに向けた。
「おはよう。早起きなんだな」
「えっと、そ、そうでもないんです。いつもは。朝はそんなに得意じゃなくて、でも早くに目が覚めてしまって……。あ、あの、おはようございます!」
挨拶をされたのに、それを返していないことを喋ってる途中で思い出したのだ。慌てて言って頭を下げるアデルに、ミカゲはますます笑顔になった。
「慣れないところだから、早くに目が覚めてしまったのかな」
「いえ、そんなことはないと思います。あの、すごくいいところで、昨晩はぐっすり眠れました」
「本当か? ならいいんだが」
本当だった。自分でも不思議なくらい、すやすやと眠れたのだ。アデルはおずおずとミカゲを見上げ、まともに目が合いそうになってびっくりして視線を逸らした。何か話したい。何か話したほうがいいんだろうと思う。黙ったままでいるのは失礼だろうし。けれども何を話せばいいんだろう。
「えっと……その、朝の海って素敵ですね」
「そうだな。空気が澄んでて」
「私、海って好きです。朝じゃなくて、昼間でも……」
実際、そうだった。この小さな海辺の田舎町で生まれ育ったアデルは、この海を愛していた。とても風光明媚というわけではないけど、有名な観光地というわけでもないけど、けれども好きな海だ。
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