魔法の板
「場が不安定になる」というのは、世界を隔てる壁が不安定になることだ。裂け目が生じる。そこから、異世界から、何かがやってくる。アデルは首をすくめた。
「ひょっとしたらたまに、叔母さまの部屋に裂け目が生じるのかしら。そこから「冬」がやってくるのかも。冷たい雪とかすさまじい風とか暗闇とか、それ以外にももっともっと――君の悪い生き物たちも現れるのかも……」
そうなのだろうか? エイダは叔母の部屋の秘密を解き明かしてみたいと思う。実際にそこに入ってみたい。しかし禁じられていることだし、どうしても躊躇われてしまう。エイダとて、そんなに進んで決まりを犯したいわけではないのだ。
もう少し話を続けたかったが、エイダはそこで黙った。部屋の扉が開いた。階下から、ローアンがやってきたのだ。
――――
最初に双子が、続いてローアンが二階へ上がり、居間にはボリスとミカゲが残された。ボリスは友人の顔を見た。
気楽そうな、しかしどこか心の奥底を隠しているような、そんな顔。昔のほうが分かりやすかった。プライドが高く、どこかつんけんしたところのある奴だったが、その割には真っすぐで不器用なところもあった。
いつから変わってしまったのだろう。それはボリス自身もよくわかっている。8年前からだ。8年前の「冬眠」の後、ガーネット家の末の娘が亡くなってから……。
「お前と「冬」を過ごすのは初めてだな」
ボリスは言った。家が隣だったために、物心つく頃から知っている。けれども一緒に「冬」を過ごしたことはない。
「そうだな。といっても、眠ってるだけだからあまり関係のないようなものだけどな」
そう、「冬眠」の季節になれば自然に眠くなる。そして夢も見ずに眠る。気づけば春だ。もう10日ほどもすれば、みなが眠りにつく季節がやってくる。
ボリスは話を変えた。言い出しにくいことだったが、しかし、言っておきたいことがあるのだ。
「――たまにはガーネット家に顔を出したらどうだ?」
8年前の一件以来、エヴァンジェリンの死以来、ミカゲはガーネット家の敷地に足を踏み入れていない。理由は本人も言わないが、しかし、なんとなくわからないではない。ミカゲはエヴァンジェリンととても親しくしていた。だから辛いのだ。彼女の思い出の残る場所に足を踏み入れることが。
「……。別に向こうから招かれているわけでもないし」
「昔はよく遊びに行ってたじゃないか」それはエヴァンジェリンがいたからだ、とボリスは思った。でも黙っていた。代わりに別のことを言った。「俺に会いに来てくれてもいいだろう? そうだ、俺がお前を呼ぶよ」
「お前はガーネット家の人間じゃないだろう?」
ミカゲが苦笑している。ボリスは負けずに言った。
「そうではないが、護衛係として屋敷を訪ねることは多いよ」
ミカゲは中途半端な笑みを浮かべたままだ。ボリスは真剣な口調で言った。
「なあ、ミカゲ……。お前は「門番」になると言ってたじゃないか。今からでもその夢を叶えてみないか」
「無理だね。それに俺は今の生活が気に入っているし」
「そうなのか? お前は魔法の力が強くて、周囲に期待をかけられてたじゃないか。お前自身も自分の腕にずいぶん自信を持っていたし……」
「己惚れだったよ。それに期待は重荷になる。俺はもうごめんだね」
「そうなのか……」
ミカゲが「門番」だったらなあ、と思うことがある。幼い頃、それぞれの夢を話し合った。ボリスはガーネット家の護衛になること、ミカゲは「門番」になること。あの時の夢は半分叶って、半分叶っていない。ボリスとしてはそれが歯がゆくもある。
けれども本人にその気持ちがなければ、どうすることもできないのだ。
――――
3人の女性たちに続いて、ボリスとミカゲも二階に上がった。ミカゲは自分の部屋に入った。二階には三室ある。いつもは一番広い部屋を自室としているが、双子とローアンに譲ったので、いつもは物置として使っている部屋を急遽片付けて使うことにした。
部屋の隅に置かれた机の前にミカゲは立った。古い木製の机だ。一番上の引き出しにそっと手をかける。開けようかどうしようか迷って――結局やめる。ミカゲは引き出しを軽く撫でただけで、その手を離した。
この中には大切な品があるのだ。とても大切なものが。エヴァンジェリンからもらったものだ。小さな大理石の板。しかしただの板ではない。それには魔法がかけてある。ミカゲと、エヴァンジェリンが、二人で魔法をかけたのだ。
思い出がよみがえり、胸の奥がうずいた。ミカゲは机に背を向けた。魔法の板はエヴァンジェリンが死んでここにそれをしまって以来、一度も出していない。出す気にはなれなかった。
複雑な気持ちを追い払うように、ミカゲは机から離れた。
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