#3・クベルナ




 クベルナは自らの手の内をじっと見つめた。少々の小銭がそこにはある。それだけしかない。神殿兼事務所の出納を握っているあのぽんこつは、女神であるものに一食を慎ましく食べる分しか寄こさなかったのだ。

 盛んな呼び込みが響き渡る日中の南東地区だ。きのう訪れて『やられたらやりかえしてもいい、立っている限り』という好ましい流儀もあり、留守番もそこそこに街へと繰り出したのだ。

 留守番には特別にかわいがっている獅子と蜂を置いてあるから、なまなかな戦力では突破できないはずだ。玄関に人語を解する獅子を配備した。

 くわえて簡単な受け答えもできるように「はい」「いいえ」「お仕事の依頼ですか?」の三つの立て札も用意しておいたのだ。万全極まりない措置を取っておいた己の才覚に、ときどき戦慄すら覚える女神だ。

 喧嘩の数に比例するように、熱量の高い連中が多く住まう。火鍛冶や金属合わせなどの火を使う工匠たちの工房もある。ゼントヤ研究学院の魔術工匠の作り出す理論的な魔術機械とは真逆の、荒々しく破壊的な被造物たちだ。


「おいおいおい姉ちゃんおい。なんで生きてるんだあんたおい」

「斬新ないちゃもんのつけ方だからくたばりなさい」


 ためらいなく剣尾蜂で切りつけようとするが。


「せいやー、あちょーう!」


 それより先に男が白目をむいて倒れていた。

 蹴り倒したのは年端もいかない幼女だった。せいせいが十二歳くらいの、純粋な人間種族だ。

 桃色の髪は手入れというものをまるで知らないらしく、あちこちで跳ねたり丸まったりとせわしない。一食分どころではない、色とりどりの汚れがそのままになっているシャツからして、着るものにも無頓着なのが丸わかりだった。汚れていないのはその瞳だけだ。

 幼女の肩には羽根つきの小人が――さらさらの橙色の髪のあいだから二本の触角が生えている。たしか信徒が妖精種族だとか言っていた――ちょこんと座っている。

 クベルナのように赤かったはずのタッタの瞳は、落ち着いた黒に戻っていた。


「タッタ、ピーナ思うんだけどね、いくらなんでも不意打ちはひどくないかなぁ」

「いーよ別に。あたいがいいって思ったんだからいーの」

「そっか。そだねぇ」


 甲高い声の幼女と妖精がこしょこしょ話を終えて、クベルナを見る。


「おねーちゃん……じゃないね。おばーちゃんだいじょぶ?」


 女神は反射的に頭をはたいた。いだぁとカエルの潰れた声。


「あーっ、タッタ平気ぃ?」

「はたいたわよ」

「過去形だし、いだい。おねーちゃんは、だいじょぶなヒトですか」


 それはそれで、問題がある人物のような呼び方だったが。訂正していては話が進むこともなさそうだったので、まあそうねと曖昧に頷いた。

 ――なんだかあたし、すっかり譲歩ってのを覚えちゃったわね。


「そっかーならよかったー。あたいはタッタ・ダッタ。じゅーにさいだよ! おば……おねーちゃん、はいっ」


 タッタなる幼女が手を出してきた。年の割には苦労の跡が残っている手だ。差し出された理由はさっぱりだが。


「なぁにこの手は」

「お助け料ちょーだいっ」

「もう一回はたいてもらいたいのかしら、このガキは」

「ちょっと、そんな言い方はないでしょ。タッタはあなたが危ないって思って、背中に必殺キックをおみまいしたんだからぁ」


 羽根つきの、妖精なるものがクベルナの眼前に躍り出る。細い触角に色鮮やかな蝶のごとき四枚翅。その小ささもあって、愛くるしさを感じる者は多いのだろう。


「えっなにこの手ぇ」

「ふんっ」


 むんずと掴んであさっての方向にぶん投げた。悲鳴が遠ざかっていく。


「ありゃーピーナ飛ばされちったね」


 クベルナは別段、それにかわいらしさを感じる性分ではないのだ。手に鱗粉がついていたので焼いて捨てた。


「もぉひっどーいっ、なんてことするのよぉ!」


 投げ捨てたはずの妖精が、ぷりぷりと怒りながらタッタの肩に乗っていた。魔術だ。だからどうしたという話でもあるが。


「はじめて面白くなってきたわ。何回投げてもいいおもちゃだなんて」

「ちょっとーピーナ、このおねーちゃんやべーヒトだよ。でもお助け料ちょーだいっ」

「残念ね。あたしの財産はすべてあたしのために使われるべきなのよ」

「ありゃーざんねんだなー」


 もう一度、今度は幼女タッタの首根っこを掴んで投げ捨てようとしたところで。女神は群衆から向けられた殺気を受けて、不敵に笑ってみせた。この幼女には、守られるだけの価値があるらしい。それなりに楽しく暴れまわることができそうだった。


「そこまで! やめっ! でないとハグキがバクダンつかう!」

「きのうの生き物ね」


 ハグキ・ゴブリンが荒れそうな場を収めるために、もっと荒れそうな道具を転がしてきた。本人と同じくらいの大きさの、黒々とした爆弾だ。


「それはどれだけ派手に爆発するのかしら」

「ここぜんぶ! どっかーんだ!」

「ふぅん。でも爆発してみないと、それが真ってわからないものよね……?」

「なるほどっ! それもそうだ!」

「だったらやってみせなさいな」


 タッタとピーナが顔を見合わせていた。自分たちがちょっかいをかけた相手が、本物の危険人物だとわかったようだった。


「ちょーいちょいハグキすとっぷ。そう。火はつけないでねー、なんだってそんなに導火線短くしちゃったのかなぁもう」

「おばじゃなくておねーさん、ピーナも謝るからもう許してぇ……」


 ふむ、とクベルナは周囲を見回した。注目は充分に集まっている。かわいい信徒から「できれば宣伝のひとつでも」と頼まれてもいる。たまには働いてやってもいいかもしれないと思った。


「よし、おまえたち聞きなさい。あたしは女神クベルナで、おまえたちの願いを金銭という対価でもって成し遂げてやるということをやっているわ。だいたいのことは叶えてやれるのよ」

「あやしいしゅーきょーかなピーナ」「間違いないよぉタッタ」


 こそこそと囁くちっこいのどもは無視して。


「あの封天樹のふもとに神殿と、ついでに事務所があるわ。ギフルア代行請負よ。覚えてから散りなさい」

「ハグキもたすかった! やくだち! よろよろ!」


 群衆の中からひとつ手が上がる。


「はいそこ。なにかしら」

「それってあの……『ヒト爆ぜ』のエルフがいるってとこですよね?」

「ヒト爆ぜってのがなんだかよくわからないけれど。アレならそのくらいやるでしょ。きっと毎日やってるわよぱんぱんと。昨日も男を切り落として肥料にしてたとか言ってたわね。それが?」


 ざわめきが起こった。次に上がった手は震えていた。


「近くに遊びに行った友人が『ばかでかい獅子が玄関で寝てて怖かった』って」

「そういうこともあるわ。つぎ」

「あそこで正気なのはいちばんかわいい子だけだって」

「あたしのことね。正しい意見よ」

「ええっと、ムゥって奉仕機械の子なんですけど……」

「あれは真なる邪悪の化身よ」

「えっ」

「なんもかんもやべーね」「ほんとねぇ」




 ばっちりとした宣伝を終え、人々が首をかしげたり口々に囁きあいながら解散していったあと。

 クベルナは広場に面した酒場で氷酒を買い、テラス席できゅっとあおった。それで小銭のほとんどを使い果たした。

 一息つくと、目の前にはくりくりした瞳のタッタと、なぜだか怯えた様子のピーナが座っていた。ついでにハグキ・ゴブリンも。


「おねーちゃん。あたいたちのネットワークに入らないー入ってよーありがとー。えへぇ」

「あたしはいかなる返事もしてないわよ。そもそも『ねっとわーく』ってなんなの。気の抜ける笑い方しないで」

「あたいたちの集まりのことだよっ! ヒトもたくさんいるし、あたちたちはけっこうやれるよっ!」

「……でもぜんぜん集まってないよぉ?」

「おまえたちの掛け合いじゃさっぱりわからないわ。説明できるやつはいないの?」

「放感情互助網! ツウショーをネットワーク!」


 呆れる女神に、答えたのはハグキだった。一言ずつ強調するのでわかりにくくはあったが、それでも幼女どもの実のない話よりずっとよかった。


 放感情互助網は『我慢などこれっぽちもせずに、感情へ従うこと』を目的とした集団だ。長期的な計画を持たない、刹那的な組織。長もいない。責任者もいない。どこまでも個人が連なる集団だ。

 魔力のあるなしに関わらず、集団を構成する全員がひとつの魔術に関与している。

 他人の感情が伝わってくる。そういう魔術だ。

 それは具体的に「いまどこそこに居るけど、これから遊ばない?」というような思念を伝えるものではない。構成員が受け取るのは、あくまで『誰かの怒りや悲しみ』という感情のみ。距離も遮蔽物も時間も関係なく、それらの感情はネットワークに接続している構成員すべてに伝播していく。

 感情を受け取った者は、発信者に近ければ駆けつけて手助けをする。遠ければ受け取った感情を増幅して魔力にする。損得をかえりみずにそうするからこそ、互助網の名前がついたのだ。

 もちろん受け手にも気分はあるので、その感情を受け取りたくない場合は拒絶することもできるが。そういう冷静さを持ったヒトは、そもそもネットワークに参加しない場合が多い――。


「何を言っているのかさっぱりだわ。おまえ、本当にゴブリンとやらの中での天才なの?」

「がーんだ! ハグキ説明うまくなかった!」


 まあ、説明を受けたところで理解できるかどうかは別の話なのだ。


「だめだよハグキ。理屈だけ話してもさぁ」

「そーだよ。あのねおねーちゃん、簡単なことだってば。たとえばここであたいが怒る。そうすると隣のピーナも怒るし、あっこにドカ座りして酒飲んでる火鍛冶のおっちゃんも怒りだす。そんでもって、集まってあたいたちを怒らせた元凶をやっつける! それだけっ!」

「全員がたやすく一つの感情に呑まれるってことかしら」

「そのとーり! みんなで怒ってみんなで泣いてみんなで笑う! 感情の助け合い! それがあたいたち放感情互助網!」タッタが平たい胸を逸らした。

「さすがにおやすみのときは接続を切っちゃうけどね……寝てるときにいきなり怒り出すのって、とっても怖いことなのよぉ」ピーナが実体験のようにさえずった。


 クベルナは氷酒を飲み干して、顎を手の上に乗せた。睥睨する。

 全体の感情の誘導と固定。それは、全員が了承した上で行わている洗脳のようですらある。


「あんたたち、光神ってやつのことを覚えてる?」


 問いかけに、タッタが訳知り顔でこくこくと頷いた。


「あれね。大変だったねーピーナ。あたいたちにはシンコーのジユーがあるから、とーぜん光導教の神さま信じてるヒトもいるの。でもって、そのヒトから全体に『かみさまー!』って気分が広がっちゃって、みんなでめっちゃ祈ってたよー。ほんわかふわふわしてしゃーわせな感じもあったけどね!」

「ネットワーク、防壁ない! それでいままで問題なかった! 汚染への抵抗はそのまま改善の余地!」

「それはハグキにお任せるからねぇ」


 組織にはなりえない集団。それこそが放感情互助網ということなのだろう。そしてそれは、神にとってはとても都合のいい道具でもある。ひとたび己への信仰で染めてしまえば、純粋な信心がどれだけでも集まってくるのだから。

 ますます強い神になることも――そこまで考えて、バッカみたいと笑い飛ばす女神だ。力なんてものは、際限なく求めるものではない。いまの女神はわきまえていた。

 ――このことはオートにしっかりと報告して、敬ってもらわなきゃならないわね。

 そんなことを考えていると、タッタが湿度の高い視線をよこしていた。


「おねーちゃん女の顔してたー。えへぇ。くぁわいいー……あいだっ」

「……ちょっと。このバカ生意気なおちびの教育をやってきたのはどいつ?」


 クベルナの問いに、店員や火鍛冶を含む全員が顔を逸らした。







 夜になるまでずっとつきまとってきたタッタたちの案内で、クベルナは屋台の立ち並ぶ通りに足を運んだ。


「ここはお上品のにおいがしなくていいわ」

「でしょー。えへぇ。ここにはねー、お肉とお肉とお肉があるのーもう大好きっ!」

「もぅ、違うよタッタ。それとは別にお肉もあるよぉ」

「ここ、肉と酒しかないっ!」


 ヒトは肉を食べて生きている。どんな種類のものであれ。

 そう言わんばかりの、肉の祭典だった。「毎日こうなの?」と女神が尋ねると、ハグキが短く「そう!」と答えた。

 ワーム(大きすぎて火が通りきらない)。ガーゴイル(包丁では外皮が砕けない)。リバイアサン(滅多に食べられないという売り文句)。象(象牙ごと焼かれていた)。幻影獣(バカには見えないらしい)。

 鳥や牛などのほうが珍しいという勢いで、あちこちから様々な肉が焼かれ、揚げられ、炒められ、煮られている音が押し寄せる。もちろん混然とした肉の生臭さも。

 南東地区は、人口あたりの酒類消費量がいちばん多いのだとハグキが語った。女神の視線の先では、肉体労働に従事する体格のいい者たちが酒をあおり、肉を喰らっている。

 ミノタウロス同士が肩を組んで声高らかに歌っていたかと思えば、音楽性の違いで(どちらも音を外していた)角をぶつけあっている。喧嘩の起こっていないところがないという活気だ。

 はずれには木材を加工する職人たちが数人座っている。机や椅子を壊しておきながら喧嘩にも負けてしまった連中が、涙をのんで、職人から出来合いのものをお買い上げして経済を潤す。


「おねーちゃんなに食べる? 肉?」

「それしかないでしょうに。そうね、おまえの好物を捧げてみなさいな」

「お金はー? あっそうだ、あたいまだお助け料もらってない」

「心配しなくても、金っていうものはあちらからやってくるものだとわかりなさい」


 金はなかったがアテはあった。

 少ししたら、場所取りをしているハグキのところに集合ということになった。別れるものだと思っていたのに、タッタとピーナは女神のあとをとことことついてくる。

 サイクロプスがひとり、三人の前に立ちはだかる。頬が赤い。一つしかない目も血走っている。おまけに体も傾いている。いかにもな酔っ払いだ。

 クベルナは前に進み出た。


「ヤらせろ」

「いいわよ」


 もちろん喧嘩のことだ。


「ぎゃんっ」


 そして一瞬で終わった。獅子を出してぺちんとやるだけで倒れたのだ。膂力にいくらか優れているとはいえ、しょせんはただのヒトであり、クベルナの相手にはならない。サイクロプスはしくしくと泣きながら机と椅子を買いに行った。


「次。まとめてかかってきなさいな」

「待ってーおねーちゃん。あたいにやらせてよっ」


 群衆の中から進み出たタッタの姿を認めると、人々がその名を叫びだした。タッタ、タッタ! 応えるように、小柄な幼女が両腕を掲げる。


「あたいはここだよーっ!」


 置いてきぼりになったクベルナが、近くに浮かんでいたピーナをつつく。


「ちょっと。なんなのアレ」

「タッタはとぉっても強いから、みんなの憧れなのぉ」

「あのちびがお強いっていうの?」

「ピーナ、やるよーっ!」

「わかったぁー!」


 クベルナがさらに言葉をかける前に、妖精は友人のもとへと飛んでいく。かわりにやってきたのは場所取りをしていたはずのハグキだ。


「ハグキ、解説する!」

「……勝手になさいな」


 体重の軽い幼女と妖精が、体格ではるかにまさる大人たちに囲まれている。ゴブリンや巨人に狼男、ケンタウロスなどだけではない。屍圏や類人猿もそこにはいた。いずれもこの屋台通りの常連なのだろう。お互いの種族を気にすることもなく、ただ手近な目的を――タッタ・ダッタという幼女を打倒するためだけに同じ方向を見ていた。


「どっからでもかかってこいやーっ!」


 ハグキがチーンとベルを鳴らした。開戦の合図だ。

 人数で押しつぶすつもりらしく、大人たちは容赦なくタッタに殺到する。


「ネットワークの説明! しょぼいと思わなかったか!」


 いそいそとベルを鞄にしまったハグキが、クベルナを見る。


「思わなかったか、じゃないわ。お互いの感情に染まるだけで。あんなの傷の舐めあいでしょうに」

「それは本質じゃない! 互助は、お互いを助けるってこと!」


 女神は地から足を離して、少し高い視点を得た。はしっこいタッタは、ピーナを肩に乗せたまま猛攻を避ける。


「みなぎってきたよぉー! ピーナ!」

「うん、放感だぁー!」


 もちろんそれにも限界が来る。

 ケンタウロスの蹄がタッタのこめかみを捉えたが。顔には傷ひとつ残っていない。むしろ蹄の持ち主が弾き飛ばされていた。


「感情はエネルギー! 怒りや喜びは言葉じゃない! ちから!」


 タッタのちいさな体から、感情のほとばしりが火花となって現れる。幼女が攻めに転じた。巨人と拳を合わせ、打ち勝つ。蹴りの一撃で屍圏の首を遠くに飛ばす。炎がミノタウロスを焼く。


「ひとつの器にたくさんの魂が欠片ずつ乗っているなら、死角もないってことね」

「理解がいい!」


 クベルナは、タッタという器が同時にいくつもの魂を宿しているのを見て取った。それは男女も、輝き方もまちまちだったが、ひとりのためにそうしていることだけは一致していた。


「タッタ、右だよぉ! それから上ぇ!」


 数十人の感情の奔流をそのまま魔力に転換しているのならば、魔術の素養のまるでない十二歳に対処しきれるものではない。それを可能にしているのが、いつもタッタのそばにいる妖精、ピーナの役割なのだと察しがついた。


「いいよー……もっとだー、もっとこーいっ!」


 殴る側も殴られる側も笑っていた。工作に勤しんでいたはずの職人たちも、肉を焼いていたはずのヒトたちも、いつの間にか喧嘩の渦に飛び込んでいた。誰もが幼女に殴られて喜びを得ている光景は、奇祭そのものだ。


「タッタは、いまネットワークに接続してる全員分の知覚と力を持ってる!」

「前も後ろも一緒に見て、腕力も百人力ってことね」

「そうだ! それが、ネットワークに接続してる誰でもできる!」

「英雄らしさはないけど……ヒトのやりかたとしては、それなり部類に入るんじゃないかしら」


 やがて立っている大人が少なくなっていき、最後の一人になる。はじめにクベルナが獅子の手ではたいたサイクロプスの酔っ払いだった。タッタを両腕で捕まえようとして、がっぷり四つに組む。


「よいしょーっ!」


 巴投げの形で背中から落とせば、立ち上がるのは幼女だけだ。それでも力が有り余っているらしく、石畳がへこむほどの勢いで足踏みをして、掲げた両腕から熱を放出していた。


「やったねぇタッタ!」

「おつおつだ!」

「よっしゃー、きょうもこれでタダ飯だぁー!」


 三日月へと、感情の娘が吠えた。

 タッタが倒れている大人たちから財布を取っていくことはなかった。

 そうするにはあまりにも量があったから、というのも理由の一つではあったようだが。それ以上に、どうにか焼き場や通りの隅の工作場に戻った者たちが――あの乱戦のなかで、職人たちには手加減をしていたらしい――儲かるので、勝てば食事は無料だということなのだ。


「さっ、おねーちゃんも食べよっ! 動いたあとはなんだってうまい、肉はうまいものだからもっとうまいよ!」

「働き者のよい理屈だわ、それは」


 四人が適当に残っていた椅子に座ると、倒れていた連中はどうにか起き上がり、また騒ぎはじめた。強い者がえらい、終わってしまえばお祭り騒ぎ――まるで原始の、はじまりのころの集落を見ているようだった。そういう眺めを、女神は嫌ってはいなかった。

 タッタは実においしそうにものを食べた。噛むこと、飲み込むことすらも楽しそうに行う。


「やっぱりさー、おねーちゃんもネットワーク入ろうよー」


 ピーナが噴き出した。蝶の羽が広がる。妖精が食べるとそうなるのか、肉だったものはきらきらした粉に変換されている。


「だ、だめだよぅタッタ。このおば……おねーさんは自我も……存在そのものが強すぎるから。ピーナたちが消し飛んじゃうよぉ。このヒトはひとりだけで生きていけるのよぉ」


 ひとりだけで生きていける。それだけは、現在のクベルナを表す事実と異なっていたが。もちろん言ってやる義理もなかった。


「羽根つきおちび。おば、のあとなに言い淀んだのか、詳しく話してみせなさいなほらほら」

「あぅへぅほぐぁ」

「妖精はすぐ死ぬ! けど存在が不確定で、すぐ生き返る!」


 鉄串を加えたままのタッタが「んー」と唸った。


「やだ。やっぱり入って」「だめだよぉタッタ」「いーの入って」「だめぇ」「入るのっ」「やめてよぉ」「いれるっ」「うん、いれるよぉ!」


 タッタとピーナの瞳が赤くなっている。ネットワークとやらに接続しているとそうなるのだ、とクベルナは納得した。それはともかく――。


「あのねぇ。なにより尊重すべきあたしの意見も聞かないで、勝手に話を進める無礼をするだなんて。いったいどうしてほしいのかしら?」

「この女の形したもの! こわい!」


 至極まっとうな感想を述べたハグキの頭に猫が落ちた。それを撫でながら天才ゴブリンが続ける。


「ネットワーク接続中、意見が対立したらば、自我の質量が強いほうに染まる!」

「えへぇ。あたいの勝ちぃーいえーい」

「タッタは負けたことがない!」


 頬杖をついたクベルナが、タッタを見つめる。飛び跳ねて丸まってと自由奔放な髪。汚れ放題な(肉の油が散ってまた増えていた)シャツ。だがそれらの奇抜な印象に負けることなく、くりくりとした瞳には強い意志が乗っていることを女神は見抜いた。


「おちびのタッタ。おまえ、放感情互助網とやらの創始者でしょう?」

「なにそれー?」

「はじまりってことよ……話してると疲れるったら」


 ワームの、顔よりも大きな輪切り肉にかぶりついていたタッタが、大きく頷いた。ハグキが目を丸くしていた。ピーナもだ。


「なーるほど。うん、あたしがね、ネットワークのそーししゃだよ!」

「……どうやってハンベツした?」

「ふんっ。神の目には見抜けないことなどないのだと、そうわかっておきなさい」

「すごいねっ! それはどうでもいいけどさー、ねー、入ってよーネットワーク」


 クベルナは口元だけで笑った。ミアタナンに落ちてきた己を、最初に見つけたのがこのタッタだったのならば、その未来もありえたのかもしれなかった。ひとりでは生きていけない女神だが、もう孤独ではなかった。


「あたしは神人で、どこまでが己であるのかをしっかりと決めてあるの。だからあんたたちの仲間にはならないわ」


 タッタは感情に従って生きている娘だ。一瞬泣き顔になったが、それはすぐ別の考えに取って代わられたようだった。


「んじゃさートモダチならどーなのっ」

「勝手に思う分には許可してあげるわ」

「あのさークベルナおば……おねーちゃん。わかりにくい言い回ししてるとねー、男のヒトにうっとーしがられるんだよ」

「なんですって」


 ――もしかして、オートもときどき……あるいはたくさん、そう思ってるのかしら?


「ほらまた女の顔したーえへぇあだぁ!」

「はたいたわよ。ちびが女を口にしてるんじゃないわよ、まったく」

「いだい。そだ。代行請負ってちょうかっこいーからさー、マネしてもいい? タッタピーナ代行請負。どーだ」

「ダメよ」

「ピーナ、ここまでタッタに遠慮なくはたけるヒトはじめて見るよぅ……きゃん」


 おもむろに妖精をつついた。ピーナの感情表現は大げさだ。ついでに女神は、自分の名前を自分で呼ぶのがあまり気に食わないでいる。


「ねー。あたいの頭はそんなに軽くないってのに」

「ハグキ知ってる、それ安いの言い違いだ!」

「おまえたちは、いっつもこんなに弾み回る話をしているの?」


 やがて、子供らしくタッタが船を漕ぎはじめたので、解散の運びとなった。

 ハグキはともかく、タッタとピーナはそのあたりの倉庫などを転々と暮らしており、今夜はこれから一泊の宿を探すのだという。クベルナが寝床を与えることはなかった。子供たちも受け取らなかっただろう。きっと、己の感情に従った結果がそうなのだ。


 三日月の明るい夜だ。

 歩くのがもったいなかったので、女神は屋根を越え、遮るもののない街の空を飛んでいた。南東地区の喧騒を離れると、聞こえるのはただ風を分けてゆく音だけになる。

 仰向けになれば星の絨毯がある。下を向けば、寝静まりつつあるヒトの世界の営みがある。そのどちらもを俯瞰できるこの空は、飛ぶことのできる者にのみたどり着ける特等席だ。

 ――それなりには面白い一日だったかしらね。

 振り返ってそう評価する。限りなく不老不死に近い存在であるクベルナは、生存という大目標を達成したいま、身を焦がすような生への渇望を持っていない。

 かわりに、強烈な光を放っていた生命の周りに転がっていた、石ころのようにしか思えなかったものを拾い上げるようになった。そこには『ヒトの営み』や『知らないこと』などと書かれている。

 そして、それを眺め、蒐集することも悪くはないと思っている。

 やがて空中遊泳が終わる。ミアタナンで唯一の封天樹、その樹冠に腰かけた。足をぶらつかせる。玄関を守っていた獅子がひと鳴きした。

 留守番なのだから当然だが。この瞬間、クベルナはひとりだ。

 それでも、かつてギフルアで味わい続けていた孤独とは質が異なっている。明日になり、日が昇ってしばらくすれば、下の神殿兼事務所に戻ってくる者たちがいるとわかっているのだ。それはいままでになかった感覚だった。枯れ枝エルフもぽんこつ機械も、もちろん信徒たる人間も。

 それらが帰ってきて、女神はそれなりにぞんざいな扱いを受けながら、また日々がはじまる。


「べつに、あんたたちに愛着なんてないんだからね――」


 誰への照れ隠しなのか己にもわからないまま、クベルナは独り言をした。



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