#3・サーマヴィーユー2




 タルモー=スケィル大森林を歩くのは、霊峰の登山とそう変わりはない。

 ヒトよりもはるかに大きな、苔むした倒木を登り、枯葉の積もった坂を上り、容赦なく体温を奪っていく川を遡る。その果てにある達成感もまた、登山と変わらない――。


 そう記された随筆を、ミアタナンの街に住みはじめてから読んだサーマヴィーユだ。

 呼吸のたびに体内を緑が循環していく。彼女は空気に風味の良し悪しがあったことを思いだしていた。

 森をゆく時の歩き方は体に染みついている。獣道すら通っていなければ、踏まれることを前提に育つ、乱羊歯のようなものの上を歩けばいい。

 四か月ほど森を離れていたエルフからすれば、ほとんど変化のない故郷だった。しろがね森氏族の居住区にはまだ遠いが、大森林のすべてが親しく迎えてくれる場所だ。

 荒い呼吸が後ろからついてくる。杖にと作った擬木の音は不規則だ。

 エルフの女ふたりで森を歩く。草原を抜けてから五時間ほどそうしていれば、イヴァニ・アイアミアの体力が底を尽いているのは明らかだった。

 まだまだ余裕のあるサヴィが、蔓草で引っ張っていこうかと提案したが。運動不足の未亡人はそれを拒否した。


「これから……ここで暮らすことになるはず、ですし。慣れなければいけないことですよね?」


 顎を伝って汗がしたたり落ちる。けれどももう、袖で拭うことをしていなかった。そちらも汗みずくで、拭き取ることはできそうにもなかったからだ。

 見るに見かねて、サヴィは小川の近くでついに「休憩しよう」と言った。イヴァニが大きく頷き、その勢いでくずおれた。持ち上げようとすると、年上の友人のためにと特急で(ムゥが)仕立て直したエルフの戦士服から、べちゃと汗の感触が伝わってきた。惑わしの魔術でも、自身の疲労をごまかすことはできない。


 蔦を編んで作った即席の長椅子に座らせると、街住まいの長いイヴァニは仰向けに寝転んだ。息を整えようとするたびにご立派な胸が起伏する。脚の筋肉を触れてみると、翌日か翌々日かに筋肉痛が間違いなく訪れる、そう断言できた。


「……申し訳ありません、サヴィ。お荷物になっていますね」

「その荷物を無事に届けるのが役目だぞ。気に病むことはない」


 近くの木立が揺れる。さまざまな種を乗せて森を徘徊する動樹木たちだ。その樹の跡を猪が群れになってゆっくりと歩いていく。出たばかりの新芽を食べているのだ。群れの長らしき巨躯の立派な牙には瑠璃色の小鳥が乗っており、猪が掘った土から出てくる小さなワームを狙っている。


「街の暮らしも楽しかったのですが……やはり落ち着きます」

「そういうものかな? 私は掟を破って街に出たけれど」

「心の奥底では戻りたかったみたいです。わたしは森で生まれたものなのだと実感させられますね」


 サヴィは無言のまま、あいまいに頷いた。

 空を見上げる。夕焼けになる前には、目的の広場にたどり着けるはずだった。

 仕事がない日の事務所なら、そろそろ午後のおやつの時間だ。クベルナと言い争いながら菓子を奪い合い、ムゥが手際よく茶を入れ、オートが仲裁するか火に油を注ぐ。

 それが、たった三か月ほどで彼女の体にしみついた習慣だった。

 イディアとは違い、どうしても森に帰りたいという思いはなかった。思い描いていた通りのものではないが、流動的で楽しい。

 いずれは帰りたいと、そう感じるようになるのかもしれない。たった三日だけの夫が死んで、五十年も経てば。あるいは、オートが先に死んだあとには。だがそれは今ではなかった。


「ふぅ……行きましょう。待ってくださる方がいるのに、遅れていいわけがありませんっ。きゃぁ」


 葉茶を飲み干して、イディアが立ち上がった。後ろで一本にまとめられた豊かな黒髪がしんなりと垂れていた。勢いよく踏み出して、よろけた。


「……大丈夫かー」

「はい。大丈夫です。もちろん」

「両足。震えてるぞ」


 日暮れごろの到着になりそうだった。




 イディアにとって厳しい旅程の九割を消化して、あとはなだらかな小道を歩くだけになったころ。見立て通りに日が落ちかけていた。


「ところでイーデ、ずっと気になっていたことがあるんだ」

「なんでしょう、サヴィ」


 サヴィは、隣を歩く女性をすばやく盗み見た。その肉々しい肢体を。


「その。琥珀けむり氏族のころから、そのような体つきだったのかなと思ったんだぞ」


 恥ずかしいとそうしたくなるのか、顔を赤くしてイディアが自身をかき抱いた。ため息が出てしまうくらいに、同じ種族とは思えなかった。


「その……街で暮らしはじめてからです。学院で研究していたヒトが言うには、食べるものによる栄養が変わったからだとも」

「うん、なるほど?」


 よくわかっていなかったが、とりあえず理解したフリをするサヴィだ。ゼントヤ研究学院で過ごしただけはあって、博識な女性だと思った。


「わたしはサヴィのような体つきに憧れます。とっても身軽で、動きやすそう。体重も気にしなくていいでしょうし……」

「惑わしだけじゃなくて言葉の刃の魔術も使えるんだな。切り刻まれたぞ、ふふ……」

「いえ、そんなつもりじゃ」

「冗談だぞ。だけど、そうか。私にもまだ希望はあるのかな」


 とはいえ大きくなってどうするのか、その目的が見当たらないのだが。

 やがてノールスィーユと落ち合う予定になっている広場が見えた。ひとりのエルフがそこに立っていた。兄だった。

 蚕殿で生育される、森に生きる生物の中でもっとも気位の高いとされるカズラカブカイコ、その糸で編まれた白絹を着ていた。手に入れるために、いったいどれだけの取引を行ったのか見当もつかない。常識で考えれば、百年分の借りになりえるものだ。


「見えてきました。ノールスィーユさまはきれいな白絹の服をお持ちなのですね……」

「あれは違うぞ。ぜったいに、ただ見栄を張りたいだけだぞ」


 こちらから見えているということは、相手もこちらを見つけたということだ。ゴリラの雄たけびが聞こえた。兄がそれを発していると信じたくはなかったが。


「それでも、凛々しい顔をしておいでですよ」


 サヴィはあちゃあと頭を抱えたくなった。兄がああまで凛々しい顔をしているときは、たいてい何も考えていない。『流麗剣の憂い』と若い娘を中心に貴ぶ向きもあったが、まったくの的外れだと言ってやりたかった。

 彼女の兄は樹に腰かけていた。森の中には珍しい、樹冠に覆われていない広場だ。丈の短い草が、脅かされることもなくゆるやかに茂っている。

 広場は、しろがね森氏族の居住区からほど近くにあり、兄妹が秘密裏に訓練をするのに用いていた。

 ノールスィーユが立ち上がり、こちらに近づいてくる。数歩の距離。


「ひゃ、ひゃじめましゅて。我は、フヒュッ、ノールスィーユと言いフヒャヒョ」


 くねくねしながら手をしきりにこすり合わせていた。視線が泳いでいた。そのくせイディアの顔を見ることはなく、胸と尻ばかりをちらちらと横目で見ていた。

 サヴィは思わず顔を覆った。残念なことに、このあたりには頭を打ちつけるのに手ごろなものがない。


「誰だ貴様」


 思わず辛辣な言葉が出てしまったサヴィを、顔の戻らない、兄らしきものが手招きする。


「すまないけれど、イーデ。兄妹会議だ」

「ごゆっくり、どうぞ?」


 きょとんとしているイディアに断ってからそちらに寄った。男の目が血走っていた。


「お久しぶりですね兄上。いまのあなたとはまるで会いたくなかったですが」

「そそそんなことはどどどうでもよいヒャーフゥ。どうだったいまの挨拶、我の印象はバッチリ良かっただろう?」


 再会が軽く流されたことも、醜態のせいでショックではなかった。


「脳がやられてしまいましたか?」

「なぜそんなひどいことを言う。おっま、フォーオ、あの体をだな、我がなぁ」

「話して性格を見てあげてください。いい女性ですよ。あと興奮して叫ぶのをやめなさい」

「なんだと貴様。あの条件を満たしていた上で、なおかつ気立てもいいというのかっ? そんな女性がこの世にいると思っているのか、冗談はよせ」


 この世でもっとも冗談らしい条件を掲げた男がなにかをのたまっていた。


「……そうです。いまだ見ぬ兄上でも、あなたの兄ならきっとよき人でしょうと期待しているんです。それをあの体たらくで」

「それはそれで、我を嫌う女を組み伏すという夢が――」

「くたばってから叶えればよろしい。今すぐそうなりますか?」


 サヴィの目がいいかげんどんよりと濁っていることに、エルフでも一二を争う武技の腕前を持つ兄上殿は気づいていない。


「あのぅ、サヴィ? それにノールスィーユさまも。どうされたのでしょう、もしやわたしが、あまりご期待にそえる女ではなかったと……」


 長い耳がしゅんと垂れる。兄が妹を見る。妹は『あなたは男なのだから、自分でやりなさい』という意を込めた。


「そんなことは決してない。その……あまりにも美しい女人が訪れたので、ときめきにひたってしまっていたのだ」

「まあ、そんな。こんな年増にかけてもよいお言葉ではありません」

「いや違う。我のこれまでの鍛錬はあなたをお守りするためにあったのだ。はっきりとそうわかった」

「イディア・アイアミア……いえ、ただのイディアです。どうぞこれからのよしみを……」


 イディアが頬に手を添えて、小さく首を振った。

 サヴィは兄に『よくやりました』と伝え、義理の姉になるらしい女の手に触れた。それから髪に。


「では良縁を運び終えたので、私はこれで。あとは若い……若い? それなりの二人でよろしくやるといいぞ」

「サーマヴィーユ」


 きびすを返した彼女の背中に、兄が声をかけた。峻厳な、聞きなれた声だった。それをこれからもずっとイディアに聞かせてあげればよいのです、そう思えた。


「今夜の宿がないのだろう。木の洞ではなく、居住区近くにある巡礼者の仮宿を使え」

「わかりました、兄上」

「それと……よくやってくれた」


 許可は取ってある、ということなのだと察した。

 大森林には各々の居住区に定住する者と、決められた住処を持たずにひたすら森のあちこちを訪ね、自然そのものに祈る巡礼者が一定数ある。その中でも肉の体を持ち、雨風をしのぐ必要のある者たちのために、仮宿も点在している。街の宿とは趣がだいぶ異なっているが、もともと暮らしていたのだから苦にはならない。

 管理は最寄りの居住区に一任されており、使用する際には一声かけるのが常道だったが。そうできない、はぐれ者のサヴィだ。


「サヴィ、関係が変わっても、ぜひお友達でいましょうね!」


 赤の他人から義理の姉へ。

 遠ざかるその人物の髪には白い常光花が一輪飾られていることに、本人だけが気づいていない。

 街での花言葉は「祝福」と、それから「円満な家庭」だ。




 星蛍がサヴィの指にとまり、一度明滅してから離れた。樹に覆われて空を見通せない森において、夜闇の中で瞬く蛍こそが手の届く星だった。

 火をおこすことは森の掟において許されていない。ゆえに、タルモー=スケィル大森林で火事が起こるとすれば、それは乾燥と稲妻の合わせ技で、自然現象がそれを望んでいるときだと解釈されてきた。

 封天樹の木の洞や、枝垂れ綿毛の内側など。森の居住区は天然の住居群となりえる場所に人々が集い生まれた集落から成立している。その地域の自然に寄り添う者としての生活様式だ。

 いっぽうの巡礼者の仮宿というものは、自然で作られた、美意識のかけらもない人工物だ。巡礼者たちが、使ってもよいとされる木のみで――枯れ枝や倒木、腐れ木に魔術由来の蔓草や疑木など――建てられている。

 文字通りに、根を張っていないその日暮らしというわけだ。


「うん。おいしい」


 ムゥが持たせてくれた弁当を食べる。珍しいものが入っていると言われていた通りで、彼女が知る限り最高の料理人(機械だが)の手によって美味なものに化けていた。

 抗菌作用なるものがある葉に包んだ、酢漬けの海鱒の切り身。そして鮮度の落ちにくい葉野菜や根菜。それらを、新種の穀物を(なぜだかクベルナが懐かしそうな目で見ていた)手間暇かけて生地にしたものにくるむ。

 サヴィは、それがどうおいしいなどとあまり考えない。うまいものはうまい。それだけでいいと思っているからだ。

 その彼女は根無し草として仮宿にいる。他にヒトの姿は見当たらない。同居しているのは星蛍や言葉を話すことのできないほどに幼い鼠だけで、お隣さんは近くの茂みから隙を窺っている狼だ。

 窓も扉もない――それどころか満足な壁もないのが一般の仮宿だ。それでもしろがね森氏族が手入れをしているからか、疑木によって四方を壁で囲まれていた。

 氏族の居住区は、木々の隙間をぬって仮宿から見える位置にある。星蛍の明かりと、たかだか三か月ではなにも変わった様子のない木々、そして射手としての生命線である視力が、近くの故郷をはっきりと視界におさめていた。

 長命なエルフの感覚からすれば、三か月というのはとても短い時間だ。

 だが、人間をはじめとする常命種にとってはそれなりの期間にあたる。

 まだ三か月。居住区では、いまだサーマヴィーユは出奔してすぐという印象だろう。人々の口端にもよく昇り、語られぬ者として語られているはずだ。

 もう三か月――あるいは、街に着いてからの四か月。

 ミアタナンで暮らしはじめて、もうそれだけの時間が過ぎていた。これほど日々が足早に過ぎ去っていった経験は、これまでの生ではありえざることだった。借金取りの一件や光神騒動などの大きな事件がなくとも、日々は鮮明だった。

 ――恩が情に変わった。わたしの利用はなににうつろうのか。

 森の入り口で、兄に向けて放った言葉だ。その答えはいまだに見つかっていない。だが街に来たことが間違いだったとは思っていなかった。

 ――兄とイーデ、今頃はよろしくやっているのだろうか……。

 そんな、どうしようもなく桃色破廉恥な想像をちょっとだけしてしまい、イディアに次に会うときにはどんな顔ならいいんだと悩む。耳まで赤くなっていることは自覚していた。

 ふと、落ち葉を踏みしめる足音が鳴った。

 近所の狼とは異なる。居住区の方角からだ。しろがね森氏族の者に間違いない。会っても石もて追われることはないだろうが、お互いにとって歓迎できる出会いでないことには確信が持てた。

 二張の弓を背中に結わえ、外套をまとい、すぐにでも立ち去ろうとする。その気配を察したのか、足音が急いた。


「もし、そこの巡礼をする娘さん。こんな夜半にお急ぎでしょうか」


 サヴィの動きは止まっていた。壁に隠されていて、体が見えるはずもない。であればもともと知っていなければならない。たとえば、あれでも口の重い兄であるノールスィーユが話すなどの――。

 それほど難しい考えではなかった。もっと単純に、声に聞き覚えがあったからだ。

 母親の声を聴き間違える子供はそういない。


「巡礼者に、氏族の方がどんな御用をお持ちでしょう」


 白々しいことだとしてもとぼけるしかない。サヴィは氏族から追放された身だ。かつては親子であったにせよ、いまはその縁も断ち切られている。そうしたのが自分だとわかっている。親や兄の立場を考えずに、己のためだけにそれを行ったのだから、ずいぶん身勝手な女だ。

 それでも、親子であった事実は人々の記憶から消えたわけではない。母にこれ以上の辛苦を与えたいわけでもなかった。


「あなたがわが長子の婚姻に大きな働きをしてくれたと聞きました。その礼を送りにきたのですよ」

「独り言なのですが。どうして受け取れましょうか……大きな不義理を働いておいて、こんなことで罪を雪げるとは思っておりません」


 錫鈴虫が軽やかな調子で鳴いた。その旋律に乗って「そうですね」という言葉が、街への巡礼者の耳にちいさく聞こえた。


「氏族を抜け出た娘はまったくひどいことをしてくれました。あなたのことではありませんよ。語りえぬ者を出してしまったなど、祖霊から続く一族の名を汚す行いです。ただの巡礼者であるあなたには関係のないことでしょうが、定住する暮らしの中には、いくつもの口ほどにも語る視線たちがあることを考えていただきたいものですね」

「それは……その通りです」


 まぎれもない恨み言だった。

 エルフは氏族ごとに生活様式を異にする種族だ。それでも共通する部分はある。連綿と続く血の流れ、系譜を重要視することだ。祖先が生きていたからこそ現在がある――そういう価値観に基づいて生きている。

 そしりを受けて当然の行いをしたエルフであっても、血を与えてくれた実の親からはっきりと口にされるのは、堪えることだった。取り返しのつかないことをしたのだという思いが彼女を襲う。

 それでも耐えなければならないことだった。うずくまって泣き、謝罪して許しを乞うてしまえば、ますます自分が無価値なものになってしまうのだとわかっていた。


「恨み言は、それで終わりでしょうか」

「なんと言いましたか?」

「なにかの縁でしょう。言いたいことがあれば、見ず知らずの巡礼者を相手に、すべて言えばいいのです。そうされるだけの恨みがきっとおありでしょう?」


 母であったひとが息をのんだのがはっきりとわかった。


「……それでは。最後にもう一つだけ」

「なんなりと」

「娘の顔を見ることができないのが、寂しくもあります。夫には白髪が増えました」


 それで終わりだった。足音が遠ざかっていく。サヴィは口を抑えていた。そうしなければ、母上と叫んでしまいそうだった。

 彼女の父親は他の氏族からしろがね森氏族へやってきた。街なりの言葉で表せば婿入りという立場だ。だから父の髪は金の糸ではなく、乾燥させた薬葉のように深いこげ茶色だった。白髪は母よりもきっとよく目立つだろう。

 眠ることはできそうもなかった。

 だから夜のあいだ、星蛍の中に思い出を見て過ごした。



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