#2-17




 例年通りでない、特別な光の日が過ぎ去って、人々は普段通りの生活に戻った。

 光神は人々の記憶を封じてから去った。だがそれは略奪ではなく、その人物の内側に、絹でくるまれた優しい手触りの贈り物を置いておくようなものだったと――オートは「法王付きの秘書だで」と、堂々たる名乗りをあげたテクー・アウストロスからそれを聞いた。

 それを特別な安息日の奇跡か、光神が実在したという証明と受け取るかは、市民たちの判断に任せるという。教会内部は、それはもうえらいことになっているようだが。

 どこか弱そうな部分のあったかつてと比べて、見違えるほどはつらつとしたテクーを見ていると、教会は乗り切るだろうなとわかった。目下の悩みは、誕生日を迎えた幼馴染の目つきがやたら鋭く、狙われているような気がする。弱いのによく酒を勧められるということらしいが。どんどん飲むといいよとにっこり笑って助言した。物事を進めるためには勢いが大事なのだと、彼はよく知っている。


「所有者。郵便物です」


 エプロンを身に着けたムゥから封筒を受け取った。フェイルディナリアという送り主だ。なんだか貴族みたいな名前だな、とオートは思った。来客の対応や配達物の受け取りを行うのは、もっぱらこの奉仕機械か彼だ。正確には、残りが壊滅的というだけだが。

 手渡されたペーパーナイフを使って封を切ると、居間に香水が香った。オートはそれを悪くない香りだと思った。定位置のソファでごろ寝していたサヴィがくしゃみをした。


「ラペスダリアの花由来の香りです。青く大ぶりな花弁を持つ、人気の高い花です。香水としては庶民的で、街の婦人たちのおめかしに用いられることが多いものですね」

「においきつい。くしゃい……へくしっ」

「オート、その封筒をください。ありがとうございます。……そーれ、ぱたぱたー」

「ふぐぁ、やめろっ」


 うめくエルフだったが。機械の子供は手を止めない。


「仕事をするか寝るか以外でそこから動かないその性根を、今日こそ捻じ曲げてみせます」

「叩き直さないのか」

「オートも止めろぉ……ええいっ」


 芋シャツのエルフが、少しだけ真剣な表情を見せた。魔術を使ったのだ。多蛇草が、サヴィの伸び切った四肢から垂れ下がっていき、ソファの四つ足に絡みついた。逆さに生えた葉が寝そべったエルフをソファごと持ち上げ、運んでいった。階段すら登ってみせた。

 器用なものだと感心するオートだ。二階から「えっ。なにこれ。ほんとなんなのこれ」と女神の呆然としたつぶやきが聞こえた。


「逃がしましたが、あの場所から動いたのでよしとします。今度から掃除のおりには重いものを持ち上げる係に任命しましょう」

「ほどほどにしてくれよ……しかし、なんだか依頼にしちゃ洒落てるな」


 桃色の便せんと、何枚かの小さな絵が収められていた。敬愛する女神クベルナへ、とはじまっていた。


「もうほんっとなんなのあいつ。あそこまでものぐさであることに全力を尽くす生き物って、普通いるかしら?」


 ちょうどその女神が二階から降りてきた。光の日からこちら、クベルナはあまり浮かんで移動することがなくなった。浮かぶこと自体も減った。

 理由を聞けば「大地の娘たるあたしが、地に足をつけてないなんてお笑い種になるとわかりなさい」と回りくどくごまかされたが。たぶんヒトと同じ視線に立つように心がけはじめたのだと、そう思っている。


「あのサーマヴィーユ先生もね、凛々しく頼りがいがあるだけの、ただの美人だったころがあるんだ。嘘みたいだろ」


 オートは遠い目をした。ヒト同士の関係を円滑にするのは、いつだって諦めなのだ。


「いや嘘でしょ。無理でしょ」「ありえません。わたしの記録には存在していません」


 ばっさりだった。逃げ出したくせに人恋しくなったのだろう、こっそり様子をうかがっていたサヴィが戻ってきた。いまではこんなにめんどっちい生物になってしまって、とオートは優しい目をした。


「なっ、なんだ。だけとかただのとか、使い方違ってるぞー……」


 三人が、ソファごと運ばれてきた芋シャツ女を見た。脇に積まれた本が変わっていたから、部屋まであのまま行ったらしい。


「んで、なにが書いてあるのかさっさと読み上げなさいな」

「わたしも気になっています。恋文でしょうか」

「絶対に違うわ。……ほら違った。敬愛する女神クベルナへ。私は先日お世話になった者です」

「ふぅん。あたしの威光を覚えてるなんて、感心な誰かもいたものね、と」


 言って、女神がオートの頭に両腕を置く。たいていの場合は浮かばなくなったが、彼をからかう場合はよく頭を取ってくるのが現在のクベルナだ。体重をすべて消すのではなく、少しだけ残すのがお気に入りのようだった。そこも光の日以前と異なった部分だ。きっと、ヒト同士のやり取りとして、彼よりも上位であろうとしているだろう。


「せいっ」「このっ」


 サヴィが蔦で女神を絡めとって、ソファに投げた。投げられた側も黙って受け入れる性分ではないので、猫が(ふわふわの子猫だ。用が済んだら勝手に消える。飯を食べてからでないと帰らない時もある)エルフの上に積み重なっていく。不毛な威嚇合戦がはじまるのを無視して、オートは読み上げることにした。


「……遠くから眺めやる封天樹の葉が青々と生い茂り、目にあざやかに映ります。あの樹の下に御身があると尋ね聞き、それからは毎日礼拝を欠かさぬようになりました。このたびは、女神クベルナの恩寵によって出産に至ることができたことのご報告をと思い立ち、一筆とった次第です。同封した模写絵にありますように、珠のような三つ子です! これにより我が信心はより一層の高みへと昇り何度生まれ変わろうとも御神を……あとはもういいなこれ。ダグ・フェイルディナリアより、だと」


 ダグとは、ゼントヤ研究学院へつながる橋のたもとで出会った相手だった。妊娠したがっていた、男の風貌をした女性だ。なかなか忘れることのできない姿であるから、オートも当然覚えていた。

 クベルナが、女にその辺の屋台から集めた動物の一部を食べさせて妊娠させた。記憶にある喋り方は粗野なものだったが、文面は丁寧だった。途中から思いが爆発したのか、どんどん狂信的になっていったのが怖い。

 かの人物を知らないサヴィとムゥが小首をかしげていたので、オートは同封されていた模写絵を(魔術師が数分で現実の風景を絵へと落とし込むものだ)渡した。模写絵師への依頼はそれなりに高額だったが。そういうところに金の糸目をつけないのは、あの思い切りのよすぎる髭面の女性らしくはあった。


「おぉう……すごいぞこれ」

「生命の神秘。その言葉だけですべてを片付けてしまいたくなります。論理を投げ捨てています」


 精緻な絵の中で、母性に満ちている(ように見えなくもない。髭が濃くていまいち判然としなかった)顔をしたダグが、文の通りに三つ子を、もじゃっとした腕毛の茂った太い両腕で抱きかかえていた。

 青い肌で腕や背中にヒレを持つのは魚人の息子なのだろう。その隣には牛頭――ミノタウロスの娘がいる。このあいだ、オートは人間と牛が交わってもミノタウロスが生まれることはない、という雑学を仕入れたばかりだった。クベルナの権能が強いので、ただの牛肉からでもミノ娘が生まれることもある、という納得をした。


「三者三様だけど、真ん中のこの子は目立ちたがり屋なのかな? 大きく両手をあげて、必死な顔をしている。しかし生まれたばかりなのに、すごい鉤鼻だぞ」

「特徴的な遺伝をした、純粋な人間の男の子ですね。母親にはあまり似ていないと思います」


 オーはとクベルナを手招きした。変わった三つ子だのなんだのと盛り上がっている二人をよそに、小声で話す。


「おい。お前のアレって、ごくごく低確率でも母親とまったく同じ種族で生まれるんだよな」

「なに言ってるのかしら。きっかり父母半分ずつよ。しっかりと『あの中』から生まれたわね」


 刺身。牛串。そこまではいい。

 卵。薄甘巻き。鉤鼻の店主。取れたて。

 彼の脳裏をそんな映像がよぎった。まったくの錯覚だということにして、もう一度模写絵を見た。幸せそうな母親の姿がそこにある。

 もう二度と、何があってもあそこの薄甘巻きは食べないと誓った。




「で、なんでいきなり?」

「お前が言い出しただろ」


 代行請負事務所兼自宅兼神殿兼神樹にまで伸び切ってしまった事務所の名前を変えよう――そう提案したのはオートだ。仮決めだったことをみんな忘れていたが、クベルナの「そういえばここって、なんて名前なの」の一言で思い出したのだ。


「女神クベルナ代行請負事務所に決まってるわね」


 新入りの神は、こういう時に遠慮をしない。最初に意見を出し、最初にダメ出しを受けていた。


「自己主張強すぎ。却下だぞ」サヴィがわざわざ蔓草で×の字を作った。

「ありえません。ありえると思った存在があることがありえません」

「なによ。あたしの名前のあとに、忠実なしもべたちってつければ満足するのかしら」

「どうしてそれでいいと思った?」


 まっすぐな挙手をしたサヴィ(芋シャツ)をオートは指名した。


「では、腸曲がり芋虫代行――」

「似た者同士です」「ほんと似てるな」「ちょっと。いくらなんでもコレと一緒にしないで。失礼だってわかってるでしょ」

「お前らひどいぞっ、特に最後の無道平野」

「枯れ枝がなにをっ」


 無道。道理に外れた様子のことだ。


「わりと当たってるな」


 つぶやくオートの頭がはたかれた。もちろんクベルナのしわざだった。

 ん、と咳ばらいをしたのはムゥだ。わざわざ目を光らせて、白塗りの壁に映像を投影している。太鼓が鳴らされるのも、ばばん、という効果音らしきものも、すべて奉仕機械の口から発せられていた。


「白紙委任です。サーマヴィーユもクベルナもあまりいい意見を出すとは思えませんので、オートの意見が妥当だと感じた場合、それに賛同します」

「出たぞ、ムゥのいい子ちゃんっぷり――」「こういうところで抜け目ないわよね。かわいげを出そうとしてるっていうか――」

「……所有者。わたしはいわれなき中傷に傷ついています、くすん」

「よしよし。ムゥが一生懸命やってるんだってこと、俺はよくわかってるから」


 オートがこすりつけるように差し出されたそれの頭を撫でていると、女ふたりの視線がますます冷えていった。同じソファに並んで座って、左右に揺れながら、交互に酸性の言葉を吐き出す毒花が二輪だ。

 ねぇ、しょせん男なんてああいう生き物よ……いやぁ、すり寄ってくるならなんでもいいって思ってるなー……ちやほやされたいんでしょう……そうそう、あの時はああいう風に言ったのに忘れてるんだぞ、それで都合よく思い出すんだ……逃げれてればいつか解決するって信じたいのよねぇ……。


「お前らほんとやめろ、やめてくれ。なんだかうすら寒くなってくるんだよ恐怖で。というかなんでこういうときだけ仲がいいんだ」


 女性陣の「男なんて議論」は、とうてい男には耐えられるものではない。そうされるからこそ、男は都合のいい相手に逃げたくなるのだとわかってほしいオートだ。すると、オートの胸板にこすりつけているムゥが、かすかに笑ったような気がした。邪気があった。味方がどこにもいなかった。


「まあ玩弄はこれくらいにして。オート、あんたの意見はどうなの」

「この空気の中で言えってか。……神樹代行ってのはどうかな」

「安直だわ」「平凡です」「置きにいったのがすぐわかるぞ」


 それから議論は続き、結局いい案が出ずに終わった。

 オートにはひとつだけ温めている考えがあった。




 クベルナが戻ってきたことによる変化は二つあった。

 ひとつはオートの部屋だった場所が、女神の寝室になったこと。

 もうひとつは、封天樹に生木の階段が付けられ、気軽に樹上まで行けるようになったことだ。


「あら。あんたも来たの」

「見晴らしがいいからな」


 夜。夕食を終えてから、オートは樹を昇った。そこにはクベルナがすでに座っていた。ん、と催促され、その隣に座る。植物の操作をするエルフや成長をつかさどる女神がいるので、樹に座っているのにその固さを感じさせないつくりになっていた。

 丈夫な樹だから、内部をくり抜いて物置か塔のような構造にするのはどうか、という案も出ている。役所から怒られそうな話であるが、楽しんでいるのも事実だ。

 地上から遠いところだからか、心地よい風が吹いた。


「事務所の名前の提案に来たんだ。サヴィとムゥにはもう承認もらってる……まぁ、サヴィはだいぶ渋々って感じだったけどな」


 タルモー=スケィル大森林に行く具体的な日取りを決めて、どうにか了承を取り付けたオートだ。ムゥは「所有者の案でしたら、とりわけ文句を持ちません」とすぐに頷いてくれた。


「ふぅん。あたし抜きに決めかけてるの……ここの一員になったんだから、拒否権も当然あるわよね」

「お前が断るとは思わないけどな。ギフルア――ギフルア代行請負。どうだ?」


 光の日からこちら、オートは女神と線がつながったのか、ときどきその大地の夢を見た。人々が暮らす区域を離れると、恵みをたたえた森や黄金の揺れる平野、雪を乗せた峻厳な峰がそびえ、静けさにそよぐ湖があった。もっとも栄えていた時分だということはすぐにわかった。それは楽土と呼んで差し支えのない光景だったのだ。

 もちろん、街中においてそれが実現することはないのはわかっていた。だが、ここが帰るべき場所であるように、その名前を付けたかったのだ。


「なぁに。あんた、そんなにあたしを喜ばせて、いったいどうしたいの?」


 隣の女神がそわそわと落ち着きなく動く。これまでに見たことのない感情の表れだった。


「どうもしねえよ。いいって思ったんだ」

「そう」クベルナが立ち上がった。「いいわ、承認してあげる。もちろんあんたのためじゃなく、あたしのためによ」


 オートは頷いた。隣のクベルナが、身長差を埋めるように浮いていた。紅玉色の髪は、その持ち主の性格のように大地の引力に逆らって広がっている。赤い瞳には出会ったころよりも豊かな感情が宿っていた。美しいかたちが、その熱が、彼のそばにある。


「ただ生き残るだけでよかったのに、女神を変えたのだから。覚悟しておきなさい」

「こないだ言ってた生贄にでもするのか」


 女神はそれを否定した。頬に両手が添えられる。対等な視線のまま向かい合う。女神が口を開く。


「あんたが信じてるのはなに」


 気恥ずかしさから目を逸らそうとしたオートを、薄ばら色の手が押しとどめる。鮮やかな血を思わせる瞳が、口ほどに雄弁に語っていた――言いなさい、あんたはそうしなければならないの。


「サヴィとムゥと――」

「わかってないなんて言わせないわ」


 逆らうことのできない、断定する口調だった。


「――お前だ。俺は女神クベルナの信徒だ」

「とってもよろしい」


 それで手が離された。接していた部分にあった熱が風に奪われる感覚を残念だと思った。クベルナが相手だと、オートは翻弄されることのほうが多い。


「結局、なんだったんだよ」

「念押しと調教。それと救済よ。いつでもあたしの姿態を思い描いて、熱心に祈るように教化してあげるの。そうすればあんたの力になってあげられる。ありがたく思っていなさいな」

「前の二つはいいさ。よくはないけどな。最後の救済ってなんだよ」


 クベルナが笑った。直前に調教などとのたまった女神らしい、いつもの嗜虐的な笑みではなかった。そこにはもっと澄んだ感情が乗せられているのをオートは見て取った。夢の中にはあった、父神や母神といった家族に向けていたものと同種のもの。

 女神という言葉には、きっと、女の神であるという以上の意味がある。


「ここではこうも言うのでしょう。『信じる者は救われる』って」



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