#2-14




 原初のころ。

 ヒトがまだ、猿やトカゲに鳥、あるいは魚のようだったころ。海と泥で造られた名残があったころの物語だ。

 サクルとトルイーがまずあり、次に最初の子供であるクベルナが生まれた。女神の作った大地の上で暮らしはじめた人々は、神を見上げるものと規定した。天地を操る力を持ったものへの、払うべき当然の畏敬があった。


 集落が大きくなり、ヒトがヒトらしくあるための社会を築きはじめたころ。

 神を祭ることの形式化が進んだ。風や炎、空、星といった留まらないものだった神をかたちに押し込むために像がかたどられ、神殿が建立され、神に仕える職が生まれた。

 神が得るのは信仰と、人々の日々の悲喜こもごもの伝聞だ。他のどの生物よりもヒトは多様だった。

 それはクベルナも変わりなかった。

 違いがあるとすれば、女神が他の神よりもヒトに対しての大きな好奇心を持っていたことだ。

 多彩だった。人生とは、どれ一つとして同じものはない織物のようだった。ただ生きるだけでなく、生きることそのものにすら理屈をこねまわして、自らの実存すら疑いだす個体が出てくることもあった。テツガク、というものらしい。己がそこにいる、そのことだけでは満足できない強欲さ。そのくせつがいの生誕日や子孫の将来のことで頭を悩ませているのは滑稽でもあった。どうやら男は自分と同じ役割には就いてほしくないようだった。

 際立っていないヒトですら、なにかしらの物語になっていた。誰とも深い付き合いをせずに一生を終えようとしていた女の末期の言葉は、哀切と後悔、そしてそれを受け入れようとする強がりだった。


 それらすべては過去のことだ。

 女神は荒神へと転じ、人々は去り、ひとつの文化が終わった。昼が来て夜が来て、また昼が来た。そのうちに神殿の屋根が崩れ、太陽も星々も寝椅子に座ったまま見ることができるようになった。無限にほど近い無聊を慰めるのは、かつてあった人々の物語だ。己が底なしの地割れに飲み込んだ兵士たちにもあったはずのもの。狂乱から覚めてみれば、もったいないことをしたという後悔が募った。


 やがて追い立てられるようにして海を渡り、新たな大地へとたどり着いた。そこにいたのは神を神として扱わない、無礼な蛮族どもだった。クベルナを敬わないばかりか、神がわざわざ同じ目線で話してやっていることへの感謝もない。だがまあ、ヒトの生活の隣に座らせてくれたことは、感謝しないでもなかった。はじめてぞんざいな扱いを受け、食器洗いをやらされた。食卓を囲むというのは、伝え聞いていた通りにあたたかいものなのだと知った。やはり雑に扱われたが。


 七曜が一回りするころには、それも終わりの気配を迎えていた。

 信仰が集まってくるにつれて、悪い部分が――死と百獣だとか、華々しい名前を冠していた――芽を出し、蔦のように巻き付いてきたのだ。数少ないはずの悪癖のひとつだった。クベルナが自制というものを心掛けたのは、廃墟での節約が最初で最後だ。生存に直接の関与がなければ、なおさらその必要は薄い。その結果が癇癪と断絶だった。その後、駆けつけてきたのを相手に誹謗をして、悪口を受けた。

 最後の力でもって斬りつけたのは、信仰心に欠けた、それでもミアタナンでの最初の信徒だった。切れたのは肉だけではなく、関係もなのだろう。孤独の冷たさに身をひたしていた。

 ――暗く冷たいこの場がミアタナン流の地獄かしら。

 無限に落ち続ける感覚だけが与えられていた。

 誰にも裁かれずに放置されるだけというのは、真っ向から断罪されることよりも効果が高い仕打ちになりうることがあるのだと、女神はこのとき知った。

 神には消えようと思えばいつでも消える力がある。それを使用すればこの暗闇から消え去ることができると考えた。だがそれを行うことはなかった。

 己の身体に熱が残っていた。それは断ち切ったはずの関係の残滓、残り火だった。か細いなにかが繋ぎとめていたから、己を絶つ覚悟はまだクベルナになかった。







「降ってきましたね。わたしの中では、本日はずっと晴れるはずでした」


 洗濯物を取り込みながらのムゥの言葉は、いつも同じ調子を保っている。それは心地よさを伴って、眠気を誘うものだった。普段であれば。


「そうかー、珍しいなー、ムゥが外すのは……」


 サーマヴィーユは、定位置となった廊下側のソファの上でぼでっとしていた。本を読むでもなく、寝るわけでもなく、ただ無為に時間を過ごしていた。きのこが体から生えてきそうな一日だった。ちょうどよく湿気ってきている。どんな味がするのだろうかと空想を遊ばせた。

 食べ歩くと同居人に宣言していたから、彼の外出に合わせて、出るふりはしたが。すぐに家に直帰して、着替えることもなく無駄にトンボを切って定位置に落ち着いた。もちろん、ホコリが立つと奉仕機械に怒られた。


「ときどきこの女性が、颯爽とわたしを助けにきたあの凛々しいエルフと同一人物なのか、疑わしくなります」

「いまの私がなにに見えるっていうんだー……」

「生産性のない芋虫です」

「けっこううまいのもいるぞ。卵焼きみたいな味がするんだ。上手いこと言った私とおんなじでな」

「……その返しは想定外でした。卵が高くなったときに備えて、外の樹で養殖しましょうか」

「それだったらカズラカブカイコでもいいぞ。私の服にも使われているけど、街の服屋でめちゃくちゃ高くてびっくりしたから。欠点は……やつら気位が高くて、少しでも機嫌を損ねると糸を出そうとしないことだな。生活の中心がそっちになって、代行請負をやる暇がなくなる」

「なるほど。あまり効率がよくないように思えます。だからこそ高いのでしょうが。やっぱり卵焼き芋虫ですね」


 虫を飼わない食わないという方向に歯止めをかける人間が不在なので、会話はどこまでも転がっていく。時間対効率と不確定要素などをひとしきり考慮したあと、出した結論は「とりあえず、オートが帰ってきたら聞いてみよう」というものだった。


「雨、なかなかの勢いだぞ。ところでこのあたりの住民たちが、表に出てひざまずいてるのは、なんだ。郷に入ればというやつで、私たちもやったほうがいいのか」


 寒そうだからいやだなーとぼやくエルフに、機械も頷いた。光導教をまるで信じていない二人には、彼らが何者の声を聴いているのか理解できない。外がやたらと白く光っているのも、彼女は「これが光の日か」くらいに考えていた。


「どうやら光導教に伝わる賛美歌を合唱しているようです。去年の光の日は、こんなに宗教色の強い……もっと言えば、キマっちゃった光景などありませんでしたが。一年で変わるものですね」

「宗教かー……あの女神も、崇められる立場だったのかな」

「わたしにはわかりません。いちばん親しくしていたのは所有者でしょうから、そちらに尋ねるべきです」


 外の様子をうかがうために半身を持ち上げていたサヴィが、再び芋虫になった。


「やだ。できない」

「めんどくさいです」


 誰の影響なのか、最近言葉がきつくなってきたムゥだ。最初はもっと丁寧に扱ってくれていたのにと思い出してみるが。すぐ粗末にあしらわれるようになっていた。

 ――そもそもあの女神とやらは、はじめから気に入らなかったんだ。ヒトのことを枯れ枝とか呼んで。

 自分には見えなかったということよりも、オートにだけ見えていたことが気にかかった。それでも、世界から見放されたものを見つけてしまったように彼がふるまっているから、幾らかの同情は抱いていた。最初のうちだけは。


「わたしは別に、クベルナがいてもいなくても、どちらでもよかったです。住むのであれば、これまでより一人分多く食事を作ります。洗濯も、掃除の範囲も広がる。それだけのことですから。でもドリマンダの家を壊したことは許せません」


 労働による生活面の奉仕。それから言動や容姿、仕草による精神面での奉仕。その二つを兼ね備えているのが(本人談)ムゥ・チャンティという個人なのだ。実際、家事や炊事をまったく不平も言わずにこなすことは、森暮らしのエルフには真似できないことだった。


「私は、そんなに好きじゃなかった」

「見ていればわかることです。サーマヴィーユは、クベルナが特別扱いされていると感じていたのでしょう」

「だよなー……オートもわかっていたよなー……んー」

「同じくらい、所有者はあなたのことも特別だと思っているはずですが……帰ってきましたね」

「えっ、まだ準備が」

「同居人を出迎えるのにそんな都合はありません」


 玄関が開く音がした。水を吸った布の音。ムゥは出迎えに行くのではなく、まず体を拭くものを取りに行った。そちらはお前がやれということだろう。居間には二人だけが残された。


「……おかえりだぞ、オート。もう休んだほうがいい。疲れてるだろ」


 言ってから、それも拒否されると悟った。最近はこんなのばっかりだ、と後悔する。彼ははじめて会った日の夜のような、意志を通しきる目をしていた。


「悪いけどまだ休めない。クベルナを探す。今度こそ、言わなきゃいけないことが見つかってるんだ」

「この雨と関係があるのか?」

「ある……らしい。光神が降臨してから、外はおかしくなってる」

「私たちとの関係は?」

「どうにかしないと、この街だけじゃなくて世界中ずっとこのままの可能性がある」

「やたらと大事だぞ……オートは大丈夫なのか?」


 あいまいな頷き。サヴィはそこに女神の影を感じ取った。あの平野への信仰らしきものが、外の一群へと加わらせることを防いでいるのだ。

 濡れた髪にタオルがかぶせられた。


「ムゥもただいま。タオルありがとうな」

「いえ。ですがまた、すぐに濡れてしまいそうですね。それはそうと、虫を食べるつもりはありますか」

「風邪なんて終わってからなればいいさ。それより、ポルインの時に続いてまたしくじった。思いっきりクベルナと口喧嘩になって、ひどいこと言った。だからしっかり謝って、挽回しないといけない。虫は食べない」

「七回転んでも八回起き上がるのが、所有者のいいところです」

「七回しか起き上がれないだろ、それ。でもそうだな。ただの人間が、たったひとりでなにかやろうってのが間違ってた。二人に頼らずにできるだなんてくだらない意地を張って、みっともなかったな」


 笑って、オートはちょうどいい位置にあるムゥの頭を一度だけ押さえた。

 ――オートは、己の失敗を口にできる強さを持っている。

 だんだんと自分が、理解者でも相棒でもない、ただの同居人へ――蚊帳の外へと追いやられていくような気がした彼女は、役立つところを見せなければいけないと思った。


「……女神なら、うちの裏の封天樹の上だぞ」

「どうしてわかるんだ?」

「亡状平野が育てた樹だけど、私は森に生きていたものだから通じることはできる。その樹に別のものが入り込んでいるなら、わかる」

「不毛の土地っぽいな……登るか。サヴィ、手伝ってくれ。頼む」


 昨日のやりとりが尾を引いているのだろう、言葉に緊張がにじんでいた。これまではそんなことはなかった。気楽に冗談を言い合うことができていた。そんな関係をこじらせたのは自分だという自覚がサヴィにはあった。


「……こんど、森に一緒に行くなら」

「もともと行ってみたかったよ。いつも本当に助かってる。サヴィには借りばっかり増えていくな」


 思っていることを素直に言えるようになったオートは、自分より先に進んでいる。彼女には、常に彼より先行していかなければいけないという焦りはない。ただ、己の感情の果てを見届けたいのだ。そのためには追いすがっていかなければならなかった。前ではなくとも、せめて隣で。


「私も……」


 いざ口にしようとして、身がすくんだ。エルフの戦士、恥ずかしいけれども二つ名まで頂いたサーマヴィーユは、こんなに憶病な生き物だったのか? オートとムゥの視線が彼女に集まる。その圧力を乗り越えるものを、勇気と呼ぶのだ。


「クベルナがうとましかったんだ。自然だけじゃなくて、死も含めていたから……違う、すまない。ごまかしだった。私は、居心地のいいこの家に、誰かが新しく入ってくることが、我慢ならなかったんだ」


 あの女神とも、しっかり向き合ってみようと思った。思いっきり口喧嘩して、ひょっとしたら殴り合いになるかもしれないが。陰湿に嫌いあっているよりも、腕力や魔術ですべて決めてしまったほうがいい。都会に暮らせど、己の考えまで街に染める必要などどこにもなかったのだ。物事はできるだけ単純なほうがいい。

 エルフは本質的に、強いもの主義なのだ。

 言い終えると。顔を赤くする羞恥と、それに隠れていたすがすがしさが襲ってきた。恥ずかしいのはイヤだったが、もっと早くに白状しておけばよかったと思った。


「俺も気づいてて、それでも黙ってた。本当に悪かったよ」


 そうしていれば、きょうは一緒に歩いて、探し人をしながらの食べ歩きもできたかもしれなかったのだ。







 久しぶりに、サヴィの持つ二張りの弓――長弓ナーリアと短弓ケラメイアを見たオートだ。基礎も装飾も、すべてが植物でできている。

 街に住むようになったエルフが好んで使う魔術は、多蛇草という蔓草を生成して、それを意のままに操るというものだ。矢の尾羽の軌跡をなぞって蔦を伸ばすこともできた。

 出現したときよりも少し伸びて、家の三軒分ほどの高さまで成長した封天樹の頂点ぎりぎりに、二本の矢が刺さる。すぐに樹の一部に転じた。あとには多蛇草が垂れるのみだ。


「梯子にしたからこれで登っていけるぞ。落ちたら拾ってやるから、がんばって登れ」

「助かる。あいつに言っておくことあるか」

「枯れ枝って呼ぶ限り家には入れないぞって言っておくんだ」「新入りですので、種族がなんであれ家庭内階層の最下位に位置されますとも」「それならいままで私がやってた家事もみんな押し付けて」「ダメに決まっています」「えっ」「ダメです」

「……おっかねぇ」


 主にムゥだが。代行請負の事務所は、機械がヒトの生活を管理する小世界でもある。

 それでも、クベルナが暮らすことへの反対意見ではなかったことが、オートの心を軽くした。勢いのままに、彼は強靭な蔓で編まれた梯子を登っていく。

 雨は降り続いているが、不思議と手が滑る感覚はなかった。サヴィが調節してくれているのかもしれなかった。女神によってつけられた傷はほとんどふさがっていたが、少しだけ痕が残っていた。それがそのまま残ろうが、完璧に消えようが、そこにはもうこだわりはなかった。ただの感傷にほかならないと気づいたのだ。

 顎を持ち上げられたとき。芝居がかっていたが、なにかがはじまる予感があったのだ。はじまるというのは変化することだ。それを受け入れて、むしろおのずから進んでいこうとしたから、信心のないオートはクベルナの信徒になった。

 ――俺はもう選んでたんだな。

 そうであるならば、選択の結果をしっかりと受けとめなければならなかった。それが責任なのだから。そのためにも、この上には女神の姿がなくてはならない。登りきったとき、紅玉の髪がそこにあることを信じた。

 あるいは、祈った。







 封天樹の樹上にて、クベルナはその全景のほとんどを白へと塗り替えられたミアタナンを眺めていた。

 橋の手前まで赴いた滝のそばの島。かつて借金取りと貧民たちの騒乱があったという貧民窟――というよりも、その地下に広がる空間。そして街の外に広がる森と、足下にそびえる樹。それらだけが別の色を保ち、異彩を放っていた。

 女神はいつの間にか、落ち続ける暗闇からは抜け出していた。代わりにこの気色の悪い光景を見せつけられていたが。かつての己は、ギフルアをこの反対の色――恐怖と死の黒で染め上げていたが。どのみち、すべてを一にまとめようということ自体が間違っているのだ。それについては確信があった。やって、失敗した己なのだ。

 葉音が近づいてくる。誰のものかわかっていた。言葉より先に、すでに祈りがあった。かつて、ヒトが言語を持たなかったころと同じように。

 重力には逆らえないやつが来るので、落ちてはいけないと思ったクベルナは葉と枝をこまめに動かして、少しだけ場を整えておいた。まっすぐに歩けば女神のところまでたどり着けるように。


「来たぞ」

「見ればわかるわよ」


 こうして対峙するのは、ここ二日で三度目だった。一度目は怯えがあり、二度目は怒りに震え、此度は決意に満ちている。どこまでもヒトらしく、感情の切り替わりが速かった。一歩一歩、足先の感触を確かめながら近づいてくる。

 すでに言葉を尽くしていた。そして祈りも届いていた。

 世界から乖離した場所が、あの落ち続ける暗い虚無であるならば、あれこそが死だ。ミアタナンに落ちてきたとき、女神はその虚無の近くに寄っていた。まったくの偶然からであったとしても、男はその状態にあった神を観測し、存在は固定された。それが巡り、この白い光景につながっているというのは信じがたかった。

 失われていた記憶のほとんどは思い出していた。父母の姿も、同じ神話に生きたあらゆる神のことを取り戻した。最後に消えた悪戯神シーパーの名も。地割れに飲み込んだ人々の顔も。クベルナが消えてしまえば、それらの時代そのものが失われてしまうのだ。

 ――恨みなさい、呪い続けなさいな。

 墓を荒らされたところで、ギフルアという世界、時代のすべてが解読されるわけではない。生きることにしがみついた答えの一端がそこにあった。死にたくなかった。そして、殺したことを忘れたくもなかったのだ。無よりも負の感情を選んだのだ。

 そういえばと。ヒトに背負われるどころか、触れるのもはじめてだったのだと、女神は回顧する。

 あたたかさがそこにはあった。ここにいると言われた。たったそれだけのことで、満たされるものがあったのだ。信仰ですらない、ただの承認が力になっていたことに、クベルナはこのときようやく気付いた。

 おぶさられて連れていかれたのは、家であり、ヒトの世界だったのだ。

 ――神も全ではなく個であるのね。

 これまでの己であれば決して認めようとしなかったであろう、卑小化する認識だった。それならば、ついさきほどオートが吐いた無礼、あれは無礼などではなく、ただの正答だったのだ。


「あんた、さっきあたしに言ったことを覚えてるかしら」

「覚えてないって言わせない気だろ……覚えてるさ、もちろん」


 おそらくは「悪かった、すまなかった」とでも続くであろうそれを制止して、クベルナは歩み寄った。


「女の子供ね。めちゃくちゃな言いかただわ。当たってたけど」

「嘘だろ、お前歳がぐほっ」


 ただの無礼だったので制裁した。世界を変えようとしている神がいるのに、こちらではなんとも馬鹿らしいことをやっているわね、と思う。


「痛ぇ。いや、でもどうしてだ。こないだは、自分は神だってはっきり言ってただろ」

「宗旨替えしたのよ。神って言ってもね、人間や魚人、エルフみたいなものだったわ。神人とでも呼ぶべき、強大な力を持っただけのただのヒト」


 うろたえを隠しきれないオートが、反論を探す。


「でもお前は、信仰が力になるって」

「魚人が水の中でも暮らせるみたいなもの。生存の様式がちょっと異なるだけよ」

「……それでいいのかよ」

「いいのよ。だからね、飾らずにひとつだけ聞くわ……」


 光神は、回答の期限を日暮れに指定していた。それはすぐ近くまで来ていたが、女神のなかに焦りはもう存在していなかった。答えはすでに伝わっていているのだ。だからそれは、単純で、必要な確認作業だった。


「あんたはあたしを信じる?」

「信じる」


 ひとつの契約が結ばれた。

 クベルナの身体に変質や異常はなかった。それどころか力が満ち溢れていた。ただの神であることをやめた女神は、すべての権能を保ったまま、それを自在に振るうことのできる存在だ。

 顔も知らぬ人々の信仰への依存が極端に薄くなったことがわかる。いまやクベルナの力を制御するのは、己の意思と、オート・ダミワードの信頼だけだ。

 その生き方は、これまでよりもひどく脆そうに思えた。事実、気を遣うということや妥協などという努力をしなければならない。だったら花のように手入れして、美しく保ち続けようと決めた。

 それがヒトの生の楽しみなのだと、いまのクベルナには理解できた。


「さぁて」舌なめずりをすると、オートが一歩下がった。嫌な予感がしたのだろう。「和解が済んだのなら、あとは無礼の償いをしてもらわないといけないわね」

「さっきもうやっただろ!」

「白さにも飽きたから色を戻しましょうか。……石巌よ襲え」


 この樹の下に建つ家と同じくらいに大きな岩が出た。それはそのまま宙を昇り、空とミアタナンを分かつ幕に突き刺さり、分解された。開いた穴を稲妻が連鎖して広げていく。光にできた穴は閉じられないままだ。聖樹通りの一帯だけが通常の天気を取り戻す。雨が止み、中天を過ぎた太陽が日差しを届ける。

 女神なりの宣戦布告だった。

 それがなんでもないことのように、女神は嗜虐的な表情を浮かべながらオートに詰めよっていく。


「やぁね、同じことを何回もねちっこく罰するほど狭量じゃないつもりよ。だからね、これからのはさっきの分。あんた、いろいろと好き放題言ってくれたわよねぇ……」

「待て、なにするつもりだお前」

「なにしてほしいの?」

「なにもしないでほしいに決まってる」

「じゃあひとつ条件を飲みなさいな。生贄をよこしなさい、あんた自身を。あたしのものになるのよ」

「いつでも好きな時に、おつまみ感覚で殺されるのか?」


 神を祭ることに詳しくもない人間らしい理解だ。女神はよく知っていることだったが、生贄には三つの種類がある。供えたあとに殺すもの。殺してから供えるもの。そして、殺さずに神のもとで飼うものだ。


「そうね、死ぬならあたしが許したときだけよ。べ、別にっ、あんたに死んでほしいわけじゃないんだからね」

「むりやり入れてきたな、それ……」


 たったひとりの信徒が、なにかを答えようとしたとき。葉っぱの向こうに金髪が見えた。低温で湿度の高い視線だ。にょきりともうひとつ、奉仕人形とやらの顔も見えた。感覚を広げてみれば、編み籠で引き上げてきたのだとわかった。苦労して登ってきたのはオートだけというわけだった。それでいい、そう思った。

 ――苦難を超えてやってくるのは己の信徒だけでいいの。


「だーめーだーぞー……」

「じっくり観察中です」

「お前らなぁ」オートが呆れきった声を出した。

「おまえたちときたら、のぞき見だなんてはしたない真似をしてるのね」

「なにがはしたないだっ、生贄だとか、破廉恥なのはそっちだぞ」


 やかましいのよこの貧相、なんだとこの平坦、滑面、直線、平滑水平なだらかすべすべ。

 やせぎすの男が溜息をついた。クベルナも、もう無理に迫ろうとはしなかった。そんな気分でもなくなっていた。


「なんでもいいので、事態を解決に導く努力をしませんか」


 ムゥの言葉に異論は出なかった。

 サーマヴィーユとやらが「こいつはまたなにかやらかす」という目で見てくるが、しばらくはそんなつもりもなかった。もっとも、女神は気まぐれだ。その自覚がある。いつ前言を翻してもおかしくはないのだ。


「こいつはまたやらかすぞ。そういう目と顔と鼻をしてる」

「口はないのね。じゃあたくさん言ってあげるわ、ありがたく受け取りなさい?」


 言葉よりも先に祈りは届く。答えはすでに受け取っていた。それがどんなものだったかは、二人だけの秘密なのだ。



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