#2-13
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クベルナがそいつを見かけたのは偶然などではなかった。
第一の信徒だったものを――もともとあれには信仰心などなかったけれども――捨ててから。女神はただぼんやりと、誰からも見つからないような場所で浮いていた。
あの封天樹があるだけで、ヒトはそれを生み出した存在を意識する。おまけにと、獅子も数頭街を練り歩かせておいた。手出しされない限りは暴れることはない。ただ存在していくだけであれば、切り倒されない限り続けることができるはずだった。。
己の手をじっと見つめる。もう消滅に怯えることはない。
「あたしは消えたりしない……」
そのはずだった。
その時、同類の感覚を得たのだ。天が力場に覆われ、大地とクベルナとの繋がりが薄れていく。獅子が消された。樹は無事だったが、それもいつまでもつのか判断できない。
表通りに出た。
街が白く光っている。空の手前にある幕は一瞬たりとも同じ白にとどまらず、油膜のごとくぎらついている。人々がひざまずき、それを崇めているのが異常だった。はい、おおその通りです、お待ちしていました……。
これまで獲得してきた信仰のほぼすべてが別のものに――おそらくは光神というものに奪われていた。
「女神クベルナ、光神はあなたに感謝をしています」
ただの人間のはずだった黄色いシャツの男が、立ち上がってクベルナへと微笑んだ。周囲の群衆が黄シャツへ向き直って祈る。女神もよく知った表情に――宗教的法悦に飲み込まれていた。唱歌が延々と紡がれていく。
「あなたが長い旅の果てにこの地にたどり着いたからこそ、神の実在が明らかになりました」
「礼なんていらないわ。なにを求めてるのかしら」
「あなたの従属です」
仕掛けた。それ以上、光神とやらの言葉を聞く理由がなくなっていた。
蜂を頭の後ろに生み出して首を狙う。黄シャツは振り向きもせずにそれを掴んで、すぐに離した。
「光神は平和に解決できると信じています」
「おまえが消えれば、すぐに終わる!」
蜂がクベルナへと飛翔する。新たに生み出した従属でそれと切り結ばせ、黄シャツの頭上に獅子を出して拘束する。大ぶりな肉球が肩に触れたとたん、獅子との接続が失われたのが感じ取れた。寝返り、勢いよく女神に襲い掛かるそれを容赦なく殺す。爆ぜたそばから肉体が再生していき、ひき倒された。
ヒトを形どった神がクベルナだ。息が詰まる、肺を押さえられて苦しむということはなかったが、自尊心が著しく傷つけられた。憤怒で髪が逆立つ。
「こんの……!」
「勝ちの目が存在していないことはわかっているでしょう、クベルナ。話し合いをしましょう、あなたにも有意義であることを、光神は確信しています。光神の信徒たちへと向けた刃を降ろしてください。信徒たちを愛しているのです。殺されることは望ましくありません」
信仰のほとんど絶たれてしまった以上、女神自身が保持している力しか残っていなかった。そしてそれは、眼前の憑依体を血祭りにあげるには不足していた。それで無様を晒したのだ。
神々の激突が起こったというのに祈りを捧げ続けていた人々、それらに向けていた蜂を消した。思いっきり舌打ちをしたものの効果は薄かった。黄シャツの男が満足げに頷いた。
そこに僧服の巨漢が降り立った。空を飛んできたのは明らかだった。光の緒がたなびいている。
クベルナの記憶の端に残っていた姿だ。名前は忘れてしまったが、布教をはじめた日、オートと話し合っていた男。名前を覚えておく必要はなかったと、己の判断の正しさに内心で頷いていた。こんな風に取り込まれてしまえば、名前は必要ない。どれでも同じだ。
黄シャツの男は何事もなかったかのように再び祈りはじめた。それも街を覆う歌の一部へと溶け込んでいく。
「感謝をします。光神はこれより、ここを神の国へと造り変えます」
「それとあたしとどう関係するっていうの」
「神は光神だけです。ゆえに、あなたにはその姿のまま光神となっていただきます」
「あたしに、その男みたいにお人形さんになれって言ってる?」
「その通りです。ですがこれこそが唯一、クベルナという器が残る道だと理解してください。あなたは生き残りたいのでしょう。光神は偶像としての姿を持ちませんが、生み出した存在への感謝は持っています。お互いに譲歩をした結果が、最良となっています」
この光神というものは、クベルナは己の体だけでも無事ならそれでいいと考えているのだ。意志を必要とせず、女神の形だけを要求していた。
「だから簡単に人々の意思を失わせて……おぞましい提案を持ちかけてくるんじゃないわよ。あたしが生み出したものだっていうのなら、あたしの手で消えろっ!」
路面を槍に変えて光神の憑依体に打ち込む。大地を操る術は、はじめ大地の娘と名付けられた女神にとっての源泉だった。
だがそれもやり返された。押さえつけられた両肩が抉られる。血が流れることはないが、傷口から別の力が浸食してくるのがわかった。己の支配権がなににも及んでいないことを思い知らされたクベルナは、それに対処するのが遅れた。
――しまった、塗り替えられる。
存在の消失を覚悟した。だが結果は想像と異なっていた。槍は抜かれ、女神の体で淀んでいた力も霧散した。
「ヒトのかたちをしているからでしょうか、あなたの考え方もヒトのごとくあるようですね。ゆえに光神は、考えを改めるための時間を持ちたいと思います」
「どこまでも小馬鹿にしてくれて……!」
「これは真摯な提案です。ですが光神にも都合というものがありますので。受諾と拒絶、そのどちらかを選んでください。今日の昼の終わり、日が沈むときを回答の期限とします。そのあとは別の都市に赴かねばなりません」
「あたしに上からモノを言うって傲慢をしてる、その意味をわかっているの」
「事実として優位に立っているのがどちらなのか、あなたにも理解できているはずですよ」
光神は最初から最後まで表情を微動だにさせず、ずっと微笑んでいた。それが疲労で目がくらんだ瞬間に消えていた。
雨が降りはじめた。それと同時に、雨が上がりはじめた。
降り注ぐ雨は光神の力の一端で、人々に癒しと活力を与えている。その一方で地から天へ――光る力場へと集められていくのは、信心を可視化したものだ。その光景を見て神の奇跡を信じ、強い信仰に固められる。よく考えられていた。少しずつ雨が上がる範囲が広がっていく。
そのような情景を女神はこれまで目にしたことがなかった。神としての存在すら、光神に劣っているという思いが強くなる。人々にとっての恵みの雨が肌を痛めつけていく。神への賛美しか耳に入らない。
あとには立つこともできず、見向きもされないクベルナが倒れているだけだ。
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オートがそこにたどり着けたのは半ば偶然だった。
法王と別れてすぐ、空がぎらついた白に染まって、祭りを楽しんでいた人々が口々に光神を称えはじめた。誰もが同じ顔をして、気味の悪い光景だった。頭上を見上げると、ほうき星のように白いものが尾を引いて飛んでいくのが見えた。探すあてもないのだからと、それを追いかけた。
そして雨が行き来する中、倒れ伏す女神を見つけた。
「クベルナ、おいっ!」
「……うるっさいわね。いまさら出てきてどういうつもりなのかしら、この役立たずは」
憎まれ口は相変わらずだったが覇気がない。力の容量など読み取れない彼にすら、女神が弱っていることは一目瞭然だった。肩から持ち上げようとすると振り払われた。身体を浮かすのではなく自分の手で立ち上がった女神は、散漫な目つきで上がっていく雨を見ていた。
「なにがあったんだ、大丈夫なのか?」
「どっちにも答える義務はないでしょ、縁もない相手に」
「そうやって強がるって、なにかがあって大丈夫じゃないってことだろ」
「ふんっ、これの元凶に操り人形になれって言われただけよ。光神だって名乗って、うさんくさいったら」
「お前がそれ言うのかよ……」
どうにか雨の当たらない場所まで連れていこうと触れた手が、意思に反して弾かれた。皮膚が爛れている。
それが雨に当たるとすぐ元通りになった。それと同時に、うさんくさい宗教の勧誘の言葉が頭に響きだす。
光神はあなたを見ています。痛みのない場所へゆきましょう……。
治癒と勧誘は一緒についてくるものだが、記憶喪失までは治せないようだった。
女神は体を動かしていなかったが。周囲に稲妻が奔っており、それがオートを弾いたのだとわかる。舗装された道が隆起して岩石も浮かび上がる。豊穣も大地も、破壊に転じればこうなる――それを体現する姿だった。
「危ないもの持ち出して、どうするつもりだよ」
「殺して壊すわ」答えは簡潔で、物騒だった。「ぜんぶよ。ぜんぶ無意味なまま刈り取ってあげる。まずはたったのひとときしかあたしを信じず、すぐ裏切った愚か者どもからよ」
「そんなこと、やらせるかよ!」
たとえば、この場に姿のないダグも光神を信じてしまっているのだろうか。彼はそんな想像をした。クベルナに深く感謝していたが、もし宗旨替えしていたとしても、それは責められることではないはずだ。見た目は確かにアレだったが、アレでも母親なのだから、子供もいる。それなのに一方的に殺されるいわれはない。
「安心なさい、なにもしなかったあんたは最後よ。せいぜい命乞いをすればそれがあたしの力になるのだから」
飛ばされた石片がオートの頬を切った。おそらくこの癒しの雨を誰よりも有効活用しているのは、光神をまったく信じていない彼だ。
岩、稲妻、蜂、獅子。他にもあるのだろう。多彩な出し物のどれでも致命傷になりうるが、簡単に通すわけにはいかなかった。
「お前を助けたのが俺なら、殺されるのも最初だろうが! それともただの人間から逃げるのかよ!」
「あたしに殺されてくれるつもりもないのに、自分に酔って立ちはだかって!」
光神が降臨して、誰もが天を見上げる中にあって、男と女神はお互いだけを見ていた。彼の頭に突然、老鼠のダミワードのことが思い出された。尊敬すべき恩師であり大切な存在だったが、もう命は失われている。跡形も残らず灰になった。淀んだ河に沈んで、いまでは汚泥の一部になっている。
誰かがそのように失うのも、クベルナという知り合いがそれを成すのも、彼にとって止めなければいけないことだった。
「あんたはあたしを神だって認めるだけで、あたしをちっとも信じちゃいなかったのよ!」
「信じてただろ! ……信徒として優先してた!」
実際の暴力ではなく、ただの言葉だ。それでもオートの足を止めさせるには充分だった。
「信徒だって。アハハッ、バッカみたい! まるで頼りない人間の女を相手にするように世話を焼いてさ、それで神を従えたつもりになって!」
女神は何度も、信仰を感じ取れると口にしていた。
であれば最初に出会った人間が信心を持っているのか、ずっとわかっていたはずだ。そして彼も。お互いにそれを口にしてはいなかっただけだったのだ。言ってしまえば関係が壊れてしまうのが理由だ。住居と弱い信仰、その対価としての満足。
「記憶がないことに甘ったれて、自分は弱いって蔑んで、強くなろうともしない! そんなのが誰かの隣に立って、自分がふさわしいかどうかを悩むなんてね!」
サーマヴィーユとムゥのことだ――言われずともわかっていた。エルフの女から、彼はここにいていいと言われた。その許しを真に受けて、あの暖かいチャンティ家にいたことは間違いだったかのように、クベルナが切り裂く。
――俺は甘ったれてる。けど、また下水臭い貧民窟に戻るのは嫌だ。
その思いは彼の中にずっと残っていた。そして、この場においてそれは糾弾されることだった。
だからオートは、そうではないのだと否定しなければならなかった。
「それでも、己をやろうって努力してる!」
「実を結ばない作物はね、その場に打ち捨てられるだけってわかりなさい!」
「だったらお前はどうなんだ、ヒトを助けて、また命を簡単に取り上げて、消えかけてた自分のだけは惜しんで! いっつも見下ろすばかりで! まるでヒトみたいにふるまってるから、そういう風に感じて、女の子供を相手にするようにしたんだ!」
「讒言をするなっ! おまえは、あたしが神であることにまでケチをつけて……!」
クベルナが足を踏み出すと、石畳が大きく割れた。オートはいま、自分のためだけに戦っていた。それははじめてのことで、どこでどのように終わらせればいいのかも判然としていない。
「手前で生き延びるためだけに犠牲を出そうとするな! そんなの神じゃない、子供の理屈だろうが!」
「あたしのことを子供だって呼んだのっ、短命の人間が!」
「長生きを誇るなんてことは、サヴィでもやらないさ!」
「他の女の名前も出してっ! あたしだけじゃない、あんたも、あのエルフも、みんなそうよ! たった一人取り残されてみなさい、どこまでも生きあがくようにできているの!」
神を称える賛美歌が口々から紡がれるなか、もはや他人から観測されなくなった女神が、己の生の本質を叫ぶ。オートからもときどき姿がぶれている。彼がたどり着く前の一件と口論とで、クベルナはすでに冷静ではなかった。それはオートも同じだった。
――俺はこんな風に言い争うために、祭りを楽しもうとしてこなかったのか?
取り返しのつかない失態へと踏み出しているような感覚だった。サヴィとわざわざ険悪になり、ムゥを残念がらせて。強がってみせて、女神を助けることは自分にもできるとひとりで行動した。その結果が彼の目の前にある。
憤怒に取りつかれた女神の姿だ。
「俺は……俺があのとき見つけてなければ、お前はどうなってたんだ?」
「みっともなく恩着せがましいことを言うわね。あたしはきっと消え去っていた、これで満足するかしら」
「だったらせめて、助けたってことに納得させてくれ! そうしてよかったんだって!」
オートは結果を欲していた。自分の行動を評価、肯定されたかったのだ。その情けなさを、彼はみんながそうだからという理由で覆い隠していた。それが暴かれたのだ。
「それが甘ったれなのよ! 自分のためだけに他人におりこうさんでいなさいっていうあんたは、あたしに人殺しをやらせた連中と同じよ!」
「途中で止めず、楽しんでいたお前の言うことかよっ! 俺は人殺しを助けたのか、それを続けさせるために!」
「……おまえはっ! 過去のあたしを使って現在を貶めてくるのか!」
「お前から先にそうしただろ! ……こんなことになるくらいだったら、お前を助けずに、見て見ぬふりをしておけばよかったさ!」
「殺す言葉を吐くなぁ!」
それで決裂だった。
クベルナが叫び、蜂の剣尾針を引き抜いて突進してくる。一閃。オートはとっさに手を前に突き出し、目を閉じた。痛みが走った。それきりだった。
目を開くとそこにクベルナの姿は失われていた。どんな痕跡さえ見当たらない。
「クベルナ?」
返事はない。右の手のひらを横断するような傷から血が落ちていく。落ちてくる雨がその傷を治そうとする。
オートはとっさに拳を作った。手に雨が当たらないように。まだ裂傷は保たれていた。それこそまさに、甘ったれの、憐憫にひたった自己満足だったが。
「なあダミワード……己になれってさ。俺がなりたかった自分って、こんな情けなくて、腐った野郎なのか」
本当は、そんなはずがないのだ。だが、頭に血が上っていた、少ない過去を蒸し返された、図星を突かれた――どんな理屈を並べても、やってしまった事実を捻じ曲げる力はなかった。
事実はたったこれだけのことなのだ。
女神はオートの目の前から消えた。ひょっとしたら永遠に。
『光神のもとで世界はひとつになり、ひとつになった世界からは苦しみが失われるでしょう。祈るのです……』
彼の頭の中でも、ついさっきまでは気にならなかった、光神とやらの声が無視できなくなってきていた。その苦しみも癒しましょう。忘れていいのです。あなたの神はここにいます……。
「うるさい」
右の拳を左手で隠して、オートは歩き出した。
――俺にとっての神はどこにいるのか。
言わなければならないことがあった。そのためには、一柱の神に消えてもらっては困るのだ。だから彼は神に祈った。はじめてのことだった。
癒しの雨が降り注ぎ、信仰の雨が舞い上がる。平時であれば感動したのであろう美しい光景だったが、いまはそうできる気分ではなかった。ただ家に――そうであってほしい場所に戻ることだけを考えた。
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世界が白に染まる日など、光導教のどの経典、書にも記されてはいなかった。だがそれはカル・アウストロスの眼前に広がっていた。
「清純であり、温和であれ。我らの祈姿かくあるべし――」
大礼拝堂はすでに信仰の中心だった。整然と信者たちが列をなし、一心不乱に祈りを捧げる。それは光として視覚化され、屋根をすり抜けて天へと昇ってゆく。祈っているのは平服の信徒だけではない。甲冑姿の教会私兵たちも同様だった。
『光神が治める世においては敵を滅ぼす剣も、身を護るための鎧も必要ありません。敵がいないのですから』
先刻、カルを探しに駆けつけた戦陣隊長もその例外ではなかった。
――彼も祈りの列に加わった。わしはなぜここでこうしておるのか。
光神から司祭たちへの言葉はなかった。そうする前に、おおかたの僧服がひざまずいていたからだ。
そして法王ともなれば、その先頭に立っているべき存在だ。幸か不幸か、立ち尽くす老人へと注意を払う者はいなかった。それが無情でもあった。
神よ、と口中で唱えた。これが罰なのですか。法王の信仰の薄さを咎めるために、このような手法を選ばれたのですか……。
『そうではありません、カル・アウストロス。光神への祈りに移行する速さは、その者の篤信に依りますが、光神はそれを咎めることはしません。それはただ、それだけのことなのです。いずれ世のすべてが平穏に包まれるのですから。少しばかりその苦しみが長くなってしまったことだけを、悲しいと、そう感じているのですよ』
神は老人を見放してはいなかった。だがこの感傷の薄さはどうだとも受け取ってしまった。この光神は人々を愛してはいるが、全体でのみ物事を計っているように思えてしまうカルだ。
テクーの体に入った神はミアタナンの全域を現在の己の領域と定めたようだった。巨漢からときどき光が分離して、男の姿を真似ながら方々に散っていく。少しすると戻ってきて、そのころには雨が逆さまに上がっていくのだ。
信仰がさらに厚くなるにつれ、光神はテクーから遊離していったが。へその緒のように、一本の光帯が繋がっていた。影響下にある甥は安らかな顔のまま、祈る信徒たちへ優しい言葉をかけている。
光導教の戒律は、かつての権力者たちが知恵を出し合い統治をより円滑に進めるために作ったものを、神が――かつては等号で王と呼んでもよかった――授ける形を取った機構だ。そんな架空の存在だったはずのものが顕現して、世を宗教によって統治するという。ヒトは、自らの作りあげた幻想によって支配されることになるのだ。極上の皮肉か、さもなくばやがてヒトは自らの精神を超越したものに肉体が屈するという証でもあった。
やがてカルは己の番が回ってきたことを悟った。大きな、光を人間の体の輪郭に整えただけの像が光神だ。それが首を巡らせ、立ち尽くしていた老人を捉えたのだ。
『カル・アウストロス。待たせてしまいましたね』
「いえ――ひとつだけ、お聞きしてもよろしいですかな」
『なんなりと。光神はあらゆることに答えます』
では、と前置きをして、それでも法王は躊躇をした。渇いた口内を湿らせてからようやく口を開く。神に意見しようというのだから、まったくたいした不良法王であると自虐しつつ。
「世界を支配して、なんとするのです?」
『おかしな質問をするものですね。支配とも違いますが、光導教を世界中に布教したあとは、それを円滑に統治していきます。永遠に。そのための祈りでありましょう』
彼は光神への違和感の正体を見た。同時に、ひとつの絵を思い出していた。
それは全体像としてはひとりの王の身体が描かれた絵画だった。その中で王の身体は、無数の人々の寄せ集めとして構成されていた。王が民のすべてを所有し、管理することを諧謔的に描いた作品。
統治のための機構が、そのまま力を得て動き出したものが光神なのだ――そこまで思考が行き着いたとき、光神が老人をひと撫でした。
「清純であり、温和であれ。我らの祈姿かくあるべし――」
光神が降臨した大礼拝堂にて、カル・アウストロスという存在は消え失せた。あとには仰々しい服に身を包んだだけの、ただの光神の信徒が列に入り、祈りを捧げているだけだ。彼にはもはや覚えておくべき名はなくなった。光神と、ヒトと、世界がある。それで三位一体となるのだから。このまま世界が統一されれば、肉体年齢と性別のみが必要な差別になる。富みも貧しきもない、純粋な生を追求する社会が成立する。
老人に他の人々との差異があるとすれば、それは幸福に満たされているはずなのに涙が残っていたことだろう。
だがそれも、いまや巨人ですら見上げるほどに大きくなった光神にとっては、些細なことでしかなかった。
人々の祈りの集合体が、その体躯をまた一回り大きくした。
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