#2-12
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この年の光の日は、光導教会にとって特別なものとなっていた。
例年であればカルが壇上に立ち、説法を行い、祈る。普段より長く。いつでも最深であるため、密度は変わっていないはずだ。
だが壇上に立っているのは堂々たる十四代法王カル・アウストロスではなく、いまいち事務能力に欠ける彼の甥であるテクーだった。大きな図体に似合わず、信者たちのざわめきに過敏に反応していちいち肩をびくつかせていた。
それは光導教会の最高権力者である法王の強引さや、その下で差配する司祭たちの突き上げによるものではなかった。法王より上――国民だけではなく、信仰を持つ者すべてに光を照らす存在が、そうせよと指示していた。
「テクーよ」
「はっはい法王さま」
甥を疎まれたことはありませんでしたか――カルの人生の中で幾度となく無遠慮に投げかけられた、つぶてのような問いかけだ。それを受けるたびに彼は「神の思し召しであり、わしにとっては息子と同じです。子を愛さぬ親にはならぬつもりです」と返した。本心からの言葉、そのはずだった。
カルのところにテクーがやってきたのは五歳のときだ。その幼さで、流行病によって両親を失った。己よりもずっと体格のよかった弟の息子だ。弟夫婦の葬儀をあげてから引き取って育ててきた。
どんくさい、手際が悪い、人と違った感性、舌っ足らず。そういったことを本人は気にしていたが。法王にとってみればそれも個性であり愛嬌でもあった。それに負けずに明るさを保ち続けることは希望だった。
――そのカルが、神に選ばれた。
「しっかりやるんじゃよ」
「はいです、法王さま。これで少しはご恩返しになりますで」
ゆえに彼の甥は壇上に立っていた。はじめて光神と交信をした折に、なぜですと問うた。答えは短いものだった。
『カル・アウストロス。あなたこそが誰よりもその理由を知っているはずです』
簡潔な答え。その通りだった。法王の知る限り、テクーは誰よりも熱心で敬虔な光導教の信徒だ。人造の宗教であることも知らずに育った立場だ。だがカルは、甥のその信心が実を結ぶことなど考慮していなかった。法王でありながら、神を信じていなかったのが彼だ。宗教は祈られ、ただ日々の規範になることが役割だと己の内で規定していた。
テクーを壇上に残して、カルは梯子かと思うほどに急勾配をした階段を下りた。足腰を鍛えてはいるが、そろそろ厄介な代物になりつつあった。先代の法王はここから降りる際に転んで頭を打って亡くなっていた。教会の出した答えは、転んでもいいようにと、下に必ず三名は受け止めるための人員を配備することだった。それより手すりをつけてくれと言いたかった。
「毎度ひやひやさせられますよ、この業務」
受けとめ役の戦陣隊長が皮肉げに言った。
「わしの任期の間に、絶対に手すりつけてやるわい」
壇上では、カルが両手を掲げていた。光を受け止めるために。
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両手を掲げるのは、何度もやってきたテクーだ。
その姿勢を取ることが、ほかのどんな時間よりも好きだった。からかわれることもないのだ。変なやつと言われることもない。
最初こそつたなかったけれども、それでも熱心であることが褒められた。
だから何度もやった。そうしているうちにこの所作だけは上手になっていった。
だから祈るのが好きになったのだ。祈る先があることに思い至るのは、それからもう少ししてからだった。
天に浮かぶ太陽は光神と同一視されている。昼間は神のもたらす光に照らされているから、人々は品性正しくいられるという論理だ。それを支え持つ一員であるようにと、光導教は両手を掲げる祈りを持つ。
――法王さま……カルおじうえも、おでにこんな大層な役目をくれて。
オートと言う若者と意気投合していた時に呼び出され、光神さまが降臨なさる、そのための依り代としてお前をご希望されておられる、そう告げられた。名誉なことだったので、すぐに頷いた。自分が必要とされていることがあり、またそれが重大な案件だったのだ。喜びの半面で、眠れない日が続いた。祈る時間が増えた。
腕のポケットに入れてあったメモがかさりと落ちた。今回だけは、それがなくても言うべきことを覚えていた。
「おでは……光神さまへ、この体を授けますで!」
こんな肝心な時にでも、言葉をうまく紡げない自分が嫌だった。だがそれは問題にはならなかった。
それが契機となって、大礼拝堂に光が満ちた。光神が降臨したのだ。白くあたたかい光を凝縮したような、とらえどころのない姿をしていた。
『テクー・アウストロス。光神に身をゆだねてください。光神はあなたの体を用いてあまねく世に平和をもたらします。そこは誰も虐げられることもなく、人々がみな互いを想うことを取り戻した地平です』
そんなことができたなら、とても素晴らしいと彼は思った。するとそれを読み取った光神が『そうでしょう』と思念を伝えてきた。
『そのためには、みなにひとつの考えをわかってもらわねばなりません』
――世界を渡り歩いて、教えを説いていくのですか。おじうえがやってたみたいに。
光神の忠実な信徒として各地を歩き回り、人々と交流して、その心の信仰の種を蒔く。それはとても尊ぶべき仕事であり、自分がそれに携われることが誇らしかった。
『いいえ。そのやり方では時間がかかりすぎてしまいます。なにより、行脚の終着点に近ければ近いほど、教えを知るのが遅くなりましょう。それすなわち、それらの人々は不幸でいる期間が長いということです。ほんの少しの差であれど、看過できることではありません』
テクーはもう少し光神と語りたかった。だが時間がないらしかった。
光神が彼の内側に入っていった。
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それはもったいぶったようにゆっくりとテクーに近づき、掲げられた両腕の上で一度留まり、そして吸い込まれていった。そして体から出たときは以前より大きくなっており、中空にて輝きを強めた。へその緒のように、一本の光の線が光神とヒトとを繋いでいた。
テクー・アウストロスが宙に浮いた。
「……甥御どのの隠れていた才能でしょうかね」
「……いままで隠しきれておったことが才能じゃろ」
壇上からふわりと降り、信徒たちの前に立ったテクーが、もう一度太陽を掲げる。これまで幾度となく見てきた姿だ。違いがあるとすれば、両手の間に光が生み出されたことだ。
「恐れることはありません」テクーの声だった。それを聞き間違えるほど、カルは耄碌していない。「わたしは信徒の体を借りて、この地に降り立ちました」
だが違っていた。彼の知る甥ではない。あれほど柔和な笑顔を作ることはできない。もっと朴訥としていた。あれほど流暢に、相手の心を突き動かす説法はできない。もっと遠回りで、慌てながらで、だからこそ染み入るものがあった。
まるでテクーらしくないテクーが、信徒たちに囲まれていた。
「なんじゃこれは」カルの声は震えていた。歳のせいか目にもしまりがなくなったようで、涙が次々にあふれた。「これが神だというのか」
「法王さま?」
戦陣隊長の言葉も耳に入ってはいなかった。彼の身を支配していたのは、どうしようもないやるせなさだ。重たい法王衣の袖に涙を吸い込ませていく。隣の鎧姿から、ハンカチがそっと差し出された。
テクーが幼いころ。あくびと共に涙が出たカルを見て、泣いていると勘違いしてしまったことがあった。そのときは自分が大泣きしながらも、おじにハンカチを渡してくれたのだ。おでより、おじさんの泣いてるほうが痛いで。そう言いながら泣いていた。
「神さまが降臨なすったんですから、喜ばしいことではありましょう」
「ああ。その通りじゃ。だが、テクーのあの様子を見てくれんか。ああなってしまったら、ああなるというのなら、わしの甥でなくともよかったのではないか」
その人格をすべて奥底へ追いやり、光神が表に出るのであれば。誰に憑依したところで変わりはなかったのではないかと、カルはそう考えてしまったのだ。
「それはあまりにも……」
「わかっておるよ。だがわしはずっとあの子を育ててきた、それなのにこれでは……すまぬ、忘れてくれ。もう言わんさ」
法王とは神の代理人としての性格を持つ地位である。それゆえ本物が現れたのならお役御免にもなる。
実際のところ、そうなるのかどうかは不明だったが。カルはそんな理屈を持ち出して、部屋に法王衣を置き、平服を着た一般の老市民として教会前の広場にいた。
ちょうど昼頃で、喧騒は少し先のものだった。景観を損なわぬようにとして、このあたりでの飲食は禁止されている。
なにかを考えていた。だがそれは、手触りが薄く漠然としていた。
目の前を横切った若者が食べ物を持っていたから、カルはつい声をかけていた。
「そこの若いきみ。残念じゃが、ここは食べることが禁止されておってな。どうしても食べたいのであれば、教会のほうへ行くといいぞ」
「……そっちのほうが、もっと食べちゃいけない場所じゃないですかね」
「そんなこと言っとったら、あそこで暮らす坊主たちはなんにも食えんよ」
余計なお世話だと突っぱねられることはなかった。若者はばつの悪そうな顔をしてから、カルの立っているところまで寄ってきた。どこかで見知った風体だなと彼は思った。
「すみません。人を……ヒトっていうか、ヒト型のものをなんですが。きれいな赤毛か、ひょっとしたらほぼ黒い髪の毛の女を探していまして。浮いてるやつです」
「……そこまで要領を得ない探し人も珍しい。その人のためかね、その食事は」
「ひょっとしたらなにも食べていないかもと思って……礼儀知らずですみませんでした、すぐに出ていきます」
「いや、いや、いい。ひょっとしたら君はオートという名前じゃないかね?」
若者の顔に緊張が走った。過剰にも思える反応だが、そういう背景があるのだろう。それなりには人を見る目を育ててきたつもりだった。
「テクーというのがわしの家族でな。友達ができたと年甲斐もなくはしゃいでいたんじゃよ。どんな若者か、光神さまへ微細にわたって話しとった」
「……そういうことでしたか」
「探し人のアテはあるのかね?」
「いえ……祭りの中でも目立つ部類だから、やみくもで」
「手に持っているものもそれを見越してのことだろう。どうかね、ちょっとの間、老人と話をしながら休憩するのは。ここで食べるのは禁止されているがね、持っている分には問題がないんじゃよ」
木陰のベンチを指し示すと、青年は苦笑いしてそちらに足を向けた。
からりと晴れた空に、象徴でもある太陽が輝いている。
着席してから先に口を開いたのはオートだった。
テクーが光神に友人のことを語っていたように、友人には叔父のことを語っていたのだろう。職業こそ明かしていなかったが、思いやりのあって立派で、子供にも優しく、世界一尊敬している人である――そんなことを他人の口から聞くことになったカルだ。
「あの子はそんなことを言っておりましたか」
「ええ。見たことのないはずの人だったのに、すぐわかるくらいには」
「これはまた。……いい子だったのか、見知らぬ友からわかるほどに」
俯いた老人に不穏なものを感じたのか、青年が身を乗り出した。
「だったって、なにかあったんですか」
「とても言えることじゃありませんでな……生きておるので、そこは安心してくだされ」
そこで会話が途切れた。
――これも縁か。
カルはさきほど考えていたなにか、その一片を、隣に座っている人物に投げかけてみることにした。神はいるのだと、この青年は甥に語っていたはずだった。
「いささか唐突ではありますがな。神というものを、どう思いますかな?」
不思議なことにオート青年が笑った。そんな話題だろうかと老人は不思議に思ったが。甥の友人はこらえきれずに小さな笑いが漏れた、という風だった。
「神ですか。見栄っ張りの意地っ張り、尊大で、口が悪くて、人にあれこれ指図したがりで振り回して。でも妙に聞き分けのいいところもあって、寂しがり。そんなだと思います」
「……なんともまた、とんでもない答えだ」
「さあ、適当言ってるだけかも」
――まるでヒトのようじゃないか。
彼が嘘を言っていないことと、光導教ではないことは確かだった。カルが交信したものは、もっと非人間的で、ひたすらに平和だけを求めていたのだ。
「そんな方を探しておられるのかな?」
「そうですね。……もう俺は必要ないのかもしれないけど、それだったらそれでいいんです。俺、そろそろ行きます」
「おお、そうですか。引き留めてしまって」
「いい休憩になりました。これ、よかったら食べてください。お腹空いてるみたいですし」
オートが差し出してきたのはサンドイッチだ。それでようやく、カルは自分が昼を食べていないことを思い出した。さっきからときどき、腹が鳴ってたんですよと青年が気まずそうに言った。
「これは……お恥ずかしい。いいのですかな?」
「ここで食べなければ、ですけど」
広場は飲食禁止だ。返されて、老人は笑った。少し気持ちがよかった。
戻ろうかと教会へと目を向けると、数名がこちらへと走ってくるのが見えた。戦陣隊長とその部下たちだ。
「法王さま……探しましたよ。お戻りください」
青年が驚いているのがわかった。広場で声をかけてきた老人が法王だというのは、なかなかない偶然だ。一本取った気になった。
「でかくて重い帽子と服がなければ、ただのジジイでしてな」
「そんな言い方……いや、本当なんですか?」
「光導教におきましては、歴代随一の不良法王であらせられますがね」戦陣隊長が補足した。
「ただの、友人の叔父として接してもらえると。さて、戻ってサンドイッチ食って働くぞ! 安息日に忙しいのがこういう仕事のつらいとこじゃの。祝福あれ! ……こう言っとかんと、仕事柄カッコがつかんので」
「……すみません、俺は光導教徒じゃなくって」
「ああ、ええんですよそんなの。適当で」隣の護衛が、とんでもないものを見る目をしたような気がした。「あなたが信じるもの、あなたの中の神に祈ればよろしい。見栄っ張りの、寂しがりな、きれいな赤毛の女性に」
「そういうこと言われると、ほんとの法王さまみたいに思えてきます」
「ただのジジイでもできる仕事ですな。服の重さと階段の勾配にだけ気を付けてれば」
それが目下、カルの悩みの種だったのだ。いまは少し事情が変わっていたが若者にも事情がある。そこまで長話するわけにもいかなかった。
そして、オート青年が走っていくのを見送ってから。
隊長がカルに、中は大騒ぎでしたよと恨み節だった。すまぬすまぬと適当にあしらって、巨人の信徒のことも考えて設計された、ひたすらに大きな扉をくぐる。
「昼食はご用意しましょうか」
「まだ作ってないんじゃな。ならよかったわ、わしはこれ食べるぞ。思いやりの恵みじゃ」
「毒見はするまでもありませんかね」
万が一で毒殺されたとしても、神さまがおるでいいんじゃないのか――それはさすがに口には出さなかった。ジョークにしてもキレが鋭すぎる。
屋内に入る直前、日が陰るのを感じた。
「曇ってきたかな」
「天球見の話では、終日晴れだと聞いておりましたがね……」
その会話を最後に、ドアが閉じられる。
それからすぐに、中庭を散策していた信徒たち、広場に立っていた兵士二人、王城のバルコニー、出店の並んだ通り、喧騒の中にある人々――屋外にいるすべての人が空を見上げた。
空が途中で途切れて、太陽が見えなくなった。だが、そうなっていても地上は明るさを保っている。それまでとは違う色合いに変わっていたが。
天と地を分断した帯幕そのものが光り輝いていた。やがて性別や感情が明瞭としていない声が響き渡った。
『光神が降臨しました。みな、この声へと耳を傾けるのです。さすれば平穏へと導かれましょう』
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