#2-8
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信仰の力を少しだけ――己を一本の樹だとするならば、枝の一節の、末端の葉っぱの一枚の、そのまた半分ほど――取り戻したクベルナには、眠る必要が薄くなっていた。力に伴って、失われていた記憶も少し取り戻したように思えた。
他の神がどうだったかは忘れてしまったが(あるいは最初から知らないのかもしれない)、夜は人々が寝静まり、見ていても退屈であるから、女神は時間を潰すために眠っていた。
女神のこちらにおける第一の信徒、オートという名前をした人間の部屋、その内装は簡素なものだった。服も少ないし、クベルナが着るためのものもない。
本はあの枯れ枝娘が呼んでいたもののおさがり(ゴブリンでもわかるシリーズが複数冊あった)か、魔術や神聖術といったものについての概論、ミアタナン史、神学論、役所で書き留めてきたであろう税や権利についての覚書があるくらいだった。そして、あまり多くない荷物をすべて押し込めることができるだけの大きさをした鞄が一つ。普段使いでないなら、ここから出ていくときのためのものなのだろう。
この家に降臨(居候だぞ、と枯れ枝が言っていた)して数日が経つが、それが使われているのを見たことがなかった。
――総じてあまり面白い部屋ではないわね。せめてお酒か鳥でもいたらいいのに。
「いかにもつまらない部屋だって顔してるな」
戸口に立っていたのはかつての部屋主だった。廊下は暗い。脂蝋燭の明かりが唯一の光源として、二人の間で揺れている。
「神の寝所に、夜這いにでも来たのかしら」
「添い寝するんなら、本を相手にやるさ。サヴィには土産を買っていかなかったからしょんぼりされたみたいだ。怒られたほうがまだよかった」
結局あのまま、ゼントヤの大橋前から逃げるようにして帰った二人だった。
鈍くもないクベルナには察しがついた。
――問題は土産じゃないわよね、これ。
「それで居心地が悪くなってこっちに来たのかしら。なっさけない」
「その通りだよ、なんとでも言ってくださいなっと」
昼間とは違って、隙を見せないようにと心がけているのがよくわかった。闇に抱きしめられた街を眺めていると、オートが夜のほうが明るい場所もある、と言った。
「ちょうどいいわ。戻れないっていうなら、あんたはあたしが退屈しないように、なにか物語するのよ」
「なんだって俺が」
「あんたのことを知りたくなったから――」予想通りにやせ男が息をのむ。「そう言ったら、驚くだろうと思ったわよ」
「……そう大層な話なんてないぞ」
一日に二度目の失態を流したいのか、彼は入り口に座った。寝台に腰かける女神から五歩の距離。
話されたのは、興味深くはある話だった。河を流れて鼠に拾われ、記憶を失っていたから知識を与えられ、粗末な仕事をして糊口をしのぎ、この家に借金取りとして入ったときから大きく生活が変わった。枯れ枝と出会い、別れ、人を集めて押し入って、目的を達成した……。
ちっぽけな、たった一人の人間の物語だ。外見と記述を少しずつ入れ替えたものが、ミアタナンだけではなく、世界中のどこにでもある。その一つが終わるころには別の物語が生まれている。その中でも関係を築いた相手のものだからか、少しだけ他のものとは違うように感じた。
「それ以前のことはなにもわからずじまいだ。ゼントヤに近づけばなにか取り戻せるかもって思ってたけど、そんなこともなかった」
「ふぅん。ある意味では、まだ生まれて間もないってわけ」
「もうちょっと言いようがあるんじゃないのか、それ」
大きな赤ん坊扱いをされたと思ったのか、顔をしかめたようだった。赤ん坊。昼間の……ちょっとへんてこな男女、確かダグとかいう名前のは、間違いなく子をその身に宿していた。食べ物として扱われていた生物から、残された精髄と呼ぶべきものを実に宿して食べさせたから、その中のどれが『当たって』いるかは、神も知らない事柄だった。
当然の見返りとして信仰を得て、蜂の姿を思い出したのだ。今回はうまくいったが、まるで見せ物のごとく神の奇跡を安売りして信仰を獲得していかなければならないというのは、好ましい事実ではなかった。だがやらねばならないのだ。死なないために、だが節度を持って。
――節度ねぇ。
沈黙のとばりの下で、なにを話そうかとクベルナが考えたとき。意外にも、真っ先に浮かんできたのが故郷のことだった。どういう心の動きをしてそこに達したのか、まったく説明がつかなかった。
話すか話さずにおくか、少しだけ悩んだ。
「ギフルアという大陸、あるいは世界を知ってるかしら?」
オートは少し見上げてからかぶりを振った。すべらかな脚に視線が吸われていたことを、その体の主はもちろん気づいていた。
「海に住むたくさんの生物のせいで、俺たちは沿岸しか渡航することができないって聞いてる。空飛ぶ船を作るって計画も持ち上がってるみたいだけど、うまくいってない」
個人の魔術による飛行は、まだ見ぬ大陸への飛行を行えるほど持続しない。そう付け加えられた。
「己の力で飛ぶこともできないのなら、そうすべきでないってことよ」
「お前、ほんとにからくり……機械を嫌ってるな」
「それが神を滅ぼすものだもの、あたしの命を脅かすものと仲良くやれるわけがないでしょ。ヒトが便利って言葉にすがりつくと、それが神になるの。そのうち機械仕掛けの神でも現れるんじゃないの」
因果なものだと女神は笑った。ヒトよりも巨大な力を持っているのに、不必要になったら生きることもできずに死に、墓荒らしを待つだけになる。
「包丁とかどうすんだよ」
「大地は作るけど料理はやったことないから」
「めちゃくちゃな話だな……」
「いいところだったわ。人々は素朴で、毎日の糧を神々の恵みだってわかって祈りを捧げてた」
神としての根幹は、多少変質してしまった現在でも思い出すことができた。
“腹が減った。”
クベルナはたくさんの実りを与えた。
その時人々には誰が天地であり、己を創り出したかよりも、誰が禾穀を実らせたかのほうが重要だった。感謝されて、より大きな神になった。
“あの山が平らだったら!”
そういう願いが増えたから、大地の娘であるクベルナは山をぺしゃんこにした。峰に囲まれた土地にも太陽が顔を出すようになり、実りがますます増えた。
敵の民が攻めてきた。人々は神に祈った。どの神よりも最初に、これまで願いを聞き届けてくれた大地の娘に。
“神よ、救いの手を!”
女神は地割れを起こしてその中に数えきれない命を飲み込んだ。それから簡単には攻めこまれないようにと、陸地を分断した。それでも海を渡って攻めてくるので大地の砦を作った。それでギフルアは守られ、ますますの繁栄を味わうようになった。
海向こうの敵の民の恐れがギフルアにも伝播して、いつしか生贄が自発的に捧げられるようになった。守っていた民の中から。
“神よ、我らに実りを、繁栄を、勝利をお与えください。いくつかの命を捧げます。”
はじめは祈りだけが捧げられていたはずだった。だがいつしかそれは転じた。当たり前のように命が供物とされ、それが常態となった。
豊穣を与え、滅びをもたらし、都市を守り、砦を築く神。死と百獣の女王、クベルナ。そのはじまりだった。
戯れに死を振りまく一方で実りを与えることもある。死と再生、双面を持った神性。もっとも強大で、もっとも凶悪だった時代だ。
ひとたびそうであるのだと定義されれば、神はその影響を強く受ける。ヒトの意識の集合が神を歪める。
荒ぶる神であるかのようにふるまうことを求められ、その通りに事をなした。制御する自我が、生まれたころのものからすり替わっていたのだから、クベルナは止めることすら考えなかった。
生贄が少ないとだだをこねて土地を渇きに落とし、飢えさせた。供物が多く、質もよかったので過剰な実りを与えた。富める土地は、格好の獲物だった。侵略者から守るために獅子や蜂を放ち、食い荒らした。死骸から芽が育ち、やがては森になったが、人喰い森だとして誰も近づこうとしなかった。
やがてギフルアは、もっとも恐るべき女神に愛された大地と呼ばれるようになった。死と百獣をつかさどる一柱だけがその大地を楽土と呼んだ。神が苦しまずにいられる楽園だと。
「そうなったらあとは簡単。その楽土はあたしだけにとって住みよいところ。ヒトは土地を捨てて逃げ出すか、あたしにこう願うようになる……『なにもしないでいてくれ』って。それだけ。もちろん神だもの、それを叶えてあげたわ。なにより簡単で、我慢ならなかったけど」
畏敬されてこその神なのだ。望まれるままに存在する神など、ただヒトを堕落させるだけの、この上なく便利な道具にすぎないのだ。嫌っている機械と大差ない。それが意思を持っていて、良かれと思ってやるから、ひどい結果にもなる。
――あのころのあたしは、そんなことすらわかっていなかった。
信仰が薄れていったころ、狂乱からふと覚めたときには手遅れだった。父神も母神も薄れて、姿は見えず、声も聞こえなくなっていた。天にその愛すべき煌めきはなかった。力を失うにつれ、神としての原形質に戻っていった。だが記憶は消えなかった。
誰もいなくなった、かつての繁栄を思い返せないほどに荒れ果てた廃墟。意志あるもののない、忘れ去られた場所。
ひとつの神話の終わり。
そうしたのが己であるのだと、その自覚はあった。
「そのうちにすべての神への祈りが少なくなって、そのうちにもっと別の、新しい神が作り出された。バッカみたい。でもヒトはそういう生き物で、あたしはそれに依っているの」
そして現在は、ごく少数の信徒によって支えられている――しかも一人は、極端に信仰の薄い――世界で最も弱い神だ。
「神ってね、ヒトが望む神らしくふるまってはいけないのよ。だけどそうしなくても死ぬ。生き物みたいって思うわ」
「だったら、ヒトみたいに生きるのかよ」
オートの目は、クベルナの根本について問いかけるものだった。
「まさか。あたしは神なのだから、そのようにあるに決まってるじゃない」
「神って、みんなそんな感じでいるのか?」
「あたし以外はみんな消えたわ」
彼の目に浮かんでいたのは羨望だ。物質的、精神的な強さに対する憧れ。持っていない自分への劣等感。それらを他人から授かった言葉でかき消せると期待している。
「話せって言ってたけど、女神さまのほうが長く物語してたな」
「ふんっ。こんな夜だもの、特別なことをしたくもなるわ。それよりあんた、そうあることじゃないって心得て、ありがたく思っておかないと許さないから」
――こいつがあたしのことを知ったからって、どうだっていうのかしら。
クベルナにとって、語ることで得られたのは自戒と教訓の再確認、ただそれだけだった。
望まれるままに神であってはならない。
そしてもう一つ。今度こそは、もっとうまくやってみせる――。
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