#2-4
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ここは違う世界。朦朧から抜け出して、ようやくその認識が根を張り始めていた。
廃墟になる前の神殿近くとはまるで様式の違う家屋であり、街だった。
神としての力をほぼ失ってしまったクベルナには、たいそうな神変を起こすことはできなくなっていた。かつて、己の大地であればすべてを掌握できていたというのに。いまではまるでヒトであるかのように、首や目を動かすことでしか景色を見ることができない。
――ごたまぜの家。
そういう感想を抱いた。ここに住んでいる数人が、自分たちの色で部屋や廊下、空気を塗り替えようとしている途中に割入ったような、ヒトであれば居心地が悪い、とでも表現する空間。
言葉を覚えた、というのは嘘ではなかった。
女神はすでに、ミアタナンで用いられる言語を把握している。大地に染みこんだ言葉たちを眺めていれば、ヒトの会話くらいはすぐできるようになるのが神という存在だ。それでもしばらくは喋らずにいたのは、食べるのに忙しかったからだ。
この都市にどうにか行き着いたものの、力を限界まで絞りつくした状態で、身動き一つ取れなかったのだ。女神を観測できる人間にたまたま発見されたのは望外の幸運と断言してよかった。
――オートと言ったわね、こいつ。
このやせ男は神を最初に発見したうえ、あまつさえ自宅で、民と同じように座しての食事をはじめてさせたのだから、一生分の幸運を使い果たしてしまっているのだと思う女神だ。
街を歩くほとんどのヒトは、具体性のない光を信仰していた。あいまいな勘ではなく、クベルナが神であるからこそわかる事実だ。おおよそのヒトは一度に一方しか向くことができない。それが光へと向いているのであれば、こちらを向くことはない。
「女神の名を冠するもの。こちらは縁のないあなたを助け、とてもとっても多くの食事を与えた。恩に着せるつもりはないが、これからどうする気でいるか、それくらいなら教えてもらってもいいと思うぞ」
鋭い、警戒の色を隠そうともしていない声だった。
クベルナは森の気配を色濃くまとった、耳長の娘を――サヴィと呼ばれていた――見た。これの胸の内にあるのは緑の息づく森と、手をほとんど加えない自然まかせの生命、そして年輪のごとく、気長に積み重ねられていく神話だ。それはもっとも純粋な大地礼賛ではなく、自然に――たった一つの森と、生命に偏りすぎていた。
それでも光にすがっている大多数の者どもよりは力になりそうだったが。しかし女神は「これじゃない」と切って捨てた。
「おまえ、耳長」口を開くのは二度目だったが、違和感があった。果たして大地の娘とうたわれていたクベルナは、このような声をしていただろうか。「下がっていていいわ。関係のない話になるから」
「んなっ。ちょっとオート、この無礼平野の神をどこで拾ってきたんだ。ちゃんともとの場所に返してくるんだぞ」
この娘には関係のない話であるのに、勝手に憤ってくるのだからたまらない。理不尽だった。
「無礼平野だって、どういう言い草をするのかしら、枯れ枝娘さんは」長い耳が跳ねた。女神が思ったより効果を発揮した言葉だった。
「大地の娘だなんて言って。土っころの小娘にしか見えない」己の頬がひきつったのがわかった。
「相手も犬猫じゃないんだからちょっと落ち着いてくれ、サヴィ。あんたも煽るなよ、神さまだっていうんならさ。喧嘩をするだけなら、エルフと神さまじゃなくたってできるだろうに」
「だってさっさと目的も言わないんだぞっ、それによりによって、森の民を枯れ枝って……」
枯れ枝はしぶしぶではあったが、矛を収めたように見えた。
目的。クベルナにとってそれはたった一つだった。
「生きることよ」
それだけなのだ。短い言葉だったが、熱が篭っていることを自覚していた。生きる。そのために故郷を、もっとも大切にしていた繋がりすらも捨てて海を渡ったのだ。
「それならいまやってるだろ」
オートが言った。ヒトにとってそれは常識だ。過去があり、死ぬまでは未来へと続く現在がある。ここではときどき、死者も生者に混じって暮らしているようだったが。ヒトと神の違いを理解している者はいないように思えた。
女神は、己を見つけて拾ったやせ男を見た。平凡な男に見えたが、市井とは少し違う気配も漂っていた。
信仰を失った、ただの現象に落ちかけていた神を見失わなかったこの男だが。特別な才能が宿っているわけではなかった。もちろん前世やなにがしかの縁が結ばれていることもない。これまではどこにも強い関心や信仰を捧げてこなかっただけだ。頼るよすがは己の心にあるいくつかの記憶のみで、狭い足場に一所懸命踏ん張っている精神だった。
それをこちらに向ければ、ちっぽけなものであっても総取りができる。そう踏んだのだ。
「喜びなさい、オートとかいうの」
三度目。やはり存在そのものが変質、あるいは欠落していた。おそらく海渡りの際に己を見失った瞬間があったのだ。どこがどのように変化しているのかは不明瞭だったが。それは向かい合う男との共通点だった。身構えた彼にも欠落があることを察した。だからこそ女神は、この邂逅がオートにとっての福音でもあるのだと信じて疑わない。
「あんたに、あたしの第一の信徒となる誉れを授けてあげるわ」
なに言ってるんだこいつ……そんな目で見られたクベルナだ。せっかくの名誉を、まるでうさんくさいもののように扱われた。もちろんはじめての経験だった。
「なに言ってるんだこいつ」実際に言われもした。
「なんでよっ!」
「そうだぞー。もっと言ってやれ、虚無平野と。そんな破廉恥な恰好してて恥ずかしくないのかと」枯れ枝が女神をぴしりと指さし、言った。
「別にあんたたちを楽しませるためにやってる恰好じゃないわよっ。由緒ある衣装であるのだから」
――ちょっぴり身長が高くて身体が不毛丘陵しているとはいえ、大地そのものと呼んでも差し支えなかったはずのあたしに、どれだけなめた口きくのかしら。
力を取り戻したらひどいことを――具体的には蜂を召喚しまくって、羽音で睡眠不足にしてやろうと心に誓った。
「俺はそこまで言ってないぞ。そしてあんたは芋シャツと短パンでそれ言いますか、サヴィ先生」
「室内だけだから……いいだろ、きっと」
それはない、とクベルナにもわかった。
「あたしは別のところから、七日七晩かけて飛んできたの。ここで、ぶざまにも消えかけてしまっていたのだけれど」
疑問質問反論をすべて受け流して、クベルナは語る。サヴィとやらは半信半疑、オートは興味深そうに。やはり信徒にふさわしいのがどちらかは明らかだった。
「神というものはね。ヒトが見たことでようやく存在できるのよ」
「待ってくれ」止めたのは耳長だった。
「なぁに、枯れ枝……じゃなくて耳長」
「寝てるときに両脇に腐れ苦花の蜜をたっぷり垂らしておいてやろうか……私はエルフだぞ。サーマヴィーユ。サヴィっていうのは特別な呼び方だからな。あと枯れ枝はもっとやめろ。そのうち容赦なくなるぞ」
それが誇らしいことであるかのように、彼女は腕組をして胸を張った。
女神よ、お前には許していない――そう言外に除けられたのだ。クベルナは彼女を枯れ枝と呼ぶものの、精霊の系譜に連なるであろう体が、一般的には美の範疇に入っていることを認めるしかなかった。耳長娘はともかく、神のひとつ手前に存在している、純粋な自然のかたちをした精霊がうつくしいものであることは間違いない。
「それではまるで、ヒトが神さまを作ったみたいだぞ。創世の神話はどうなる」
女神は目を閉じて、意識を過去に遊ばせた。父神サクル、母神トルイー。それぞれ宇宙と太陽の化身だった。ギフルアという大陸は、最初の娘である己が土を盛り種を植えて形作った。そこにトルイーが星を見てヒトを作り、地に広げた。その記憶はある。
だがそれが『サクルとトルイーによって生まれた己の、その手によって生み出したギフルア大陸の、その上に住む人々』によって、そこまでを形作られた神話として語られることで、ようやくクベルナとして顕現したものであるのか。
原初の知性を持った人々が残っていない以上、誰にも証明ができない。
「さぁね。おまえに合わせて問うなら、世界で最初の樹、そのはじまりは種か、それとも樹なのかってとこかしら」黙ってしまったサーマヴィーユに、一言だけ付け加える。「もっともあたしには、己こそ真だってわかってるのだけど」
「小難しいことだって言えるんだな」オートが感心したように頷いた。
「学んだんじゃなく、最初から知っているものとして生まれただけかもしれないわよ?」
クベルナは笑いを抑えきれなかった。ほのかな畏敬を男から得ていたのだ。皮肉を気取っているが、たったこれだけでこちらへの関心を深めているのだから、かわいらしさすら感じてしまいそうだった。
「そういう風に生きている神って、ふつうは死なないものよ」
「信仰を失ったとき以外は……なら、あんたがこっちに来たってことは、もといた場所が滅んだのか?」
オートの言葉に、女神はそうよと頷いた。最低限の頭の働きはあるようだ。
滅んだのだ――父母を、己を信仰していた民は。すべてを失ったと言わずして、どう表現できる?
クベルナは新しい神々について語ることをしなかった。その必要性を感じなかったのだ。
「神だというのなら、なぜ滅んだ大地と最期をともにしなかったんだ?」エルフの問いかけは切実だった。「森の神は二つ、タルモーとスケィル。彼らは土と樹であり、ずっと争っていた。いくさは相打ちで終わり、折り重なった亡骸が森になった――そう伝えられていたんだ。そのように大地そのものになる道もあったんじゃないのか」
「あははっ、バッカみたい。おきれいな話ね。そんな道はどこにもなかったからこうしているのよ。誰も知らないモノが、誰も知らないまま消えて。それを覚えている誰かがいると思って?」
「それこそ、存在していないってことか」女神の語気にあてられたのか。一度つばを飲み込んでからしか、オートは言葉を口にできなかった。
「耳長たちの神はね、死んでも語り継がれて不滅のままであり続けられるからそうしたのよ」
「ただ生命を失うことは、神にとって死ではないと?」
「少しずつ信じてくれていた者が減り、最後の一人すら消えて。あたしがあたしであるほかには価値がなくなっても、ただ生きながらえてきたのよ。従えていたはずの大地にすら必要とされず、ただそこにいるだけで顧みられることもない。誰からも畏れられず誰からも崇められない神なんて、土地に撒かれた毒にすら劣るわ。害することなく、生きた傷跡すら残せないんだから」
クベルナは座り心地のいい椅子から浮かび上がって、ふわりと食卓を飛び越えた。オートの見定めようとする視線に近づいていく。ぶしつけではあるが、このときに限っては許そうと思えた。いまだこちらへ確固たる信仰を捧げていない男だったが。
ふと女神は、ここまでヒトに近づいた、近づけたのはいつぶりだろうかと考えた――ひとつの顔をここまで眺めることは、これまでなかった。まったくふさわしい装いではなかったが、しばらくはここを仮の神殿としてやっていくしかないのだ。いつか、豊穣と死が繰り返される大地を取り戻すために。
腕を伸ばして、指で顎を持ち上げた。少しだけひげの感触が残っていた。まだ少しだけ成長の余地がある若い肉体だ。
男の目が見開かれる。枯れ枝娘に捕まる前に己の四肢を浮かせた。それくらいの神意は回復していた。
神と人間。顔と顔が、お互いの体でもっとも近くなる。
――あたしを最初に見つけ、抱きかかえ、食事を与えただけじゃあきたらず、この距離で見つめあうことを許しているのに。天地がはじまって以来の果報者って呼んでもさしつかえないはずが、こいつときたら驚いただけの顔をして。
「オート。あたしの第一の信徒。あんたには、あたしの信仰を取り戻すための手伝いをやらせてあげるわ。イヤだなんて言わせるつもりもないから、覚悟なさい?」
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