#2-5
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顎を持ち上げられて、オートの顔は上を向けられた。
浮かび上がる体の手前に、神を名乗っている、少女のかたちをしたものの顔があった。ものが下に落ちる力に従わずに、逆さに干した禾穀の穂のように広がった紅玉色の髪。それよりもなお深い、そのくせ汚れたところのない赤の瞳。記憶喪失の男はクベルナに従うのがいいのだと確信している様子だ。
常態とは異なる姿勢をされているからこそ、そのかんばせがいかに卓抜しているのかがわかってしまう。
第一の信徒とやらにも、信仰を取り戻す手伝いとやらにも頷いてはいないオートだったが。自分よりもっと取り乱した相手を見ると、なぜだか他人事のように冷静になってしまうものだ。
「反対だっ」勢い込んだのは、もちろんサヴィだった。蔓草で神の体を巻いてソファに転がす。「なぜそんなことをする必要があるのか、さっぱりわからないぞ。こんな失敬平野の言うことを……ここは代行請負をやるところであって、無償で頼みを聞く場じゃない」
「女神に対する扱いというものをわかってなさいよ、この枯れ枝っ!」
クベルナが足をじたばたと動かす。ホコリが舞った。
「でもサヴィ、こないだ子供が『迷子の妹を探して』って半べそで来たとき、一日中走り回って報酬は飴ちゃん一個で、それも妹のほうに食べさせてやってたよな」
狼人の子供を探す過程で巻き込まれた、まっとうでない商売の強面どもの抗争を蹴散らして、最後にはヒトを売る犯罪集団をひとつ潰す活躍になったのは記憶に新しい。
「まぁ、私は若いからな。そういうことだってある……でもこれは別だぞっ」
「まず若さが関係ないでしょ」簀巻きになったクベルナが口を挟む。
「まったくないな」
だが、長い耳は聞く耳ではなかった。
代行請負の仕事においては、ときどき受けるかどうかの判断に悩む場合がある。事務所の三人はそういう場合に『第一条、依頼は二人以上の賛成を得られなければ受けない』という規則を設けた。『第二条、エルフは本を読みながら菓子を食べない』『第三条、エルフはよくわからない植物を生み出さない』『第四条、奉仕機械は青椒や茄子を残さず食べる』といった、これっぽちも守られていない有名無実のお約束群とは違い、これだけは破られたことがなかった。
「まあ、反対ってことだろ」
「そうだぞ。お前まさか、受ける気じゃないだろう?」
「受けるさ」オートは即答した。そうすることができた。
「どうしてだ」サヴィの声も、必然、厳しいものになる。
連れのエルフにとっては当然の疑問だな、と彼は思った。
いきなりあやしい女が拾われてきたかと思えば、その女が自分のことを神だとのたまい、それなりに親しくしている男がそれに手を貸すとほざきだす。しかも神の教えというものが絡む。誰だって止めるに違いないのだ。
――だけどサヴィ、サーマヴィーユ。お前は俺のことを、なにもないけど助けただろ。故郷を捨ててまで。俺を利用するって言っていたけど、どっちのほうが多く助けてもらっているのか、それくらいわかってるつもりなんだ。
歓楽街の夜、巨漢との間に突き立った矢を見たときの、あのわきあがる感情を今でも鮮明に思い出せるオートだ。
それはこころよい思い出である一方で、消え去ることなく二人の関係に沈殿しているものでもある。少なくとも彼にとってはそうだった。サヴィと何気ないやりとりをするたび、冗談を交わすたびにそれはちいさな棘を伸ばし、心を刺激していた。あの矢の存在を忘れるなと。
どうして――彼はその問いになんと答えるべきなのか悩んだ。自分がそうしたかった、困っている誰かを見捨てられなかった、そうすべきだと考えた。いずれも理由の一部ではあったが、すべて正鵠を射てはいなかった。
誰からも必要とされず、顧みられることもない……。クベルナの言葉は彼にとっても共感できるものだった。規模は違えども、その焦りと孤独は己の内側にあったのだ。
女神への共感と、サーマヴィーユがしてくれたように別の相手に手を伸ばすこと――その代償行為。その二つがないまぜになり、境界を失った感情がオートの中にあった。
「この場においては、おまえだけにわからないことがあるとわかりなさいな」
「お前が語ったあらゆることが偽りだっ」
女神があざけ笑った。エルフが怒りの篭った視線を放射しても、まるで動じる様子がない。
両腕を縛られて寝ころんだままだから、迫力などまるでなかったが。その目は彼をしっかりと見据えて、第一の信徒の内面を見透かしているように思えた。
オートは申し訳なく思った。それでも、態度をひっくり返して反対に回ることはしなかった。ここは曲げてはいけないところだった。
「ただいま戻りました、オート、サーマヴィーユ」
ムゥ・チャンティが帰ってきた。子供の体躯が、両腕いっぱいに荷物を抱えていて、前があまり見えていないようだった。
「……おかえりだぞ、ムゥ」
「おかえり。荷物くれ、しまっておくから」
「うげ、なによこれ。ちょっとあんた、信じられないっ。こんなのと同じ屋根の下で寝ろっていうの」
顔を見合わせ、一段落したら三人目の意見を聞くことにした二人だ。ただオートには予感があった。この話は荒れる――というより、たぶん不明瞭なまま終わるだろうと。そしていつの間にか、クベルナがここで寝ることになっているらしいことを不思議に思った。
「はぁ」
というのが、勢い込んだサヴィと、それを補足するオートの説明を受けたあとの、ムゥの第一声だ。それがあいまいな返答をすることは珍しい。意味の読み取れない話を聞いたときか、青椒や茄子といった野菜を食べろと言われたときくらいだった。
「ムゥ、ここにいるのが見えてないだろ」
「なぁにその言い草は。女神に向かって」
オートは拘束を解かれて、ソファに座ってふんぞり返る女神を指さした。
彼にとっては理屈ではなかったが、正しい考えだと思ったのだ。サヴィにすら最初見えていなかったものが、機械に見えるとは思えなかった。それは当たっていた。
「その通りです。二人ともが存在している、と言っていますから、いると仮定してはいますが。わたしにはなにも見えていません。いま、焼き菓子がひとりでに浮かんで、半分消えました――たくさんこぼれています」
「これおいしいわね」
「そうだぞー。ぜんぶあの女が食べたんだぞー、それはもうばくばくと」
これ幸いと、エルフが自分の所業も他人に押し付けようとしていた。
「サヴィ先生……」
「いいんだオート。これもまた利用だぞ」
よこしまな響きしかなかった。
いくらなんでも、と切なくなって口を挟もうとした彼を制して、ソファに近寄った奉仕機械の目が、瞳の青をそのまま投影した光を向けた。クベルナが露骨に嫌そうな視線を向けるが、まるで意に介した様子がない――見えていないのだから当然だった。
「新しくできた店のものでした。おいしかったでしょう」
「ん、いつものムゥの手作りじゃなかったのか? 食べなれた味で――」
バッカみたいと、クベルナが小声で言った。反論できないオートだ。ムゥはずぼらなエルフの知恵に対応できるようになっていた。
「サーマヴィーユ、第二条に反しましたね」その声色は変わっていないはずなのに、冷ややかだった。「わたしは繰り返し言ってきました。あとで、レェレェです」
「やだ、レェレェはいやだぞ。たすけて、ほら、片づけるから。掃除もする。本を読みながら、もう二度とお菓子食べないから――」
「サーマヴィーユ」
「なっなに。サヴィいい子だよ、ほんとだよ」
若きを自称するエルフがもっと若くなっていた。痛々しさが漂っていたが、それを指摘することができる者はいなかった。
「でしたら、もっといい子にしてあげます。安心してください」
ムゥが満面の笑みを見せた。普段は笑顔を見せないあの子が笑ったという場面だが、感動の涙はなかった。あるのは顔を蒼ざめさせたサヴィの、あまりの恐ろしさに目からこぼれそうになる涙だけだ。
巻き込み事故を恐れてこっそりと下がっていたオートの脇腹を、クベルナがつついた。
「なんなのよ、レェレェって。田舎の呪い? 枯れ枝娘が死ぬの? うれしい」
「死にはしないし、死んだほうがマシってわけでもないんだが……」
オートは、一度だけ受けた中身を思い返そうとして失敗した。そこには虚無だけが横たわっていた。頭を振って、バカな考えを追い出す。
ふたつだけ確かなことがわかっていた。その切り札がある限り、家庭内でもっとも高い位置に君臨するのはムゥだということ。そしてもう一つは、そんな抑止力の存在を知っていながらにして、ヒトは愚かな間違いを繰り返すということだ。
「でも、やっぱりムゥには見えなかったか」
「あったりまえでしょ。バッカみたい、なんだっていうの。生きてるけど生きてない、母の胎から出たことすらない半端モノがヒトの似姿をして歩いてるだなんて、この街はおかしくなっているに決まってるわ」
オートがつぶやくと、女神が当然だと頷いた。
機械と神の相性がいいとはハナから期待していなかったオートだが、予想以上の反発だった。
「見ていなさいな」
クベルナが飛び上がって、ムゥの額に触れた。煙が出た。女神の指からだ。ひどく焼けただれた指の腹は、吐息を吹きかけるだけで治っていたが。痛みからか女神はしかめっ面をしていた。
「ほらね。機械だなんて、どんな馬鹿が作ったモノなのかしら。それも肉と混ぜて!」
「オート。わたしはいま、存在しないものに触れられました。わたしの持つ感覚器のいずれも、エネルギーの流れを観測していません。それなのに触れられたのです。これはつまり、醜いアヒルの三兄弟が合体して白鳥になるのと同じ確率で起こりうることが起こってしまったのです。理路整然とした世界の破滅です」
「触られただけで大げさに。なんだっていうの、まったくもう」
サヴィはレェレェにうなされ、ムゥも証明できないものを証明しようとして矛盾の谷にはまってしまった。正気でいるのは人間と神だけだった。
「賛成が一、反対が一、保留が一だ」
「そうなった場合の決まり事って、作っていないわけ?」
「ないさ。次から作ればいい」
半ば強引に、女神がこの家に滞在することを決めた二人だ。
「不可能の証明はともかく。わたしの所有者に質問があります。食べ物が大幅に……というよりすべて失われているのですが。納得のできる説明を」
「証明が不可能です……あっそうだ、サヴィちゃんがぜんぶ食べました、僕見てたんです」
「オート。あとでお話があります。うそだとしても、あなたは止めなかったことを白状しました」
「ああっ」
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己の他には動くもののない大礼拝堂に、法王カル・アウストロスはひとり座っていた。日常的に立っている、説法を行うための壇上に隠された椅子ではなく、信徒たちが座るための大量生産の長い木椅子だ。
夕刻にさしかかろうとしていた。これからここで説法が行われる予定もない。日課である掃除は午前中に行われており、隅々まで行き届いているのがわかる。ステンドグラスを通って差し込む光はいくつもの色の束になり、磨かれた白石の床がそれを受け止めていた。
カルは、ミアタナンに暮らす数えきれないほどの人々の中でも、間違いなく上から十数名の中に入る影響力を持つ人間である。寝所にすら毎晩護衛が二人就く立場だ。それがどうしても煩わしくなることがあった。この夕暮れがそうだった。役目を買って出た戦陣隊長への多少の申し訳なさを感じつつも、職責を忘れ、ただのカルとしての解放感を味わっていた。
光の日が近づいてきている。
それは光導教の唯一の神である、名前を持たぬ光神が地上に降臨するという伝説の日だ。
――それが誤りであるということを知っているのが、果たして何人いることか。
数百年前に、この地でガヴ王家による建国があった。それと同時期に作られた光導教は、人造の宗教だ。光神など存在しない。いくさの世を終わらせたあと、種族も生活様式も異なる人々の意思を統一するために作られた、統治のための道具が光導教なのだ。
清純に、温和に生きるべし。そうすれば、限りない平等と幸福が約束された来世が舞っている――それでは今生はどうなるのか? 国に捧げ、耐え忍べということだ。
軍人を除いては争うことなかれ、隣人によく気を配れ――王権のための配慮がにじみ出ているではないか。
やがて平和になるにつれ、王権と宗教は分離した。生活の水準はずいぶんと向上した。それは神の教えによるものではなく、ゼントヤ研究学院の開発し、市井に提供した技術群のためだ。
光導教は王家のものから民衆のものへと変わったのだ。だがそうなったところで、原点がすり替わることはない。出発地点は統治であり、あいまいなままに留めて造られた光神は、どこまでいっても人工の神だ。王権の創造、環境の整備、人心の安寧――それらは光神によるものだと、通説ではそうなっている。
――権力を掴み取ることも、土地の調律も、ヒトの心を変えることも。それらを行える個人が存在するというのに。
その者たちであれば、己の技量でもって『光神』を形作ることもできるであろうことを、カルは事実としてわきまえていた。
光神さまが降臨する日だ、それはめでたい。だが降臨したその神は、なにをするというのか? 書にはただ降臨するとだけで、なにかをもたらすとはどこにも記されていない。ならば、我々はなにに向かって日々の祈りを捧げている?
そこに考えが至ってしまったときから、カルは一人になる時間を設けるようになった。
カルは、メモを覚えておくためのメモを持つ甥、テクーのことを考える。
早くに両親を失った少年を養育してきたのはカルと光導教に携わる人々だ。多くの手を借りて、外気の薄いあたたかな環境で育ってきた少年は、大きな図体と、それに見合うだけの心の広がりを得た。
叔父として後見してきた老人には自信を持って言えることがある。テクー・アウストロスは、誰よりも熱心に神に祈る。一日たりとも祈りを欠かさず、日々の出来事を包み隠さず光神に報告していた。どこにも届かない祈りを、丁寧に捧げて。
カルとてわかっていた、この教えはヒトがヒトのために作成したものだ。ならば仮想の神であれども、自らの規範を常に観察しているなにかを置くことで、よき社会のうちにとどまり続けることができる。だがそれが神の役割ならば……神をもっと別のなにかに置換することも、可能なのではないだろうか。たとえば空を飛ぶ麺類のように、けったいで想像もできないような、出鱈目な存在――。
「いかんな、過激な論調を持て余す神学生のようで」
歳のせいか独り言が漏れた。声は反響して、やがて消えた。
疑問とはすなわち、自らの信仰を試す苦難だ。それらを乗り越えなければならない。その先にこそ、まことの信心と呼ぶべきものがあるはずなのだ。
その通りです。
思念が伝わってきた。どこからだ、と見回す必要はなかった。当然そうあるべき場所に、あるべき形があったからだ。
壇上に光があった。
輝きは拡大し、それは大礼拝堂を埋め尽くした。
カル・アウストロスは神を見た。
異変を察知した戦陣隊長が飛び込んできたとき、カルは呆然と床にへたりこんでいた。
「ご無事でいらっしゃいますかね、法王」
「ああ、ああ……問題ない、だが頼みがひとつだけできた」息を荒げながらカルは言った。
「憔悴してらっしゃる。自室にお運びすればよろしいでしょうか」
首を振る法王に、隊長は変事の気配を感じ取った。カル自身も、忠実な彼に説明をしてやりたかったが、それよりも先に行わなければならないことがあった。
「わしのことはいい。テクーを連れてきてくれぬか、できるだけ早く」
「甥御殿をで?」この場にはふさわしくないことのように思えたのだろう、隊長は首をかしげた。法王がもう一度「頼む」と念を押すと、鎧のトカゲはしっかりと頷いた。「かしこまりました、すぐに行わせていただきます。そのかわりしっかりとお休みくださいよ……誰か! 獣線車を用意しろ、戦陣聖堂騎士はすぐに出るぞ!」
法王カルにとって、戦陣隊長は信頼できる人物だ。すぐにやり遂げてくれることはわかっていた。もう一度信徒の席に腰を下ろして、大きく息を吐いた。
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