#2-2




 都市ミアタナンでもっとも広く信仰されているのは、光導教という教えだ。

 軍人を除いては争うことなかれ、隣人によく気を配れ、家族はお互いをいたわり分かち合え、週に一度の安息日には教会に赴き、祈りを捧げ、平穏への感謝の賛美歌を合唱するよう――人々はそのようにあることが望ましいと、そういう教えを説いていた。

 年に一度、夏の月、そのはじまりの週の安息日。光導教は、それを光の日と定めていた。名前を呼んではいけないという光神が地上に降臨するとうたわれる日で、もっとも貴ぶべき祝祭日だとされる一日。


 その光の日がずいぶんと近づいてきたある日。

 オートはガヴ中央十字通りを歩いていた。

 ミアタナンを四等分するように十字に伸びる、街でいちばん広い道だ。横断するのにも時間がかかる広さで、人々の往来も多い。祝祭が近づいているからなおさらだ。

 銀線細工獣車――獣線車が専路をせわしなく駆けていく。魔術の影響を受けやすく、比較的近場に鉱脈がある銀で編まれているものが多いからその名前が付けられた。希少な金属で編まれていても銀線の名を冠する。肉も体毛も持たず、生物の骨格ですらない。量産のできない、個性ある獣たちに共通しているのは、その目に宝石がはめ込まれていることだ。力ある石が魔力を宿し、銀の獣たちの心臓となる。

 線だけで立体的に表現された造物たちは、自然の少ない街に定着していた。直線を宿さず、すべてを曲線で構成するのがもっとも美しく、腕のいい工匠の仕事であるとされているが。このときオートのそばを通ったのは、芸術からは遠い、ほとんどを直線で構成された牛だった。安く、それなりの力があり、市民でも手が届く値段。

 中道へと入った。

 それだけで喧騒から大きく遠ざかる。覚えている道順をたどり、かつて住んでいた場所に近づいていく。一本、また一本と大通りから遠ざかるたびに、住居に彩られている光の日の装飾も少なくなっていく。代わりに不潔さがにおいを伴って増してくる。

 やがて完全に失われたとき、彼が立っていたのは薄暗闇の路地だ。壁には堆積物や、希望も金も住む家も失い、そこでうなだれるしかない人々が横たわっている。


「よっ、オートの兄ちゃん。シャバでよろしくやってるかい?」


 影から歩み出たのは少年だ。年ごろは十二、三歳ほど。親を持たない子供たちで構成された子供盗賊団のひとり、モーニ。


「遮光権のことでは助かったよ。これ、礼だ」

「いいね。もらえるもんは……」

「病気以外ならもらっとくんだろ」


 もちろんその通り、と少年が笑った。

 オートは手に提げていた袋を渡した。子供たちが必要としているもののごく一部――金と食べ物が入っている。彼らへ支払った金額で、報酬の七割は飛んでしまったが。三人の共同財産からではなく、彼個人が持っている金から捻出した。確実に仲裁できる道を選んだつもりだったから、後悔はしていなかった。


「吸血鬼とか屍圏どもはまあ納得してるみたいだよ。狭い、蒸してる、暗い、サイコーって。あいつらわがままなくせに夜だとつえーから、あんまり関わりあいになりたくないんだよね」さっそくパンを食いちぎって、モーニが言った。

「そりゃよかった。お前らに下調べと根回ししてもらったおかげだよ」

「オレたちはいいけどね。稼ぎが少ないのに、そっからこっちに金を回してて大丈夫なの?」

「うまくやるさ」実際のところ、どうすれば上手なやり方になるか、その正答などまるで見えていなかった。「それより、貧民窟と……夜見世通りのほうはどうなってる?」


 オートはかつて、夜見世通りの歓楽街の元締めともめ事を起こし、結果として相手を破滅させた。その一件からこちら、報復もあるかもしれないと、あまり貧民窟には近寄っていなかったのだ。下町とは隔絶した世界なので、情報もあまり入ってこない。

 モーニ少年が年上の弱気を見抜いて鼻で笑う。


「あんまり変わってない。あんたがやっつけたポルインがいたところには、もう後釜が座ってる。エルフのねーちゃんが……まあ、ああいう風にしちゃったゾドンがいなくなったから、新しい王者が出てくる。どっちももう、いつも通りの歓楽街と賭け闘技場。そんなもんさ」

「スプルドグルフトってのは、そんなに大きいのか」

「大きいっていうかさ。明確な頭が知られてないんだよ。上も下も、ぜんぶ取り換えのきくヒトの部品ってね」


 ポルインという男の背後にスプルドグルフトという犯罪組織があった――そのことをオートが知ったのはすべてが終わったあとだったから、実感がわかないでいた。

 誰が死んでも代わりがある。

 その事実は、自分が覚悟を決め、生命をかけてやったはずのことを、よくある陳腐な話のひとつにしてしまったようだった。


「まあでもさ。兄ちゃんも知ってるあの黒乳首をした熊だとかは、あばら長屋を引き払って下町に移ったってさ。何人かはマシになった。うん、ちょっとは変わったよ。でもあいつ、ぜってー子供の教育に悪いよな。乳放り出してるんだぜ。熊だけど。ウチにも一人子熊がいてさ、そいつがちらちら覗きにいってたんだよ。ばっちくてやらしーよな」


 多人数で囲んで叩いて追いはぎをすることを生業とする盗賊が教育を語っていた。でもお前だって人間の女のだったら見るだろ、とは言わなかった。オートだって見てしまうだろうから。


「金も……もう少し貯まったら、みんなで商売やろうと思ってる。そしたら兄ちゃんたちに頼むことも増えるはずだから、今度はこっちが金でこき使ってやるからな」

「そりゃ楽しみだよ。なにするのかってのは、まだ秘密なんだろ?」


 当然とばかりにモーニは頷いた。少年らしい、無邪気に未来を信じている顔だった。オートは彼らに向かって、盗賊をやめてまっとうに働けとは言えなかった。

 鉱山、煙突掃除、河潜り、改造体、犯罪組織の雇われ者――いずれもこの街から離れるか、多大な危険に身をさらさなければいけない。体の育ち切っていない彼らにできる仕事は少ないのだ。連帯と機転、なにより運でもってたくましく生き抜くのが、ミアタナンで親もなく生きる子供たちだ。




 都市の洞窟から日が差すところに戻ってきたところで、オートは路地の上を横切るようにして架けられた布飾りを眺めた。市販のものではなく手製の刺繍なのだろう、少しほつれて色がまちまちだった。

 光導教にとっての光は、とげとげしく輝くものではなく、大きな円を描き、その中心に小さい円がある、というものだ。中央の小円が光神を表しているのだという。

 すべての行いを神が見つめている――第一の聖句。

 つまりそれって見張られてるってことなのかよ、という感想を抱くひねくれ者が彼だ。

 聖樹通りの近隣住民は、みな光導教の信徒だ。ドリマンダ・チャンティもそうだったとムゥから聞いていた。だが、彼女の家にあとから住み始めた二人は、神をまったく意識していないか、別の神に寄り添っていた。先住の奉仕機械に至っては、目に見えない、観測できないものは存在していませんと断言していた。

 太陽の光がやせた体をさっと撫でて、また途切れる。不自然な感覚だった。風や布飾りによって遮光されたのではなかった。

 オートが空を見上げると、ヒトの体が流れていた。

 それは空中にありながら、落ちてはいなかった。空気にもてあそばれてふらふらと舞い、ゆるやかに高度を下げる。軽い布飾りのようだった。

 魔術体、屍圏、精霊、スピリット、フェアリー、鳥――かつての師から教授された、いずれの種族的な特徴とも当てはまらない。個体差と言ってしまえばそれまでだが。

 流されていくそれは女であるように見えた。赤。広がる髪の、その印象が強い。


「おい、大丈夫なのか!」


 呼びかけても返事はない。

 人々はまだ気づいていないのか、突然叫んだオートが危険視されているようだった。ゴブリン扱いの次はヤク中かよ、と言いたくなるのをこらえて走った。それほどの速度は出ていなかったので、追いついて両腕を上にかかげて受けとめた。頭上ばかり見ていて、大通りに出ていたことに気づいていなかった彼は、専路を走る獣線車にはねられそうだった。搭乗者が怒鳴るより先に、線でできた犬が、ぐぁんと銀をきしませて吠えた。


「悪かったよ!」

「食われちまってもそっちの責任になるんだからさ、気を付けておきなよ!」


 布のように降りてきた女は、ひどく弱っている様子だった。軽かった。ヒトであるのか疑わしいくらいに。だが霊魂――スピリットの類だとするならば、昼間を、それも墓場でもないのに空を飛ぶわけがないのだ。

 休ませなければと、女を近くのベンチに横たわらせる。

 かなり奇抜な格好をしていたことにこのときはじめて気づいた。どういう理由があればこんな服を――まず服と呼んでいいのかどうか――着用する機会に恵まれるのか、見当がつかなかった。

 荒い呼吸とは対照的に、額は冷たい。汗をかいている様子もない。こないだサヴィに貸してもらった『ゴブリンでもわかる家庭医学』には記されていない症状だった。もっともあの本には「いたいところにくすりをぶっかける」以外の解決策はなかったのだが。

 女が目を開いた。切れ目、赤い瞳。吸い込まれてしまいそうなくらいに深く透った色合い。

 次に口が開かれた。かすれた声の耳ざわりが心地よかった。


『これを見なさい』


 オートは耳でその音を聴いたのではなかった。

 なにを、と聞き返す前に終わっていた。ベンチの下に猫が座っていた。誰もいないところを選んで寝かせたはずだった。かしずくように座った猫は、赤い女を主人と定めているように見えた。


「お前の主人なのか?」


 にゃあ。

 ……とりあえず、そうだということにしたオートだ。

 ――生み出したんだとするなら魔術師か。それだって術を使うのなら集中が必要なはずで、こんな状態になって飛んだり、猫を出したりすることなんてできるのか。

 魔術を使うことのできない男には、それ以上推論を進めることができない。猫から赤毛の女に視線を戻すと、さきほどより呼吸が落ち着いて、眠っているように見えた。なにもしていないはずだったが。


「これってどうなってるんだ、おい」


 返事はなかった。猫は消えていた。

 オートは頭をがしがしとかいてから、女を背負って歩きはじめた。



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