#2 神さまが祈るとき

#2-1




 布切れが風にいざなわれて空に舞い上がった。かつてそれが絢爛な立体刺繍のあつらわれたタペストリーだったことを覚えているのは、もう女神クベルナを除いては存在していなかった。

 最後のヒトがここで力尽きてから、どれほどの時が過ぎたのだろうか? その答えを、ただ一柱のみ残った者は持ち合わせていなかった。

 神の寝椅子だった残骸に腰かけると廃墟が一望できた。その向こうから押し寄せる滅びもはっきりと。

 ――かつては、宇宙の中心に思えたほどの繁栄を誇っていたのに。

 ギフルアの地の終焉が、どこまでも虚飾なく広がっていた。神獣として崇められた獅子は一頭たりとも市を練り歩いておらず、崇拝をよこしていた人々の姿もまた同様だった。それらはすでに女神の記憶の内にしか存在していないものだった。

 気候すら変わってしまった石の群れ、古い柱の林を住処にしている、知性の片鱗すら見せないトカゲが一声鳴いて姿を消した。

 神は恐れられ、崇められることで自己を確かなものとするものだったから、生きるために生きている生物たちでは力にならない。神意を振るって進化を促そうにも、大がかりな奇跡を起こすだけの余力は失われて久しかった。

 いまや盗掘者すら訪れない、祭殿群の跡だ。女神は天上にきらめく太陽を睨んだ。母神だったはずのそれにも、すでに懐かしさは消え失せていた。日輪が神格を失い、星の周りを廻って光を届けるだけの機構に成り下がったのはどれだけ前だろうか?

 ヒトの時代が進んだ。

 だがそれがどれほど進んだのか、ギフルアから人気というものが消え失せてどれほど経つのか、かつては大地から生まれたもの、稲妻の戦車に乗って獅子と蜂を従えるものと呼ばれていた女神にはわからなくなっていた。日が昇り日が沈むのを見送るだけの時流は、おおざっぱな感覚すら摩耗させていた。

 クベルナの前、最後から二番目に消えたのは、旅人に信仰される悪戯神だ。関係は薄かったが、ゆきどころを失ってここまで流れ着いたのだろう。

 姿を維持できなくなったそれは、己をすり減らしながらこの祭殿の残骸にたどり着き、そこで言葉を交わしたのちに消滅した。


「もうぼくたちは必要なくなっているんだよ。新しい神話ができていた。強くて、大きくて、情に厚い神々だ」


 とても残酷な話だった。必要なくなったものはいらない――それは当然のことだったが。どれだけのあいだ、穀物を実らせ、死んだ土地を蘇らせてきたと思っているのか。


「そこにはぼくたちに似たものがいた。きみに似たのもいたよ。でもあんまりお転婆じゃなくておしとやかだった。別物なんだ」


 古き人々が伝承を抱えたまま死ねば、それは新しい神話に夢中になっている新しき人々に伝わらない。同じ要素を持ち、呼称が似ていたとしても、それは別の存在だった。


「それでぼくは考えたのさ。もういいんだって。ぼくたちはもう、古い神話になった。かつては強くあったとしてもいまはもう弱い。あとの役目は一度忘れ去られてただの亡骸になったあと、土の中に埋もれてから掘り返されて検分されることさ。墓荒らしされるんだよ。それが仕事になる」


 この悪戯神の――名前はもう思い出せない、あるいは人々から忘れ去られた――言葉は問いかけでもあった。


「なぜきみはまだ生きあがいているんだい?」


 答える前にそれは失われたが。クベルナはそれからもただ生き続けた。残された神具に込められた信仰、思念、力――そういったものを少しずつ舐めるように取り込んで。そうまでして存在を続けるまっとうな理由にはついぞ思い当たらなかったが、それでも生きさらばえてきたのだ。


 それもこの日、終わりを迎えようとしていた。


 ヒトには決して観測することのできない、忘却の津波が押し寄せてきたのだ。世界の端っこにしがみついている異教の神に我慢の限界が来たのだろう。どこまでも大きな、神意の白い波動。

 神の怒りだった。


「あとは墓荒らしを待つだけね」


 言葉を発したのはいつ以来だっただろうか。石床の隙間から這い出た名も知らぬ草が活力を取り戻した。その新芽に触れる。薄れた己の手を透して、みずみずしい生命力の発露が見えた。

 クベルナは最後の神具を手に取った。赤いまがいもののへその緒。


“天である父神サクルと、太陽である母神トルイーが交わってできた最初の子供は死産となってしまった。亡骸を埋めた泥が立ち上がり、悲しむ父神と母神の涙を受けて意思を得た。そうして生まれたのが大地の娘であるクベルナだ。第一の娘にして死からの再生を遂げた神。かの女神がもっとも大切にしていた宝物は、名もなき死んだ神と、泥から生まれた女神を縁あるものとして結びつけるために、母神がてずから、親子の髪を一房ずつ切り集め、束ねて編んだ緒だった。”


 それには神話が留められていた。

 女神をギフルアの土地や神話とを結び付ける、最後のよすがと呼べるものだった。これがあるからこそ、長い時間を耐えられたという証でもある。だがこれがある限り、この土地に縛られるという楔でもあった。

 神意の津波が迫ってきていた。

 詫びはしなかった。クベルナは楔を握りつぶし、己に取り込んだ。経年ゆえに大した力は残っていなかったが、この地から離れることはできそうだった。

 ――どうしてそうまでして生きようとしているのかな?

 問いかけは悪戯神の声を借りて、女神の内から発せられたものだ。絶えず自己の根幹を揺らしてくる質問。常に打ち勝ってきた。この時も。

 生きる、それだけだ。

 すべてを置き去りにするような速さで、クベルナは飛び立った。

 祭殿の廃墟は鬱蒼とした森に包まれていた。どこまでも緑が続いていて、盗掘者ですら簡単に訪れることはできそうになかった。

 新しき神々の怒りが、この期に及んで生存を追求するものを追いかけるように、天へと持ち上がった。見回すと、それは海には訪れていないようだった。女神は海岸へと一直線に飛んだ。


“天上で父神サクルが命の水を飲み干そうとしたときに用いた盃には、鼠が底に小さな穴を空けていた。穴から中身が漏れ、乾いた大地に尽きることのない水がもたらされた。海がはじまった。”


 人々が忘却に追いやった物語だ。大陸を飛び出て海を渡りながら、父神を想った。

 神々の思い出は、すでにおぼろげだ。それらはクベルナの内側に残っている分と、長い時のあと、墓荒らしの末に見つかるであろう欠けた神話しかない。


“母神トルイーはあるとき、一つの流れ星を手のひらに乗せた。トルイーが見つめる中、星はヒトの姿をかたちどった。母神は海と泥からその似姿を作ってやり、大地に降ろした。ヒトがはじまった。ヒトが死ぬとき、トルイーはその命をすくいあげて星に戻してやることにした。夜空に星が瞬くようになった。”


 神話がなくなるというのは、ヒトが変わるということだ。新しい、別の神話のもとに生きる人々は、星から生まれ星に還る子供たちではなくなっているはずだった。

 どれだけの時間を飛んだのか。昼と夜が繰り返される中、母神を想った。

 あるいはそれは単純な飛翔ではなく、どこか別のところへ行こうという意思が働いた跳躍だったのかもしれない。


 やがて七度目の朝が過ぎたころ、陸地が見えた。まったく見知らぬ大地だった。そこは豊かさと複雑さ、そして来訪した女神への無関心を蓄えていた。ヒトの気配があった。導かれるようにそこへ向かった。すでに力はほとんど残っていなかった。

 消えようとしているのは、意識なのか神体なのかわからなかったが、一つのことだけははっきりと悟った。

 ――ここには別の神が根付いてる。

 だがこれ以上どこにも飛ぶことはできなかった。女神は目をつぶって、故郷よりもずっと大きな街へ落ちていった。







 ミアタナンの南西部、聖樹通り。

 かつてはドリマンダ・チャンティの家だったそこには、ちょっと変わった看板が掲げられていた。聖樹通り代行請負所、とある。それ以外に特別目立つところのある外観はしていない。一階が事務所、二階が住居となっている。通りに接した側には見栄えのいいタチアナ薔薇が三色とも見事に咲いており、目をひきつける。一方の裏庭は――エルフ流の家庭菜園だ。街ではほとんど見かけない植物が所狭しと並び、ときどき争っている異界と化した。

 事務所といってもそう堅苦しいものではなかった。一階にしか台所がないものだから、客が来ないとき、所員たちはたいていそこでくつろいでいる。

 この日もそうだった。オートが所用を済ませて戻ってきたとき、出迎えたのはゆるい空気だった。


「ムゥー、お茶をくれるとうれしいぞー」


 住人のひとり、森からはぐれた都市派のエルフであるサーマヴィーユ――サヴィが、手にした陶器のカップをかかげて揺らす。相手がオートだと気づいて薄く笑った。

 依頼を終えてすぐなのか、エルフの戦士が身につけるという緑を基調とした服のまま、ソファに寝ころんだままのだらけた姿勢で。かつて出会ったころの、凛々しい女戦士という印象は死んでいた。

 ミアタナンの外、東部に広がるタルモー=スケィル大森林。そこに集団で居を構えるエルフは、長い者で千年も生きるという長寿なヒト種だ。そこから出てきたはぐれエルフも、それゆえに日々の暮らしが基本的に悠長だと気づいたのは、共同生活をはじめてすぐのことだ。


「オートおかえり。頼んでいたものはあったか?」

「『ゴブリンでもわかる家庭医学』ならあったよ。買うとき、ああこいつはゴブリンくらいの脳みそしかないんだなってかわいそうな目で見られたけど」


 ゴブリン――ミアタナンに暮らす極端な種族である。極端なおばかか天才しかいない。比率は九割九分対一厘くらいだ。一般的に『前と後ろ』が区別できるとか、『殴ってから逃げる』という二つの行動が順番通りにちゃんとできれば天才の部類に入る。逃げてから殴るのはそれなりに出来のいいゴブリンだ。

 いくつかの種族の体の解剖図(線がぐちゃぐちゃで内臓が体の外にはみ出していた)のイラストに「これが ぜんぶ ヒト だよ」とわかりやすく描かれた表紙の一冊を、差し出されたカップの上に乗せる。サヴィは器用に滑り落として空いた手で受け止めた。


「うん。これが読みたかった。礼を受け取ってほしい」


 受け取るよ、とオートは肩をすくめた。エルフの言い回しは独特なところがある。リラックスした様子で朗らかに笑う彼女を見ていると、美人は得だと思う。後ろでまとめた長い金糸のごとき髪が体の横で広がる、その何気ない姿ですら絵になってしまうのだから。たとえ読んでいるのがゴブリン用であっても。


「おかえりなさい、わたしの所有者」


 ムゥ・チャンティが台所からやってきた。かつてこの家の主だったドリマンダにとっての子供だった彼もしくは彼女、あるいはそのどちらにも属さないものへの第三の呼称としての『それ』は、性別を持たない奉仕機械だ。人々に奉仕するものとして作られた、肉と機械の間に生まれた子供。自由自在にヒトを形作っていいと言われた誰かが丹精をこめて造形したであろう、偏執的なものすら感じさせるほどに整った造物美。そんなものに形だけでもかしづかれるのは、小市民にとってはすわりが悪い。

 所有者と呼ぶのをやめてくれとオートが言っても、聞き入れられたことはなかった。


「きょう、腕を飛ばせるかと聞かれました」ムゥが淡々と言った。いつも突然、へんてこな話を投げ込んでくるのだ。「そうすれば、遠くにいる敵を殴ることができるからと」

「いきなりなんだって言うんだ。誰に言われた。殴る予定でもあるのか」

「近所の男の子です。名前はソラター」


 ご近所に住むミノタウロスの主婦、ラーダの長男だった。

 オートは、ムゥが勢いよく踏み込み、腰を切るようにしてパンチを放つ姿を想像してみた。まるで似合っていない。しかもその手が分離して飛び出すという。


「一応聞いておくけどさ……できるの、そういうのって」


 できるって言うなよと思いながらオートは尋ねた。不幸なことに、それは頷いてしまった。世の中はいつだって理不尽だ。


「がんばればできます。まず、手首に切断寸前まで切れ目を入れておいて、腰を入れて思い切り突き出し、その瞬間もう片方の腕で包丁を振り下ろして――」


 ムゥの体の大部分はやわらかい素材――人間とおおよそ同じく、肉でできている。手首や足首といった関節部分を主として、骨格や感覚器も、常人と異なる技術の結晶で構成されていた。


「奇遇。それなら俺も似たようなことやれるわ。ソラター少年に、自分を改造したらどうだって言っといて」オートは雑に答えて、ソファに腰をおろした。

「わかりました。それよりサーマヴィーユ。寝ころんだまま本を読むのはかまいませんが、お茶は座って飲んでください。このあいだどうなったのかを忘れてしまったのですか?」


 己を機械であると規定しているそれも、暮らしはじめた当初は杓子定規だったが。時間が経つうちに、遠慮は死んで、意思が生き生きとしてきた。


「おかわり希望で頭の上にカップを乗せてたらそのまま注いでくれた。くしゃみが出て全部こぼれた。熱かったぞ」

「このまま注げと言われたのでそうしたんです。それで、もう一度お茶をぶちまけますか? それともちゃんと座りますか?」


 サヴィは後者を選んだ。よろしいとばかりに頷いて、ムゥが自家製の黒茶を注ぐ。オートの分もあるあたり、用意がよかった。


「今日の仕事はどうだったんですか、オート」上着を受け取ってしわのつかないように折り畳みながらムゥが尋ねた。「たしかもめ事の仲裁だったと記憶しています」


 機械であるそれはもちろん覚えているはずだったが。話をうまく運ぶためにそうしているのだとわかった。そういうことも考え、覚えていこうとしているのがいまのムゥだった。


「借金持ちの吸血鬼をリーダーにした連中が、遮光権を要求してきた」

「遮光権なんてはじめて聞いたぞ」サヴィが音を立てずに茶を飲んでから言う。

「日照権の反対だとさ。これまで日が差さなくて湿っぽい墓地に住んでたのにって。貧民窟で経済状況のよくなった連中が、いらない建物をぶっ壊して日が少しでも当たるようにしようとしてたんだけど、吸血鬼とか霊魂に猛反対食らった。『日陰者に影を!』だと」


 役所がこれに介入することはまずなかった。貧民窟は市民として認められていない人々も住んでいる。存在しない住人との諍いは存在しないという論調だ。下層市民とさげすまれる彼らの争いに、積極的に介入しようという物好きもいない。そういうわけで、貧民窟の中でならちょっとは名の売れていた代行請負の出番となったのだ。


「それで、決着をみたのか?」

「壊した瓦礫で壁を作るってことでなんとか」


 ――今日は俺でもできる仕事でよかった。

 口には出さなかったが。オートは帰り道で一人、安堵の息を吐いていた。

 代行請負の仕事は、およそ順調と呼べるものではなかった。認知度がないから大した仕事が来ない。大した仕事が来ないから、他人に知られることもない。まず信用がないのだから当然だった。

 オート、サーマヴィーユ、ムゥ。三人が出会った一件から、ふた月が経っていた。その間にあった依頼は、近所の住人から頼まれた子守、人手の足りない食堂への臨時手伝い、ごろつきに悩まされる酒場の用心棒、そして遮光権の一件くらいだ。

 このうち、彼がやれるのは子守と食堂の手伝いくらいで、それは専門と言えるムゥの手際の良さにはまるで及んでいない。用心棒の一件は事務所で唯一の荒事担当であるサヴィに任せるしかなく、快く引き受けられ、またさっさと解決してくるのが頼もしかった。

 どのみち、それだけで暮らしていけるほどの収入にはなっていなかった。三人ともが副業をやって、どうにか貯金を崩さずに済んでいるという生活だ。


「ああ、私はもう少ししたら出るぞ」

「港のほうの倉庫の護衛だっけか。ついていこうか?」

「いや、いい。荒事だけだから。オートはゆっくり眠っていてくれ」


 もと森の民だったサヴィは、庭の植物の手入れをして、その作物を日々の食卓に提供してくれている。種まきから収穫までの期間が恐ろしく早いことには誰も触れていない。植物が噛んでくることも。

 ムゥは精密な作業を得手としていて、内職として奢侈品の作成を行っていた。数量を作れるものではなかったが精巧ではある。これが現在のところ一番の稼ぎになっていた。

 オートはといえば、誰でもできる雑用や日雇いの荷運び、街南の農場での作物の刈り取りなど、足を使う仕事が多かった。稼ぎも、三人の中でいちばん少ない。それが甲斐性のなさだと嘆くつもりはなかった。


 客観視すれば、他の二人よりも能力が劣っているのが彼だ。平凡なヒト種の人間で、戦士でも魔術師でもない。特別な技能などなにもないのが彼だ。


 オートは記憶喪失だった。社会通念から少し外れて、自らにも存在したはずの家族すら持たない。それが言い訳にすらなっていないことは、ほかならぬ彼が誰よりも痛感していたが。

 その欠けた部分が埋まればなにかが変わるのか、そう考えてみたこともあった。だが、いきなり力と自信に満ちた己に変貌することなどない、それはわかりきったことだった。もし変わってしまえば、オート・ダミワードという人間はそこからいなくなってしまっているだろう。


「時はその者の見る通りに流れる、そういう言い方があるぞ。つまり、双子の兄が私のことを、失礼にも二百八十ウン歳だと言い張っても、私が百六十九歳であるという真実は崩せないということだ」

「なるほど、エルフは物理法則にすら打ち勝ってしまったのですね」


 大森林流のうんちくを語るサヴィと、興味深そうに頷きながらそれを聞くムゥを見ながら。一緒にいて楽しい二人に、見返すのとは違う、少しでも良くなったと言われるための、もっとあるべきはずのなにか――。

 そんな都合のいい、甘ったれたなにかをつい探してしまうオートだ。

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