#1ー11




 もうじき死ぬドリマンダに、ムゥはなんと声をかければいいのかわからないでいた。ともに暮らしてきた者がいなくなるという経験は、奉仕機械のこれまでの記録の中には存在していなかったのだ。はじめてのことには、対応が難しい。それも一過性の事象であればなおさらだ。


「最後にあなたに会えてよかった」


 彼女の声は、機械がこれまでに聞いてきたどんなものよりも小さかった。

 この体と取り換えてしまいたい、もっと長生きをしてほしい、死なないでほしい――発作的な情動が、まだ未熟な躯体の中を暴れまわる。すぐに涙となって表現された。その機能が備わっていることを、ムゥははじめて知った。生素材を保持するために循環させている水分の上澄みだった。それを見たドリマンダは微笑んだ。


「ドリマンダ、なにかしてほしいことはありますか」

「眠るまでそばにいて」

「もちろんです。ずっとそばにいます」

「ずっとはいいわ」


 老婆が首を振った。なぜですかと機械は聞いた。


「わたしが死んだら、ムゥ、あなたは思うように生きて」

「どういうことでしょうか、ドリマンダ」


 だが、その意味が教えられることはなかった。最後の言葉だった。

 呼吸がしばらく続いてから、一度だけ体を震わせて、動かなくなる。それきりドリマンダ・チャンティは目覚めることはなかった。ムゥ・チャンティはしばらく彼女の手を放さずにいて、その体温が失われていくのを感じた。

 朝の陽ざしが老婆の顔を照らした。小鳥の影が部屋で踊り、聖樹通りにいつもの朝がやってきたことを知らせる。誰かにとっての一日のはじまり。

 明るすぎるくらいだった。







 一日ははじまったばかりだったが、オートはすでに眠くてたまらなかった。

 身体がいままで忘れていた疲れは、ドリマンダの家で待ち構えていた。サヴィも同じらしく、壁に背をもたれて座り込んだまま動こうとしない。夜通しで老婆の面倒を見続けていたという、ミノタウロスの中年女――ラーダが、そんな二人の背をばしばしと叩く。目は赤くなっているが、まだ元気そうだった。


「意地を張りなさいなあんたたちも。また様子を見に来るから、しっかりやりなさい」


 そう言い残して、子供たちの食事を作りに帰ってしまった。

 住宅の外、玄関近くには、しおれた野菜のようになっている二人が残された。朝日が目に染みる。小鳥の遊ぶ声は、これほど頭に響くものだっただろうか?

 ムゥはまだ、ドリマンダのそばにいる。


「サヴィは、なにがあったんだ?」

「森の手前で引き返してきたんだ。しろがね森氏族の名前は捨てて、ただのサーマヴィーユになった。森の民のエルフじゃなくて、街のエルフだ。気安くサヴィと呼んでいいぞー……」


 世にも珍しい都会派エルフ、ここに誕生だった。その珍種は朝っぱらから、いかにもな貧民と路上でだべりながら、船をこいでいる。


「そっか。……遠慮なく使ってくれていいからな」

「もちろんだぞ。じゃあまず、私はナナホソリスベリハラグロが食べたいから捕まえてきてほしい。森まで。休みなく二日くらい歩きとおせば、人間の足でもたどり着けるはずだから」


 ナナホソリスベリハラグロ。毒キノコばかり食べる芋虫だという。後から聞いた話では、当然のように人体に有毒だった。


「マジかお前。二つの意味で」

「冗談だ。だけど私はお前を利用するぞ。そして、うつろう先を知りたいんだ」


 サヴィの口にする利用という言い方には、普通は含まれている利己の響きが薄く聞こえる。自我の強い押し付けという雰囲気がないのだ。別の感情があるのにそれをうまく表現できずにいるからこその、代用としての言葉。

 彼女がそうすることを選んだ一端が己にあることを、しっかりと受けとめなければならないと思うオートだ。森瑠璃と同じ色をした眠たげな目が、彼を見つめていた。

 森瑠璃。ポルインから取り戻したそれは、ふたたびサヴィの弓に埋め込まれていた。それで強度が変わるわけではないというが、持ち主の気分がよくなる効果はあった。思い出したように背中から取り出してはそれをなでつけていた。


「そういえば、俺って言うようになってるな」

「変だったか?」

「自分のことを自分だなんて呼ぶより、ずっとはっきりしてる。オート、お前はこれからどうするつもりでいる?」

「どうしような。しばらくは路上暮らしだと思う。でも……商売じゃないけど、誰かの役に立つようなことをやりたい。これ、儲かるかどうかわからないな」


 ドリマンダから、ムゥを連れて帰ればこの家に住んでいいとは言われたオートだが。そうできるほど厚い面の皮はしていなかった。天井を見上げた街エルフが、んー、とあいまいな音を発する。


「彼女と約束したのは確かなんだから、その通りにすればいいのにと思うけれど」

「体面だとか、そんなものがあるわけじゃないけど。あのときはドリマンダだってああ言うしかなかったんじゃないのか。報酬で釣りでもしないと、俺が動かないと思ったから」

「お前は、ここにいてもいいよと言ってもらいたいんだな」


 サヴィの言葉に、オートの息は詰まる。図星そのものだった。

 いくら己を行えと言い聞かせていても、そういう甘えた部分がある。それは弱さで、排除すべきものだと思っていた。


「甘ったれてるだろ」

「そうだな。与えられたものは素直に受け取るべきだぞ」

「そうなのかな――」


 彼は、ダミワードから受け取ることは苦にならなかったのに、ドリマンダの遺産を継ぐことには抵抗があることを認めた。その違いに思いを巡らせてみたとき、罪悪感や金銭の多寡という理由を取り除いて探り当てたのは、親という短いものだった。


「サヴィも森には戻らないんだろ、住むところはどうするんだ」

「私は、そうだな」ちょっと考える様子を見せてから、彼女は笑った。いたずら者のそれだった。家の壁を軽く叩く。「ここにいてもいいよって言ってもらいたいぞ」


 オートは思わず噴き出した。なんだ、利用する気まんまんじゃないか。


「甘ったれだ。ずるいぞそれ」

「女だから、なんてことは言わないぞ。私がずるいやつだ。どうだろう」

「ここにいていい。宿暮らしだと、金もかかるだろ」

「世話になるぞ。だからお前も、薄暗い路地ではなく、日の当たるところにいていい。笑うにしろ悲しむにしろ、明るいところでやればいい」


 甘えてもいい、と言われた気がした。それだけの言葉で、オートは見えない縄を外されたように楽になった。

 彼女が彼を利用するように、やせぎすの男もつりあいの取れていない女を便利に使っている。記憶喪失の親なしと氏族なしのエルフの間に築かれる関係は、ちょっと特殊だ。

 家の中で一つの命がなくなっているが、それでも二人は笑う。家から出る前に、眠る彼女に別れと感謝は伝えてあった。

 玄関扉が開いて、丸まっていた背中に当たる。ムゥが出てきたのだ。


「ドリマンダは死にました」目の端から顎にかけて、水が流れ、そして乾いた跡があった。「わたしはしばらくの間、あなたたちを待たせて死を悼むような動作をしていました」


 彼は、ムゥが泣くことができるということを知らなかった。ほとんど知らないことばかりのヒトを取り戻すために、方々をかけずりまわった一日だった。

 かけるべき言葉も見つからず、そうか、とだけ言った。サヴィが森の祈りを呟いた。


「葬式をします。お金も、まだ少しはありますので。手伝ってください。わたしは機械で、彼女の所有物として扱われています。ヒトではないので、様々な手続きをできない立場です」


 代理で行えということだった。事務的に物事を進めていくムゥにも、余計なことを考えないようにあちこち動く――そんな心理があるのかもしれない、とオートは思う。立ち上がると体のあちこちが悲鳴を上げた。頭は霞がかかったようにぼんやりとしている。それでもまだ動けそうだった。休むのはすべて終わってからでもいい。


「俺はやるよ。少しでもあの人に報いたい。迷惑ばかりかけたんだ」

「よろしくお願いします、わたしの所有者」

「なんだよ、その所有者って」

「そのままの意味です。わたしはあなたの所有する財産になりました。家もです。もちろん、正式な手続きを終えてからですが。エサの意味もあるのでしょうが、彼女があなたになにかを譲ろうと思ったのは、善意でもあったと。わたしはそう思っています」


 それが、死を間近にした焦りからくるものであっても。あたたかなものが、わずかにでも込められていたことは確かなのだ。


「受けられないのであれば、他の誰かに頼み込むことになります」


 紺碧の空のように透き通った瞳が、まっすぐにオートを見ている。少年とも少女ともおぼつかない、未分化された体つきだ。これが作られた存在だというのだから、製作者はよほどいい趣味をしているものだと、溜息をつきたくなる。あるいは造形物だからこそ、ここまで追求できたと感心するべきなのかと思わせるくらいに、唯一無二の美意識の産物だった。

 彼にとってそんなムゥは、機械とヒトの中間に立つ、まったくの未知の存在だ。貧民暮らしには、機械と触れる接点が一切ない。ヒトのように扱っていたが、ムゥ自身は己をモノだと称している。

 早い話が、どう接すればいいのかわからないのだった。

 そうであるなら、わかるようになるしかない。なし崩しではなくきちんと言葉にしなければならない。少し前までは見知らぬ他人だった老婆から遺産を譲り受けるくらいに、厚かましく。


「受ける。だから俺を、ここに住まわせてくれ」




 光導教に手配をして、葬式を終えて。

 三人は――機体な誰かが二人と一機だと主張したが、オートは三人という数え方を通した――聖樹通りの住宅に戻った。そこで共同生活をはじめた。ルールを決め、部屋割りを考え、足りないものを買い出す。そうして過ごしているうちに、月はもう一度すべての顔を見せた。

 まっとうなベッドでの睡眠は甘美なもので、もう路地裏生活には戻れそうにないオートだ。

 三人は話し合って、代行請負業というものをやることにした。

 オートがポルインの屋敷から持ち出した宝石はそれなりの値が付いた。家が買えるほどではないが、しばらく生活するには十分な額になった。それを元手にした。

 どれだけ考えても思い浮かばなかったので、まだ正式なものではないが。仮にではあるが『聖樹通り代行請負』と名乗ることにしたオートたちだ。

 文字通りに、依頼主から頼みを受けたのなら代わりにそれを行う仕事だ。ミアタナンには、大っぴらな看板を掲げた同職がいなかった。

 金次第でなんでもやるごろつきとは違って、仕事を選ぶこともある。老人が頭の上に忘れた眼鏡探しはやるが、誰それの家に入って下着を盗んだうえに『愛の泥棒より』と書かれたカードを残してこい、というのはやらない。

 受けるかどうか迷ったら、全員で相談する。それが最初に決めたことだ。


 最初の依頼主は、ドリマンダの最後の一日の面倒を見てくれた、二人の子供を持つ中年女だった。ミノタウロスのラーダ。

 依頼は子供の面倒を一日見ること。

 もちろん快諾した。サヴィが「もう一度、ゾドンとかいう屍圏の相手をした方がまだ疲れないぞ……」とこぼすほどの激務だったが。旦那と一緒に帰ってきたラーダは、報酬と一緒に野菜と肉を煮込んだスープを大きな鍋いっぱい持ってきて、食べなさいとむりやり置いていった。


「あの女性からは、受け取ったものの方が多いな」


 エルフの言葉に異論は出なかった。なにかにつけて『作りすぎた』おかずを持ってきてくれる彼女には、誰も頭が上がらない。


「手紙です、わたしの所有主」

「それやめてくれって言っただろ」

「わかっています、オート」


 半ば定例化したやりとりのあと、受け取った。裏面に書かれていたのは、仮の立て看板が出来上がったから取りに来い、という内容だ。これからサヴィがそこに文字を刻む予定だった。

 貧民窟に暮らす分には必要のなかったものが、こちらでの暮らしでは求められた。それは記憶のない彼は持っていないものだった。

 姓。ムゥ・チャンティのような、誰かとのつながりを明確にするもの。サヴィは「そういうことはオートに任せる」と、ただのサーマヴィーユを続けるつもりのようだった。最初にそれを求められたとき、オートは少し考えてから綴った。

 彼はもう一度、表の宛名書きを見る。


 オート・ダミワード。そう書かれている。

 それが彼にとっての、いまの己だ。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る