#1ー10




 一番乗りをしたはいいが。そこまで腕っぷしが強いわけでもないオートは、なだれこむように続いてくる債務者たちを待たなくてはなにもできないでいた。


 ――ここで突進して負けたらダメだろ。


 焦れるのをじっとこらえて身を隠す。

 やがて望んだとおりの混乱が眼前に広がっていた。それを見てオートはうめくしかなかった。こうなってほしいとは思ったが、ここまでやれとは言っていない。そんな心境だ。

 金持ちの家にあるものはぜんぶ高価だとでも思っているのか、どこからか持ってきた大工道具を使って突然床板をはがし始める男。壺に文字通り惚れ込んで、頬ずりと濃密な接吻を交互にやって自分の顔をべとつかせる吸血鬼の老人。壁のシミをやっていたらしい男は、着ていたものを袋代わりにしているから全裸になっている。汚い。


「ポルインは最上階だって!」

「そんなことより、あちこち探したほうがいいに決まってる! もう勝ってるんだ、だったらあとはどれだけ多く手取りするかって考えになるんだよ!」


 彼は上を指さしてみるが。もはや混沌としていて伝わった様子はまるでない。壺の老人に「ワシとテルミーユの逢瀬を邪魔するでないわ!」と怒られ、釈然としないものが広がる。使用人に体当たりされて転び、壺が割れた。「テルミィーユーゥ!」もうどうでもよくなったオートだ。


「じゃあ兄ちゃん、オレたちは地下のほうに行くよ。持ち帰れなかっただけで、値打ちものがまだたくさんあるからさ」

「無事でやってくれよ」


 短い言葉を交わしてから、オートは階段を駆け上がる。途中の踊り場に気絶していた、大の字の男には見覚えがあった。彼の元上役、よく殴っては少ない稼ぎをさらに少なくしてくれたでべその男だった。館の防衛に駆り出されたはいいが、数の力に負けたのだろう。


「あのゾドンが、白髪の大男が倒されたんだってさ!」


 もたらされたのは吉報だった。


「サーマヴィーユがやってくれたなら、俺もやらないと」


 男が顔の近くでみせびらかしてきた、錆びだらけのナイフが転がっていた。もう一本の、質のいい短刀は消え去っていた。価値がないと判断されて捨て置かれたそれを、彼は拾い上げた。こんなものと断じられる存在であっても、突きつけられれば恐ろしいということは、身をもってわかっていた。




 借金は他の誰かがなんとかしてくれるから、己は金目の物を集めよう――そういう考えのヒトばかりなのか、最上階には暴力の気配がなかった。使用人や荒くれ者たちは窓やあちこちの戸から逃げ出していったらしい。

 最大の戦力を失い、数でも負けているポルインは、沈みゆく船に見立てられたのだ。あとはもう、そこからどれだけ上手に逃げるかという競争しかない。

 最上階の、見るからにいちばん豪奢なつくりの扉を開く。

 数人分の器、肉を中心に脂っこい料理、落ち着いた照明――栄華の名残がそこにはあった。

 その向こう、バルコニーを背にしてムゥが立っていた。別れたときと変わっていない、求めていた姿だ。どこかの魔工匠の手によって作り出されたこの存在には、困惑の表情を浮かべる機能があるのだと、彼ははじめて知った。


「ポルインはどこに?」

「隣の寝室で、逃げるための準備をしているところです」

「わかった。すぐ終わらせる。それから急いで下町まで行くんだ。走れるか?」

「一般的な人間種族より、少し早い速度を継続することができます。ですがわたしには、あなたを信用することが難しいです。どうしてここまでやってきたのでしょうか。それも二回も」


 ムゥがここに連れてこられるきっかけを作ったのがオートなのだから、当然の疑問だった。この奉仕機械のために動いてきた一日だったが、当の本人がいないところでやっていた。彼は見える範囲においては、ドリマンダの子の信頼を得るために、行動を何一つ起こしていないことになる。


「ドリマンダに説得されて、彼女のために動いてる。それ以外にさ、合理的にここまでやる理由ってないだろ」

「この状況そのものが合理的ではありません……判断を保留します」

「じゃあちょっと待っててくれ。やることがあるんだ」


 隣室のドアを蹴り開けた。ひきつった声。ポルインは急な訪問の準備ができていないとでもいうように、慌てて鞄を背に隠した。良くも悪くも正直な男だった。


「おっお前は、なんでっ、なんでこんなことをしてくれるんだっ!」

「親みたいな相手を殺されたから、これくらい派手にやり返すんだよ!」


 この借金取りの元締めと相対して、オートの心に浮かんでくるのは、憎しみと怒りだ。ダミワードの教えには、誰が相手でも許せということはなかった。ぶくぶくと肥えた顔を蹴り倒す。後ろ手に持っていた鞄が揺れて、中身がこぼれる。宝石や純金貨が無秩序に詰められていた。

 幸いなことに森瑠璃は一番上に置かれており、傷もついていなかった。数も足りている。迷惑料代わりにと、いくつかの宝石を拝借して、一緒に懐に入れた。

 痛い、あぁ痛いと、彼を苦しめてきた男がわめく。それで気分が晴れることはない。ただ足にじんわりと痛みが広がっていくだけだ。


「金ならやるから、だからっ」

「証文はどこだ」オートは、顔と同じくらい膨れ上がった首にナイフを突きつけた。錆びが銀色を汚して毒々しい。わかりやすい凶器だ。「ぜんぶだ。全員分よこすんだ」


 それを目的に、彼は貧民窟の住民たちを扇動してここまで来たのだ。借金、という言葉に反応して、ポルインのなにかが変わったようだった。目じりがつり上がる。


「おまえはっそんなことまでっ……人の仕事の邪魔をするだけに飽き足らず、人のやること、生きることそのものを潰そうっていうのか、どうしてそんなことをするっなんでおまえにそんな権利があると思っていやがるんだ! おれはなっ、おれは、三十年かけてここまでのし上がってきたんだ! こびへつらい、踏まれてもずっと我慢を続けてきたんだ。いまこうして、そういうやつらに仕返しをしていたんだぞっ、それをおまえ、たった一日でめちゃくちゃにするなんて……エメリーナもいっちまって、あんまりじゃないか……」


 築き上げてきたものが崩壊するさまを見せつけられて、血の混じった唾と涙をまき散らしながら、夜見世上がりのポルインは絶叫した。うなだれたときにナイフが皮に当たって、ひぃと情けない声を出した。

 オートはそれに答えなかった。

 ――おれはこいつと同じことをしているのか。

 そんなむなしさに放り込まれた気分だった。認めたくはないが、ポルインも一応は豚みたいな人間、つまりは生物であり、彼のやっていることはその生存を脅かす行為にほかならない。これまでさんざん受けてきた、ヒトとして扱われていない、踏みにじられるだけの生。

 この部屋には善も悪もなかった。ただ立場がそっくり入れ替わった男が二人いるだけだ。

 どんな理屈も自己弁護にしかならない。ドリマンダのため、ダミワードの敵討ち、そんな言葉を使いたくはなかった。だからオートは、自分をやり通すことに決めた。自分の責任でもって。


「お前の命の値段は、このナイフより安いのか?」

「高いっ、高いに決まってる……」

「だったらさっさと、証文がどこにあるのか話せ! 俺はあとそれだけあればいいんだ」


 猜疑心に浸かりきった目つきが向けられる。本当だと頷いた。

 その強がりが、こいつとは違うという自覚のために必要な演出なのだと、彼自身わかっていた。


「こっこの鞄の中、あっそれと、金庫にもあるっ」


 宝石や金貨にあてこすられて凹凸のついたそれらを手に取る。ヒトの人生を辛いものにしてきた書類は、あきれるほど軽かった。そこには確かに、オートが持たされたはずのドリマンダの証文もあった

 まだ彼は何も言っていなかったが、ポルインが勝手に本物だ、おれは自分の手元に本物を置くんだと念を押した。

 ポルインが持っていた書類を、彼は手近な火で燃やした。ついさきほどまでは歓楽街の王さまだった男は、もう表情すら浮かべないまま、はらはらと泣き続けた。


「命だけは……たすけてくれ……」

「俺はもう何もしないよ。だけど、他の借金持ちだった連中がどうかは知らない」


 振り返ることはせずに、後ろ手に扉を閉めた。

 せめて次の誰かが訪れるまでは、あの男にも一人になる時間があってもいいと思ったのだ。高所だが、窓から飛び降りて逃げおおせるのなら、それはそれでいい。もうどんな言葉にもなっていない泣き声は、命以外のすべてを奪われた者だけが出せる悲鳴だ。

 けれども恨みは確かにくすぶっていて、暴徒と化した群衆から受けるであろう仕打ちに、当然のことだと頷く半面もある。

 オートはもう、ポルインに対して、自分がどんな感情を持っているのかわからなくなっていた。森瑠璃はともかく、一緒に取り出した宝石がやたらと重く感じる。返すつもりもなかったが。




 酒や高い料理が残ったテーブルのある部屋に戻ると、ムゥはそのままの立ち位置で待っていた。


「答えは出たのか?」

「あなたは、あまり一貫性のない人物だと考えます」

「ここからは同じだよ」

「それは、時間が経過しないと判断できないことです。ですので保留します。まず、わたしはドリマンダに会いたいです」

「だったら行くぞ」


 だが階段を下りられそうにはなかった。家探しを続けてきた連中が、下の階のすべてを物色し終えて、階段をすし詰めになりながら登ってきたのだ。


「オート。私たちは、お互いがんばったんだぞ」


 その集団の先頭で、右足を引きずりながら歩み寄ってくるのはサーマヴィーユ――サヴィだった。


「ちょっト! あんたはサ、強いんだろうケド。デモいまはさっさと進みなさいヨ!」


 黒乳首の熊が吠える。そうだ早くいけよ、という声がそれに続く。よろめいたサヴィの身体を受けとめる。手を取り、肩に回した。少し背を丸めると、汚れていてなお気高い横顔が彼のそばにある。


「ありがとうだ、オート」サヴィが口元を優しくゆるませた。肩に触れる手の熱を、オートは心地よく感じる。「私はな――」

「もと借金取り! 金目のモノはあったノ!?」

「詳しく見回ったわけじゃないけど、きっとあるでしょうよ! 証文もここ! ……サヴィ、ムゥ、行こう」


 サヴィが矢を放つ。それは門に絡みつく蔦になり、軌跡をなぞるそれが魔術によってバルコニーの梁に結びつけられる。そこから足場のように、蓮の大きな葉が芽吹いてぶらさがる。エルフは片足でその上に乗った。

 続いてオートが葉の上に乗る。あと一人は乗れそうだった。彼が差し出した手に、ムゥはためらいがちに触れる。体温のない冷たさが火照った体にはちょうどよかった。


「……のぼれません」


 金属が使われていると宣言していただけあって、彼ら二人分の体重を合わせたよりも重かったが。なにかと縁のある熊が、下から持ち上げてくれた。オートが礼を言うと「あんたのタメじゃないカラ」とにべにもない返事だった。

 三人が身を寄せたとき、朝を告げる三点鍾が鳴り響いた。太陽が姿を見せる。夜が終わったのだ。


「行くぞ」サヴィが言うと、巨大葉が滑るように降りはじめる。どんどん加速する。擦過音だけで、これはまずいとわかるくらいだった。「オート。まずい。三人も乗せるのははじめてだったんだ。どうやって止めようか」

「一般的に、これは危ない状況というものですね」


 言葉ではどうにもならないことだった。それでもオートは叫ぶことにした。それしかできることがなかったからだ。門が迫る。




 種族も性別も違う三人は、門を突き破って転がった。

 すぐ起き上がって、寄りかかり、まだ暗い路地を駆けていく。理不尽なまでに密集した建築群に覆われて、いつでも暗がりにある貧民窟や歓楽街にも、少しずつ日が差しはじめる。すべてではないが、晴れるところもあるのだ。

 熊がその様子を見下ろして、フンと鼻を鳴らす。それから他の連中に後れをとらないようにと、室内を漁る作業に戻った。どこの誰がやってくれたのか、ちょっとはマシな一日を送れそうだと思いながら。



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