#1ー9




 成功者とはすなわちおれのことだと、ポルインは笑みを抑えきれずにいた。

 ずっとにまにま笑っていたから、ゾドンには気色が悪いと鼻で笑われ、借金をかたに縛りつけている使用人たちからは露骨に避けられた。普段であれば、そんな態度を取られたらすぐに折檻を加えていただろうが、今夜の彼は一味違った。

 徴収した分に加えて、この見事な森瑠璃もあれば、おれは間違いなくスプルドグルフトの一員になれるだろうと、その確信があったのだ。

 常に監視されていたのか、貧民の男とエルフの女を取り逃したあと、館に戻った彼を出迎えたのは、手紙だった。傍若無人になんでもつまみ食いをしてのぞき見をして……とふるまってきたゾドンですら、その手紙には館の主人より先に手を触れようとはしなかった。そのことが、ますますポルインを選ばれた者として扱っているようで気分がいい。

 封はまだ開けていなかった。きっとそこには上納金の代わりに裏社会の連合に汝を招き入れるということが書いてあるはずだったから、特上の酒を飲みながら開くことに決め、そしてその準備は終わろうとしていた。ニースナバーグの三十一年。いつか、こんな時のためにと大枚をはたいて買った一本だ。

 一人でその喜びを噛みしめたかったが、現在この館にはヒトから奪うことに躊躇のない野蛮な男がいる。それに見つかってしまって、彼は勝利の美酒を独り占めすることができなくなってしまった。あげく、酌をしなければならないなどと。それも乾杯の合図もないまま、勝手に!


「おいっ酌をしろおんぼろ」

「いやです。あなたはわたしの所有者ではない上に、乱暴にふるまうからです」


 腐った気分を払うために、ポルインはかたわらの奉仕機械を睨んだ。ぽんこつらしく、まるで動こうとしない。視線も寄こしてこないその態度が、彼にはまた腹立たしい。この姿のまま売り払うことはせず、必ずぺしゃんこの金属に叩きなおしてから流すことを心に決めた。

 ゾドンがグラスを空にしてから、振ってみせた。館の主にもう一杯を注がせることを当然と思っているその傲慢さが腹立たしい。だがそんな態度は顔には出さず、彼は粛々とグラスを満たせた。

 まだ彼自身は一杯も飲んでいないのに、もう半分なくなってしまった。喚きたくなる事態だ。

 とはいえ手酌で飲むのもいやだと思い、廊下に顔を出して女を呼べと叫んだ。それから二番目に上等な酒を持ってこいとも。もちろんゾドンにもその声は聞こえていたが、闘技場から来た野蛮な客人は豪快に笑ってそれを許した。許されなければいけないことが、ポルインにとって最大の屈辱だった。己の館であるのに、すべてが思い通りになっていないとは。




 化粧と香水の濃い女を隣にはべらせて、器になみなみと注がせて、口の中に投げ込むようにして飲んだ。商売女がいい飲みっぷりだとほめそやす。ポルインはようやく、自分の機嫌が上向いてきたことを感じていた。


「ははッ、お前きたねぇ音で飲むなぁ」

「てめえの部屋でどうふるまおうが自由ですよ、自由、ははっ!」


 いまや、ゾドンの揶揄も二回くらいまでなら聞き流せそうなほどの天上の気分だった。犯罪組織の上級構成員となった暁にはなにをしようかと、試しに考えてみた。酒、女、金。真っ先に思い浮かんだのはその三つだ。彼はすがすがしいまでの俗物だ。

 ――それからいままでおれを舐め腐ってきた奴らに報復をしなくては。このゾドンもそうだ、構成員だっていうのなら、その立場を崩してからじっとりとなぶってやらないとならないんだっ!

 頭の中で報復の段取りを整えていると、奉仕機械がなにもない場所を見つめていた。機械のやることだとわかっていても、ヒトの姿をしているものだから、薄気味悪さを感じてしまう。

 機械の焦点に合わせるようにして黒がにじみだす。時を早回ししたように小さな空間にそれが満ちて、粒子は肥大しつつ分散を繰り返し、蝙蝠の形になった。一秒にも満たぬ間の光景だった。一連の流れは無音のまま行われたので、よそを向いていた商売女は、もてなす相手の様子が変わったことを察し、そちらを向いてようやく気付くありさまだった。

 蝙蝠が集合し、やがて現れたのは女だった。

 上等な夜会服の背中からのぞく白い曲線に触れるためだけに、ポルインは全財産を費やしてもいいと思えた。すぐにその考えは打ち払ったが。誘惑の魔法ではない、ただの肢体を見るだけでそんなことを思ったのは、もちろんはじめてのことだった。

 単純な美はもちろん、それ以上に魔性のものとでも形容すべき色香を、自由自在にもてあそぶことのできる所作の持ち主。この部屋にいる者の中でその名前を知らぬのは奉仕機械のムゥだけだった。

 ミアタナンいちの値をつけられるにふさわしい花たちが集められた蜜薊亭、その中でも最も高嶺に咲くとうたわれる女主人。蜜薊の一夜、エメリーナ。彼女が吸血鬼であり、スプルドグルフトの一員である――というのは、説得力のある与太話だったが。どうやらそれは真実らしかった。

 ポルインの隣で、汗まじりに体温を伝えてくる商売女とは、美も格も見せ方も、何もかもが違っていた。エメリーナが女で、彼が買ったのは彼女に似せただけの生物だった。


「劣等感のしみついた部屋と男……」


 一言で言い当てられたポルインはしかし、それに喜びすら感じていた。この女に見透かされることは快感ですらあった。いつの間にか隣にあった体温は――商売女はいつの間にか消えていたが、その無礼などまったく歯牙にもかけない心境だった。

 彼は思い切り自分の腹をつねった。蓄えてきた脂肪が邪魔をして、あまり痛みはなかったが、我を取り戻すことはできた。


「違う、違うぞっおれはそうじゃない。おれは、こすっからくて、けちんぼで、粘着質だ! ヒトより劣っているって思いが武器だ、それをふぬけてるんじゃあないぞ、あーっ!」


 館の主は叫んで、地団駄を踏む。およそ品のある行いではなかったが、魅了されないことが琴線に触れたのだろう、エメリーナがひそやかに、口元を隠しながら笑った。


「みっともない姿もいとおしいわ。ノックもせず、はしたない方法で殿方のお部屋に入ってしまってごめんなさいね……わたくしがここを訪れたのは、手紙に付け加えることをお伝えするために。もうお読みになられて?」

「おう女店主、そんなのほっといてやらせてくれや」


 まったく空気を読まずに、ゾドンが横やりを入れる。


「いまはね、あなたごときとお話をしていないの。わたくしの目は、この太った彼だけを見つめているのよ。わかって?」


 拒絶のまなざしは、賭け闘技場の覇者だけに投げつけられていた。こんな扱いを受けたのは、ポルインの人生で初めてだった。ゾドンと太った彼であれば、誰もがゾドンを選ぶ。だがここに例外があったのだ。ヒトの顔色をうかがうのが得意な彼にはわかった。この女は、本気でおれに尽くそうとしているのだと。それに応えようと男が奮起することをわかっている。


「まだだっいま読むんだ、読むぞおれは」


"汝をスプルドグルフトの一員として認める。"


 たったそれだけが書かれた手紙だ。勝利の美酒とともに流し込むのにふさわしい文字。ここになにを付け加えるというのだろうかと彼はいぶかしんだ。


「ベッドから身を起こして、水を注ぐくらいに簡単なことなの。それが終わったら、あなたは晴れてスプルドグルフトの一員。だから、ね。最後にもうひと頑張りをおねがいしたいの」

「これ以上なにがあるって言うんだっあんたはっ。おれはぜんぶ叩き潰して、奪ってやったんだぞっ」

「叩き潰したのは俺だがな」

「へっへっ、もちろん先生の助けがあってこそのこのポルインですよ!」


 優越感にひたっていても、どこか小心者であるポルインは強い口調を使い、時にはこびへつらう。それが人生にしみついているのだ。不機嫌そうな蛮人に酒を注ぐ。ニースナバーグ、高いほうの酒だ。

 衣擦れの音をまとわせて、エメリーナが窓の外を指し示した。いつも通りの夜見世通りの明かりが、両側に転々と続く。その間を、赤い流れが迫ってくるのが見えた。

 バルコニーに出ると、熱気が肌に吹き付けてくるようだった。風はまだ冷たく、熱を持っているのは通りを進んでくる群衆たちからのものだ。


『ポルインを倒せ! 借金を踏み倒せ!』


 その掛け声が、夜の街に響く。いままで彼の耳に入らなかったのが不思議なくらいの大音声だった。彼は蜜薊亭の女主人の、邪気のない笑顔を見た。消音は彼女の仕業だとわかったが、これもすべてあなたのためなの、という風に笑っていた。事実女はそう信じているのだろう。男に理不尽な試練を与えて、それを高所から見物することが許されていると思っている――まるで女神のようにふるまう女がこのエメリーナなのだと、彼はそう見立てた。


「はん。なぁポルインよ、ここまで来ちまったならよ、あとは手札をぜんぶナベにぶち込んで、てめぇらがどんな味付けになるか。それだけだぜ」


 ポルインの隣に立ったゾドンが、猛獣の笑みを浮かべる。強者にしか許されていない、踏みにじる権利を行使したくてたまらないといった表情だった。酔っているのだとわかった。酒と、強い自分に。


「札を鍋に入れても美味くはならんでしょうよっ! あぁーもうやるしかないのかっくそくそっ!」

「では」高嶺に咲く女が言葉をつむぐ。彼がどれだけ品性のない言葉遣いをしても、まったく苦にする様子がない。口紅が、軌跡を残して蠢くよう見えるほどに蠱惑的で、目にやきつく。「しっかりと取り組んでくださいましね、わたくしのポルイン……」







 ――こんなに集まるものなのかよ。

 オートは人の濁流に流されながら思った。百をゆうに超える頭数が、一つの目的のために集まっていた。

 夜半を過ぎた時間に、子供盗賊団を中心に伝播した情報は――いまから夜見世上がりのポルインの屋敷に襲撃をかける、この夜が絶好の機会だ、事前に子供たちが盗みに入って成功している――人づてに拡散していき、群衆を一体の生物に仕立て上げた。復讐と借金の帳消しをもくろむ巨体だ。人間だけでなく、幽霊や吸血鬼、果ては借金がどんなものか理解していないであろうゴブリンまで加わっていた。行列がお祭り騒ぎのように思えたので飛び入り参加したのだろう。


「死んでも借金ってあるのか……」


 扇動したのがオートだと知っているヒトはほとんどいない。彼は流れの中ごろで他の群衆と同じように声を張りあげていた。悪趣味な像に飾られた屋敷が近づいてきている。ポルインの動きが鈍かったことにどんな理由があろうと、戦力の展開が遅れていることには変わりがない。場慣れした荒くれ男たちの中にはオートも見たことのある借金取りの男たちもいた。明らかにおびえて逃げ出しそうなのは、荒事などまるで経験していない館の使用人たちだろう。


「ポルインの館はもうすぐそこだ、乗り込んで証文を破り捨ててやるんだ!」


 状況を作り出したオートは叫び声をあげた。雄たけびが返ってくる。

 圧倒的に、借金を背負った者の数が上回っていた。数は力だった。それだけ手広くやっていたことが、巡ってポルインの首を絞めている。

 誰かがいけ、いけと叫んだ。債務者たちの先頭が門にたどり着いたのだ。大げさなくらいの錠がいくつも取り付けられた門が、内と外から押される。像たちを踏み台にして壁を越えようとした数人が、棒で叩き落される。


「借金を帳消しにしたらサァ、また借金してクスリ買えるデショ!」


 どこまでも続く借金地獄の告白だった。すべてのヒトが、借金が消えればよりよい人生を送るというわけではない。気勢をあげたのはオートが回収を担当していた、乳首の黒くなった熊だった。彼女が吠える。ラリっても熊なので、人間よりも力強く、重い。門を揺らしながら登る。棒でつついたところで止まるものではなかった。

 ひとりが門をいったぞ、続け――。

 混乱の中で、人々は熱に浮かされながらもみあい、進んでいく。そのただなかにあって平常心を保っている小さな存在が、オートに近づいてきた。盗賊の子供で、今夜の立役者のモーニだ。


「兄ちゃん。これ今はよくても、だんだん勢いがなくなってきたらまずいよ! 数では勝っててもさ、アイツにゃどうしようもないよ!」

「わかってる! だけど勢い任せでいくしかないだろ!」


 一度動きはじめてしまった流れは、ただの一人の努力でせき止められるところをとっくに通り越していた。誰かが持ってきた松明が路面に落ちている。踏みにじられて火はもう残っていない。再びそうならないためにもオートは燃料を注ぎ続けなくてはならない。


「回れっ、裏口からも突っ込むんだ!」


 門の中に入っていた数人が、冗談のように宙に打ち上げられてから、庭に打ち付けられる。なまなかなヒトではまるで歯が立たないゾドンがそこにいるのだ。

 オートも像をよじ登り、壁の上に立った。荒くれたちは先行している債務者たちの相手で忙しいらしく、次々に乗り越えてくる者たちの相手をできないでいた。ゾドンの、遊び半分の掛け声のあと、宙に浮く体たち。その向こうに、オートが探し求めていた姿があった。ムゥだ。開けたバルコニーの向こう、部屋の中に立ち尽くしていた。その手前にはポルインがいる。お互いの目線が合う。

 太った男が、口をわななかせたあと、何事かを喚きたてる。まるで言葉になっていなかった。聞き取れたのはあぁーという叫びだけだ。


「ムゥ! 俺はそっちに行く! お前はドリマンダに会いにいかなきゃだめなんだ!」


 返事を待たずに、壁から飛び降りた。まだ館の中には誰も入ることができないでいる。

 熊が思い切り吹き飛ばされて、正門をきしませていた。オートはポルインよりも多い数を動かしたが、たった一人にすべてをご破算にされかけている。ゾドンがただの豪傑だったのなら、まだ対処はできたのかもしれないが。触れたものを腐らせる魔術を使うとなると、数を頼みに倒せる相手でもなくなる。


「正面が無理なら裏口に回るんだよ!」

「ここ以外はしっかり固められてるって言ってんでしょ!」

「窓はどうなのさ!」

「取りつかせてくれないよ!」


 オートが叫ぶと、すぐに誰かから返事が来た。一度も聞いたことのない情報だったが。手詰まりに近づいているような、嫌な予感がにじり寄ってきていた。


「見つけたぜ。てめぇがコレの主導だろ。面白くて弱い奴だ」


 何もできずに踏みにじられる――彼にその結果を押し付けるだけの力を持った男がいた。


「ゾドンかよ」


 人物の区別の大前提が強いか弱いかにある、賭け闘技場の覇者が、目ざとく彼を捉えた。屍圏――死んでいるからこそ、これ以上死なない者である巨漢とやりあっても、勝ち目はどこにもない。


「一応の雇い主さんがなぁ、てめぇは特に念入りにやれって言ってるんだよ。だったら雇われ者らしくそれに応えなくちゃなぁ!」


 その上、弱い者をなぶることにも躊躇がないのだ。

 どうする。打開策を探そうとする頭の問いを体がすぐにはねのけた。どうしようもないだろ。自分には――俺には。相手の心が自重で潰れる瞬間を楽しみたいのか。ゾドンが持ち場を離れて、ゆっくりとオートに近づいてくる。ダミワードの遺した言葉たちは、心を強くするが、体を作り変える作用はない。


 矢が狩る者と狩られる者の間に突き立つ。


 矢羽にも、地面からはちきれたように茂っていく蔓草にも見覚えがあった。もちろん、それを放ったエルフの女性にも。


「ああ、ちくしょう。あのときは本当に、一人でやっていこうって思ってたんだけどな……」


 苦笑いを浮かべるしかないオートだ。感情が乱れているのがわかる。

 金糸の髪を揺らし、襲ってくる荒くれをかわし、縛りつけていく。彼の前に立ったその姿は、別れた時よりも少し乱れていたが。きれいであることに変わりはない。ここに駆けつけてきてくれたことが、たまらなくうれしかった。


「サヴィ……」なぜ、どうしてという疑問が浮かぶが。オートは、なにより先に言うべきことを言うことにした。「来てくれてありがとう」

「うん、礼を受け取るぞ。街の流儀で言えば、どういたしましてというやつだな」


 森から連れてきた風のように、彼女はさわやかに笑った。これまでに見てきたどの表情とも違うものだった。とてもいいものだと思った。


「よぉエルフ。また叩きつけられに来たのかい」


 腐れた植物を落としながら、ゾドンが両手を広げる。この男には楽しめないことがない、そんな喜びようだった。


「どうでもいい。お前には関係がないぞ人間。私はいま、オートと話しているんだ」


 サーマヴィーユが、言葉でばっさり切り捨てる。ゾドンがはじめて機嫌を害したように見えた。強者の狙いが彼女に移り変わる。


「オート、私はいろいろと考えた。たくさん話したいことがあるんだ」


 彼女が何かを切り捨ててここに来てくれたということは、察しがついていた。なにを思い、なにを選んだのか。それを聞いてみたいと、彼は強く思った。きっと大切なことなのだ。


「わかってる、終わったらだ。ここは頼む」

「任されたぞ」


 二張の弓が外套の下から落ち、それを蔦が受け止める。


「いまのうちに、一つだけ言っとくよ。森瑠璃を預かったとき、俺には何もないって言ったよな。あれ、訂正させてくれ」

「うん。どういう風にだ」

「俺が対価だ。好きに使ってくれていい」

「うれしいぞ」サーマヴィーユの声には隠しきれない喜びがあった。「私もちょうど、お前を利用しようと思っていたんだから」


 言葉だけならひどい関係だなとオートは思った。それでも自然と笑っていた。

 矢が二本放たれたのを合図に、彼は走り出した。直近の障害を取り除かなければいけないゾドンには、それを追うことはできない。


「こっちだ! 玄関は開くぞ!」


 ポルインがこの用心棒に絶対の信頼を預けていたのか、それとも雇われ者が我を通したのか。彼には判別できなかったが、ともかく正面玄関に鍵はかかっていなかった。

 大声で庭の注目を集めると、大勢の債務者たちが、器用にサーマヴィーユたちを避けつつ玄関扉に向かってくる。それを後ろに、彼は館へと身を滑り込ませた。もっと混乱させないと、ムゥに手が届かないかもしれない。それなら、敵も味方もまとめて館に放り込んでしまわなければならないと、彼はそう考えた。







 主戦場ではなくなった中庭に残っているのは、気絶した者と、戦いの趨勢を見届けたがる物好きと、サーマヴィーユ、そしてゾドンだ。


「一度負けた奴が、折れた心を必死に立て直して挑んでくることは何度もあったさ。そんでも俺は負けてはやらなかった」

「そうか。私の心は折れていないぞ。新しくなったんだ」

「それで何か変わるって思ってるのかよ」

「今回はコインがないだろう」


 もはや言葉はなかった。

 はぐれ者となったエルフが先を取った。ケラメイア、ナーリアの両弓から放たれた矢の軌跡をなぞるようにして、空間に緑が走る。ゾドンは自身の防御に自信を持っているから、当たらない軌道については無視するだろうと判断しての行動で、それは的を射ていた。


「苦しまぎれかっ」


 多蛇蔦を切るか、エルフに近づくか。

 ゾドンには二つの選択肢が提示される。男はエルフを殴り腐らせることを選んだ。それを見たサーマヴィーユは、手のうちに疑木でできた弓を生み出した。弦が細い糸草で張られた、即席の弓だ。相手が一瞬だけ、一種類だけじゃあないのかという驚きを見せる。

 もちろん、敵にそのようなことを言う必要がないから教えていないのだ。多蛇蔦がいちばん得意で、それ以外は自分なりには『まぁそこまで』だということも。

 二本を矢筒から落として弓に送り、彼女自身は蔦を踏み台にして高く跳躍する。体格も性質も不利な相手に、格闘へと持ち込まれてしまった前回――そこからの反省と改良だった。巨漢は飛べない。高さを勝ち取ったのは彼女だった。ゾドンは体が落ちてくるのを待ちがてら、脇目で蔦を切り取ろうとした。

 サーマヴィーユの目はその動きのすべてをとらえていた。敵の筋肉がどう動いているか、どんな意図があるのか。それを読み、次はどうするべきか。目視できる範囲であれば、彼女は蔦をはじめとする植物を自在に操ることができる。

 右側の蔦が腐り落ちた。

 屍圏。すでに死んでいながらにして、生者のように動くモノ。太陽の光や、熱を伴う神聖術のようなもの以外、これといった弱点のない種族。その一員らしく、二度対峙することになったこの男も、内臓を痛めていることを苦にすることなく動き続ける。

 サーマヴィーユに動揺はなかった。弱点は学んだ。そして、それを突くことが自分にはできないことも把握している。その上で相手を引き受けたのだ。


「これでっ!」


 疑木の、使えばすぐに壊れてしまう弓をひきしぼる。放たれた矢には生命のオーラを込めた。致命打にはならないが、肉体を破壊するくらいの威力はある一矢だ。地上から離れることのできない男が、両腕に腐食の魔力を注ぎこんで頭を守る。


「つまらんことをさせやがって……俺に撃たせるかぁ!」


 男は、己の肉体が限界まで研磨された地点で命を絶ち、屍の圏属に入ったのだろう。根本には戦士らしさがあり、それは一方的であれども、殴り合う間合いですべてを決しようとする自負につながっている。それを傷つけられた咆えるゾドンが両腕を脈打たせ、腐死の波動を放った。

 サーマヴィーユはそれを迎え撃った。木靴から蔦を生やし、編み、固める。街の民が使う、つるはしのような鋭さを備えた。かかと落としの姿勢で、重力に導かれて落下する。

 魔力が激突する。霧状光が、洞窟の中のように暗い夜を照らして消える。

 またしても、競り勝ったのは黒い魔力――ゾドンだ。腕の差だけではない。もっと根本的な、相性による勝敗だった。地上で待ち受ける敵へと、触れんばかりに近づいていた鋭利な木靴が、その先端からもろく崩れ去っていく。焼けるように痛む右脚。飛び跳ねるどころか、しばらくは走ることすらおぼつかないだろう。


「勝ちだ」


 その宣言とともに、腐れの手が彼女に迫る。ゾドンの魔力がすべて手に集中しているのを見た。

 左のケラメイアから送られた矢が、蔦の中央あたりで受け取られる。館の壁と弓とを結ぶ一本を大きな弦にして射られたそれが、背後からゾドンの腹に突き刺さる。男の魔法は本当に強力なものだが、制御において勝っていたのはサーマヴィーユだ。そればかりは、兄にも負けたことのない、自慢のできる部分だったのだ。


「……私のだぞ」


 腹の矢を起点に、男の体内で爆発的な生命の繁茂が起こる。

 悲鳴をあげるための口から、状況を確認するための目と耳から、時を早回ししたような速度で、蔦が飛び出す。眼窩から花が咲く。

 最初、腐食で守られていた腕だけは無事だったが。魔術を司る意識が消失したことを受けて、それもすぐに破られた。倒れ伏したゾドンは死体であるから、血はほとんど流れずに肉や内臓もぱさぱさしている。賭け闘技場の無敗の王者だったものが、皮膚を爆ぜさせ、乾肉と骨を追い出し、色とりどりの乱雑な植物を、むりやり人間の形にまとめあげたようなありさまだ。その体からは死が追い出されて、ひとつの生命となっていた。


「よし。オートを手伝わないといけないな」


 屍圏の弱点を突くことは、サーマヴィーユにはできない。だがその代わり、徹底して肉体を破壊しつくすという手段を取ることができる。


 ――雑然とした死体からあっさり視線を切り、弓を回収してさっさと館の中に入ってしまった、美麗なエルフを無言で見送ってから。

 なにがあろうとあの森の民を怒らせることはないようにしよう、と少数の観衆は固く決心した。




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