#1ー7
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ダミワードは炎の中にいた。森の中にいたころは見なかったものだ。
森のことを思い出すとき、特別に印象深い事象がないことを鼠は自覚していた。彼を功名ある者と定めた腐れ苦花の乱も、時のなりゆきまかせで解決したはずのことを早めただけだと自覚していた。
大森林には変化がないのだ。賢者と呼ばれようとも、それが無聊のなぐさめになるわけではない。まったく血の繋がりのない、種族すら異なる街のヒトを教え子として迎えようと思う時点で、鼠は森の社会に向いていなかったのだ。
夜を荒らしながらやってきた無法者たちは、老いた鼠が小屋の中にたたずんでいることを確認して、縛りつけようとした。命令した者は融通が利かず、物事を一方的に押し付けるだけで人を育てようという気概がないのだと看破した。
「我が足はすでになし」老獣はそれを断った。後肢の付け根を動かしながら。「逃げることをやめたのでな。そなたらはただ、外で見張っていればよかろうよ。しかし、もうじき死ぬさだめにある鼠一匹を燃やすために群れとなって。そのように立腹ばかりの主に従って生きるというのは苦しくないのであろうか」
考えることをしないのか、彼らはそうした。皮肉に答える者はいなかった。
事実、それで問題はなかった。呼吸することすら、いまのダミワードには苦労することだった。これから体調が上向くことはない、その自覚があった。空気も食事も住居も悪い中、健康であると言い出すのは愚か者だけだ。あとは死ぬだけだった。そして死に瀕したとき、賢者と呼ばれたこともある鼠は、あまり冷静ではいられなかった。まだやり残したことがあることに気づいたのだ。逃げるのをやめた、そんなものは強がりだった。
――オートにはまだ教えてない、考えさせていないことがたくさんある。そして彼に教えるのは己に他ならぬ。
そこから演繹して考えていけば、究極的には自らの命が惜しいということに行き果てた。ここで死んでは、あの人間はずいぶんと気に病むだろう。だが、燃える小屋の中には言葉を伝え遺すための方法がなかった。だからせめて、今までの教えが彼の中で生き続けることを願った。
鼠はせきこんだ。煙を吸った。思考の混濁が自覚できた。水に近くてしけった土に接した部分からではなく、少しでも日が当たる上部から燃えている。外から、燃えが悪いからもっと火を足せという声が聞こえてきた。逃れられない死がすぐそこまで来ていた。
朦朧とする頭で、ダミワードはオートのことを思い出そうとした。
梁が落ちてきた。そのとき、あたたかいものを自らの内に見つけた気がした。それを伝える手段がないことを、鼠は残念に思った。
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「ここにはもう、生命の手触りがない」
無情の宣告に、オートはただ頷いた。
彼らが家のあった場所にたどり着いたとき、すべては終わっていた。下火が残っているだけで、大半は燃え尽きている。彼にとって言葉が見つからない光景だった。まっさらからのひと月だけの人生だったが、そのすべてが燃え落ちたのだ。心臓は止まったようで、まるで機械のように、元は家だったものを取り除く作業に没頭していた。
すでに真夜中と呼べる時間になっていたが、二人に眠気はまるでなかった。
隣にかがみこんだエルフの女は、彼とは対照的に悲痛の感情をのぞかせていた。いまのオートには、何も言わないその気遣いも、その存在すらもつらかった。
「ここはいいから、そうだ……ドリマンダの様子を見てきてくれないか」
「彼女のことも心配だが、だめだ」サーマヴィーユが首を振った。長い金糸の束は乱れに乱れ、煤と灰、草にまみれて汚れていたが。まなざしは変わらずに輝いている。「いま、お前を一人きりにしないぞ」
「そうしてほしいんだって言ってる」
「絶対にしない」
この女はここまでわからずやだったかとオートは考えたが。すぐにそれは消えた。そんなことより、ダミワードのことを考えないといけないのだ。あの鼠はそれこそ賢者と呼ばれるくらいに賢いのだから、足が使えなくても火に負けない方法を考え付いているかもしれない。彼の計算ではそのはずだった。
たとえ、去っていったポルインの部下たちが「鼠の一匹さえ見逃さなかった」と告げていったとしても。
やがて、小屋のあった場所に積みあがっていたものはすべて片づけられた。
老鼠の体はどこにもなかったが、それはオートにとってなんの慰めにもならなかった。
冷えた男の身体に熱が与えられた。あちこちを一緒に歩いたエルフの手が背中に添えられていた。それを振り払うことを彼はしなかった。ヒトの温かさはありがたかったし、冷静になる手助けにもなっていた。泣くことはしなかった。自分がちゃんと鼠の死を悼んでいるかさえ、定かではなかったからだ。
老婆に同情心なんて持たなければよかったという後悔、サーマヴィーユを頼りにするだけで自分はなにもしなかったという自覚、もっとうまくやれたはずという思い。燃えがらの中から遺体すら出てこないのは、オートの行動がもたらした結果だった。背中をさする女の手だけが温かかった。
「負けたのは私たちで、それは間違いないんだ。だけどひどいことをしたのはポルインたちだぞ。それだけはしっかり覚えておかないとだめだぞ。因果を間違えてはいけない」
「自分から売った喧嘩だ」
「オート。ドリマンダとムゥの生活を壊してしまったな。それを償うために私たちは動いた。そのことは恥じるべき行いだろうか?」
「成功したのなら堂々と胸を張ったさ。だけど、こんな風になってちゃ……わからなくなる。家も、記憶のない自分を拾ってくれた恩人もいなくなったんだ」
老いた鼠が生きているという感覚はまるでなかった。サーマヴィーユには黙っていたが、すぐ気づかれた。
梁の部分を持ち上げたとき、布か毛かわからないものが少しだけ残っていたのをオートは見つけていた。それがダミワードの肉体の最後だった。そばに寄ってきた森の民がその痕跡を認めた。
「かの者を形作っていたものは失われるが、魂は解き放たれる。躯は地をめぐり生命の網すべてに広がる」
鎮魂とも違うそれは、森の祈りの一つであり、万物が転環するという森にとっての真実を告げるだけの言葉だ。森に生きる娘はそう言った。
「街で死んでも?」
「どこで焼かれても、そうだ。彼は煙になり空に昇り、雲に混じってやがて雨としてまた落ちてくる」
それが果たしていいことなのか、彼にはわからなかった。納得のいっていない様子を見たエルフは少しだけ表情をやわらげた。
「それに、賢者の教えはお前の中に息づいているだろう。お前の芯になった言葉がある。それが死なない限り、彼がほんとうにいなくなることはないぞ。私の身の中にも、いくつもの命があるように」
それでオートは、かつて己が言ったことを思い出した。
空っぽだったから、もらった言葉は真ん中に置かれている。
「……そうだな。まだ生きてる。それで、あの爺さんはこう言ってくるんだ。おんしはさっさと動かんか、やることが残っておるであろうにって」
「あまり似ていないけれど。きっとそうだぞ」
オートは立ち上がった。走り、痛めつけられて疲れ切った体だったが、まだ休めるわけにはいかないのだ。隣のサーマヴィーユも同じ思いなのだとわかった。それで十分やれる気がした。
日付はすでに変わっていた。サーマヴィーユが直感で選んだ、臨時雇いの世話人は当たりだった。
二人の子持ちだという、黒毛の太ったミノタウロス種族の中年女は、ラーダと名乗り、ドリマンダと同じ聖樹通りに住んでいるのだとあっさり明かした。
ラーダは真夜中にあっても眠ることなくドリマンダの世話をし続けていた。ウチのちびどもと違って夜泣きもしないし走り回らないから、休みながらお金もらってるようなもんだよ――そんな風に笑う強さすらあった。
話してくれと頼んだ覚えもないが、彼女はオートにいろいろと話した。
まずは体をふきなさいな。それからエルフのお嬢さんはにおい気にしなさいな。お嬢さんじゃない? おばさんより年上。いいのよ見た目若いんだからお嬢ちゃんで。ところでこのドリマンダさんだけどね、お医者の先生が言うにはね、体力がほとんど残っていないんだって。もう、今日を超すことができるかどうかだって。あんた似てないから親戚かなにかでしょ。家族の人を呼んでこれないかしら? ご近所さんの言うことじゃあかわいい子が一緒に暮らしていたんでしょ。それなら連れてこなきゃならんでしょ。
家族。
オートの知る限り、ドリマンダにとってのそれは奉仕機械のムゥしか存在しなかった。彼にとってのダミワードのように。
「ああ、この人の家族を呼んできますよ……できるだけ早く」
「そうしてほしいね。やっぱりね、悲しいことかもしれないけれどね、親子はしっかりと別れるべきなの。そうでないと見えない傷が残っちゃうから」
その通りだとオートは頷いていた。
そのためには大きな障害を二つほど超える、あるいは取り除く必要があった。
原因を作った上に死に目に立ち会えず、喪失を突然に押し付けられる実感、それを彼は得たばかりだった。感情を持て余したまま、泣くこともできずに、ただ動いているだけのものが、いまの彼だ。
内面を見透かしたわけではないのに、中年女はしたり顔で背中を叩いてきた。まったくの他人事に首を突っ込んで、医者はどうした親族はどうしたとてきぱき仕切るこの女性のことが、彼は嫌いになれなかった。
「そうそう、おばあさんがね、一度だけ目を覚ましたのよ。ムゥって子はどこって言ったあとにね、もし呼んでこれなくとも遺言は遂行するようにって、あたしに何度も念を押してたわ」
遺言――老婆の財産であるこの家を、住むところすら失ったオートに譲渡するというものだ。物欲によって承諾した依頼だったが、いつの間にかそれだけではなくなっていたことを彼は痛感する。これを果たすことが、自分にとって大事なことなのだと思っていた。
二人はドリマンダの家を出た。眠気はない。頭も、熱を持ってはいるがしっかりと働いている。それはオートの傍らに立って、月のない濁夜を見上げるサーマヴィーユも同じなのだろうとわかった。
「まだ大丈夫なのか」
月の姿は見えなかったが、エルフはためらわずに答えをくれた。
「まだ大丈夫だ。二三日は間があるぞ」
「それなら」
まだよかった、そう続けようとしたオートの言葉は止まった。男が立っていたからだ。気配も足音もなかった。盗賊少年のモーニではない。
そこにいたのはもっと背の高い、大人の男だ。冷たい美貌だった。金の髪、長い耳の男前な美丈夫。エルフらしい意匠の軽装。腰の後ろに結わえられた双子剣の柄に光るのは森瑠璃だ。面立ちにサーマヴィーユに似た部分があった。この男が、肉がどうこうと言っていた兄君なのだと合点がいった。
「嘘をついたなサーマヴィーユ。月は一通りの顔を見せている。人間に情でも移したか」
流麗剣、ノールスィーユ。
端整な顔立ちに似合わず肉っぽい嫁を求める男。その名前を、オートはダミワードから知らされていた。この状況の切り抜け方は教えてもらっていなかったが。
「兄上、私は……確かに嘘をつきました。でもまだここにいなくてはいけないんです」
彼女は、オートが見たことのないうろたえ方をしていた。嘘とばつの悪さを混ぜ合わせて塗り固めたものの、それをあっさり見抜かれたという表情。子供のようだった。
「刻限は決まっていて、この夜で最後なのだ。破ればお前は森に背くことになる。だからまだ月が沈んでいないうちに早く帰らなくてはならない。この夜が終わるまでは、月がすべての顔を見せ終わったとは言えないのだから」
「ここですべてを放り出してですか! サーマヴィーユは一度負けて、二度も戦わぬように森に逃げ帰ったと、氏族にそう語り続けろと!」
「我はたった今お前を見つけたばかりだ。事情などわからぬ。だからこそ泉水のごとく平らに、お前の立っている場所を見ることができる。いまのお前は、群れ啄木鳥が巣を作った木の幹のようだ。手を施さねばすぐに倒れる。負けたとはいえ、掟破りの存在を一族から出して、それこそ祖霊に恥じぬ行いだと言えるものかよ」
「そのためなら、途中で放り出せと?」
「なにを最上と置いて考えるか。まずそれを考える必要があるな」
サーマヴィーユの叫びは悲鳴のようだったが、彼女の兄はそれをかえりみない。劣勢に立たされた彼女がオートを見た。背中を押す言葉を欲していることはすぐにわかった。
彼は望まれた通りの言葉をかけることにした。
「サーマヴィーユ、いままでありがとう。あとは自分一人でやるさ」
オートは立ち上がってそう言った。今日を共に過ごしたエルフを迎えに来たこの双子の兄に、彼は感謝すらしていた。こちらを一切慮ることなく、己と関わる者についてのみ目を配る存在は、事務的でありがたいものだった。正しい結論を出したとばかりに、ノールスィーユが出会ったばかりの男に頷いてみせた。
「そこの男もそう言っている。急げ。すぐ出立する。……ところで二人とも、においがひどいな。森に入る前に落とせよ」
「今はそんなことが!」サーマヴィーユ――サヴィの焦燥を見ていると、自分が間違っている気がするオートだ。「オート、私はその礼を受け取らないぞ。お前はいま一人になっちゃだめだ……」
「もう大丈夫なんだ、本当に。そばにいてくれただろ。強がりとかじゃない。じゅうぶんに助けられたのに何も返せてないけれど……いつか、森に行ったときに案内してくれ。そのときにきっと返すから」
「そんな先のことを言っても、お前が生きているかどうかわからない。人間は封天樹が育ちきる前にあっけなく死んでしまう生き物だ」
「いつまでもそうしているなよ。今すぐに決めるのだサーマヴィーユ。森か、街か」
この女性はこんなに小さかったのかとオートは思った。それに気づいていなかったのだとすれば、彼はその存在に寄りかかって、何も見ていなかったということだ。
いらだちが彼女の顔に浮かんでいた。選ぶべき道はわかっているのに、もう片方がどうしても魅力的に――あるいは捨てられない大切なものに見えてしまうのだろうと彼にはわかった。
やがて彼女は立ち、そして選んだ。
森のにおいの方へ。
これでいいんだと彼は頷いた。
「エルフの間での別れの挨拶ってあるのか」
「そうだな……あるけれど教えないでおくぞ。聞きに来い、大森林まで。必ずだ。そして必ず、私が望んだ名前で呼ぶんだ」
「じゃあ、いずれまた。サヴィ」
それ以上の言葉を交わすことはなかった。歩き出した兄に従うようにしてサーマヴィーユは去っていった。一度彼女が振り向いたときには、オートはもう歩き出していた。
追剥通りにいかなくてはならない、そう彼は決めていた。夜闇の中を、安明かり一つで歩いていく。
必ず、今夜中にムゥをドリマンダに会わせる。堅物そうなノールスィーユだったが、含蓄のあることを言っていた。この夜が終わるまでは今夜だと。一日限りの相棒はいなくなったが、まだ時間はある。機械に心があるのかどうか、彼にはわからない。
言ってしまえば、機械と老婆のことは自分自身と鼠に置き換えられるのだ。補填するための代償行為なのだという自覚も彼にはあった。
だがそれでいいのだと思う。サーマヴィーユはいない。金もない。オートには自分しかない。けれども今はまだ、少なくともそれだけは持っているのだ。
「己を行え」
壁のシミである誰かが、急に言葉を吐き出した、やせ細っているいかにもな貧民窟の住人を見上げる。彼らを避けながら、オートは路地を進む。熱は胸にある。ダミワードの言葉もそこに。何もなかった記憶喪失の心、その中央に置かれたそれは、彼の芯になっていた。生きている。やりたいことはないが、やるべきことは見つかっている。
(自分を――俺を、ここからはじめる)
もっと早くそうしていれば――そう思わせるほどに状況は悪かったが。頼まれたことは最後まで行おうと決めたのだ。そのためには、深く考える必要があった。自分と、周囲と、相手の持ち札を確認して、有効なものを探す。そして、それを動かすための言葉を。
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