#1ー6




 オートの目の前で、この一日の行動を共にしたエルフの女が倒れた。彼が門にたどり着くまでの短い時間で戦いは終わってしまった。敗北という結果でもって。

 ゾドンという男によって、水をふんだんに吸った布を乾かすように、エルフは勢いよく地面に叩きつけられた。倒れたその脇腹が、容赦なく踏み抜かれた。

 それきり動かなくなる。うめき声が聞こえるから、死んでいないことはわかった。だがそれだけだ。これから、死ぬよりひどい目が――そんなものがあるのなら、だが――待っているかもしれないのだ。


「サヴィ! サーマヴィーユ! くそ……」


 もちろん呼びかけても返事はない。苦しげな咳が返ってくるだけだった。ゾドンとポルインは、オートの焦燥と失意を見て、それを娯楽としているようだった。特に太った借金取りの元締めは、彼はもちろん、エルフにも痛めつけられた借りがあったから、大きな声で笑い続けていた。


「さ、次はお前だなヒョロガリ。抵抗して殴られるか、無抵抗で殴られるか。どっちがいいかね」

「どっちも断るに決まってる!」

「どう言ったって殴られるのさっ、おれが殴るからな!」


 視線を上げると、館の最上階の窓にムゥが立ち続けていた。機械の論理では、自分たちのやっていることはどれくらい愚かなことのだろうか、そう聞いてみたいと彼は思う。


「弱い者いじめかよ」

「なに、最後までやればただの殺しになるさ。それに、自分より弱いヤツとやりあうことがいたぶりになるんなら、俺ぁ誰とも戦えねえからな」

「そんな風にふざけてっ!」


 自分の中にこれほどの――見境や分別を失ってしまうほどの怒りが眠っていたことが、オートを驚かせた。その激情に任せるまま、彼はゾドンに駆け寄った。巨漢は面白がって、迎え入れるように両手を広げてみせた。

 その殺傷圏内には入らないようにして、走る勢いをできるだけ殺さないように曲がる。狙いはポルインだった。


「ひっお前」

「残念だなあ。考えはいいのに。お前は弱くなけりゃあ、もうちょっと面白かった」


 読まれていた。あるいは反応された。

 どちらにせよ、オートは首根っこをつかまれて身動きが取れなくなった。たったそれだけで、人間の呼吸は苦しくなり、抵抗する気力をごっそりと奪われてしまう。

 動揺から立ち直ったポルインが、ぎらついた笑みを取り戻して彼の細い脇腹を小突く。痛みは感じない。だがそうされることがたまらなく不愉快だった。


「はっははっ、ざまあないなお前っ。先生はさっきいいことをおっしゃってた、勝てば得られる、負ければ失う。負けだなっお前の!」


 足はまだ動くので、オートはポルインの腹に蹴りをくれてやった。バランスを崩した肥満体が尻もちをつく。そこで、体に力が入らなくなった。首からよくないものを流し込まれている感覚。病気になった時のようなけだるさと喪失感が急に訪れた。これが魔術かよ、という考えすらすぐに刈り取られてしまう。


 タネがわかっても、オートには抗うすべがないのだ。記憶喪失の彼の体には、危機的状況を引き金にして目覚めるような力はなにも眠っていなかった。叫ぶこともできずに、眠気とは違った要因で意識が朦朧としてくるのを止めることができない。

 顔や腹を殴るという物理的な手段でもって、まぶたが落ちそうになるのを止めたのはポルインだった。


「先生、そのまま持っていてくださいね。別に報酬を支払いますので――このっ、ゴミカスがっ! なんでお前のようなやつがっ!」

「ははっ、ポルイン、お前も面白いぞ。スプルドグルフトに入ったら目をかけてやるよ」


 見るからに年下のゾドンにそんな風に言われても、ポルインに気分を害した様子はない。必死にオートを殴りながら返答する。


「ありがっ! とうっ! ございますっ!」


 ある程度殴られてきた経験のあるオートからすれば、太っちょのそれは素人殴りもいいところだ。狙いが定まらないらしい。柔らかく、突き刺さるような痛みをもたらす部分だけではなく、骨のあるところも殴っている。脇腹、額、腰、肩――そして左胸。

 硬質な音がした。さすがにポルインも殴るのをやめて、手をひらひらと振りながら違和感の元凶をとまさぐる。袋がちぎり取られる。

 森瑠璃が夜の歓楽街のはずれに姿を現した。


「はぁー美しいっ。なるほど、なるほどなっ。お前の札はこれだったか。だが交換はしないぞ、おれはお前から一方的に奪うだけだっ! すべてをっ!」

「かえせ、くそったれ」

「さえずるなっ負け犬っ!」


 ゾドンがオートをつかんでいた手を放したので、彼を支えるものはない。地面に倒れこんだところに、ポルインが容赦なく踏みつけてくる。


「調べたんだぞおれはっ。お前のことをだオート。鼠と暮らしているんだってなっ河のそばで」


 すぐに声が出せなかったオートは、元の雇い主の足首をつかむことで、なにかを伝えようとした。すぐに払われて、今度は手の甲を踏みつけられる。痛みはない。代わりに熱がある。


「すべてを奪うと言っただろう」

「やめてくれ、頼む……」

「やめると思うかっバカがっ。そんな風に頼まれたら哀れむとでも思ったかよ」

「おうポルイン。お前弱いものいじめが本当にうまいなぁ。いいぞ、そのままいけ」

「恐縮ですっ。いまごろは手下が火をつけに行ってるぞっははっ」


 壊れたような笑い声を止める者はいなかった。オートは、自分はここで死ぬことがわかった。巻き込んでしまった森の民――気負って言えば友達だけは、どうにか助けたかったが。それすらも叶いそうにない。


「ポルイン様、大変なんです!」


 門が開く。屋敷の従者らしき男が血相を変えてポルインに近寄る。声を潜めての会話だったが、下敷きになっているオートにはかろうじて聞こえた。


「この騒ぎに乗じてか、ガキどもが屋敷に押し入りやがりました!」

「もちろん全員捕まえたかっ」

「いえ、いくつかの品を盗まれまして……申し訳ありませんっ」

「あーっ、あぁーっ!」


 殴打の音。本当に申し訳ありません。許すか、許せるかよこんなことが、お前たちは全員クビだっクビ、いいや違う、死ぬんだ、屍圏になっておれの役に立て……。

 醜態はオートが思っていたよりも早くおさまった。ゾドンが注目を集めるように手を鳴らしたのだ。


「どうすんだい、ポルイン。俺は雇われもんだ」

「宝石は手に入りましたので、こいつらは豚の餌か河に沈めるかしますっ。ガキどもをどうにかしないとっ。どうして今日に限って来やがったのか……」

「今日だからだろうさ。騒ぎが起こってるのに乗じないやつらなら生きていけねぇ」

「そういうことだよっ、そらっ!」


 束になったバキア草が――乾燥させないままに火をつけると、熱に抵抗するように煙を吐き出し続けるものだ――投げ込まれた。もちろん着火された状態で。煙たさにあらがうように、オートは顔をあげる。煙が目にしみて、視界が勝手にぼやける。子供盗賊団のひとり、モーニがそばにいた。次々と煙幕が投げ入れられる。何人も来ているようだった。


「オレたちじゃあんたらを支えられないから、走れるなら走れよ!」


 オートは言葉通りにするしかなかった。立ち上がろうとして、体の痛みでくじけそうになる。立て、走れと自分を説得しようとするが効果が薄い。じゃあダミワードのことはどうなるんだと自問すれば、ようやく体は走り出す。走りながら胃の中身を走り出した。ズボンに、靴に反吐がかかる。そんなことを気にしている時間はなかった。


「兄ちゃん大丈夫かい?」

「そんなことよりサヴィは……女の人は無事なのか」

「逃げれるならそうしてるでしょ。オレ、そこまで面倒みないぜ」


 煙幕の中では、かたわらを走るモーニの姿すら消える。


「私はここだぞオート。いまは逃げよう、次のために……モーニ、大きな道をゆかずに戻ることはできるか」


 腕に触れるものがあった。それが見覚えのある桜色の爪だったので、オートは大きく息を吐いて――思い切りせきこんだ。


「それができなけりゃ、オレたちは生きちゃいないって。貸し借りはこれでナシだかんな」


 ポルインの屋敷から持ち出した報酬が、盗賊の子供のポケットから取り出される。貴金属や宝石などが金の音をたてた。

 二人の逃走を助ける前に、子供たちは仕事を終わらせてきていたということだ。


「そりゃよかった。急いで帰らなきゃいけないんだ、借りてくれないか」

「いいよ。どう返すかちゃんと考えてな。ご利用は計画的に、だぜ」


 煙幕を抜けて、モーニの先導についていく。仕事のうまくいった子供たちとは違い、彼は負け続けてここにいる。冗談を言う気力はなかった。

 夜が深く、暗くなっていく。







 身の程をわきまえずに喧嘩を吹っかけてきた、人間とエルフの二人が逃げ去ったあと。

 迎え撃った二人(動いたのは一人だけだったが)は邸内に戻った。主の元に、次々と伝えられる情報はどれも明るくはない。羽虫のような餓鬼どもは、それこそ虫のように彼の財産を食い荒らしていった。見つけ次第、二度と舐めた真似ができないようにしろと怒鳴りつけて貧民窟に放ったが、そう期待はしていなかった。有能な部下がいれば、このような現状に甘んじていることはなかったからだ。今頃はとっくにスプルドグルフトに入っているはずだった。

 ポルインは煙幕の中で、言わねばなにも動かない、そんな無能な部下たちに指示を出し、すぐ逃げ出した二人を追おうとしていた。彼は商機を見極めて成功してきた人間だ。その機の中には退くべき瞬間がある。それともう一つ、押し進まなければならない場面も。

 ここは押さなければいけない機だと、太った男は感じていた。それを止めたのはゾドンだ。彼を見定めようとする結社から、己の裁量でもって御してみせよと送られてきた地下闘技場の連続覇者。


「先生っ追わないんですかっ!」

「別にいいだろ。折れるならよし、立ち上がって牙を研ぐならなおよしだ」


 獰猛に笑うこの男のことを、ポルインはどうにも好きになれなかった。いつでも強者の論理を振りかざしているからだ。魔術を複合した格闘術、練り上げられた体をそのまま屍圏へ転じることで得た不死性。いずれも持たざる者にとっては羨望の対象だった。不服げに唸り、足元を蹴るしかない。

 そんな彼の様子も、強者にとっては愉快なものらしい。ゾドンが呵々大笑するのを見て、ますます不愉快になった。それ以上調子づかせるのもしゃくだったので、今度は動かなかったが。







「くそ、ダミワード……」


 狭い路地になぜか作られた下り階段は途中から冠水していた。流れのない、腐った水に腰までつかりながら進む。焦りが彼の足を早める。

 自分は間違っていたのか、彼はそう自問した。

 ――もっと上手にやれたんじゃないのか。

 たとえば、サーマヴィーユにはあのゾドンを避けてもらって、屋敷に単身で突入してムゥを取り戻すのはどうだったか。奉仕機械はあそこにいた。できたかもしれない。けれども結局は、ドリマンダの家に奉仕機械を返したところで報復されて終わりだ。自分たちに圧倒的な力がない以上、不利なことは百も承知だった。だったら最初から負けていたのか。勝っていないから、すべてを奪われるために、敵の本拠にわざわざ出向いた?

 彼の思考は悪いほうへと向かい続けた。それを止めたのは、彼よりも自罰的な声だった。


「すまないオート、私は、私が負けてしまったから」


 冠水路地がようやく終わり、モーニやオートが腐れ水から抜け出しても、最後尾のサーマヴィーユは階段を登っていなかった。泣いている――そんなことはなかった。ただ、安楽死のための薬を手渡そうものなら、すぐに飲み干してしまいそうな雰囲気があった。乱れきって、土煙をからめとった髪は、その先端が水にひたされて色を変えていた。

 それより問題なのは、彼女がそれを気にしていないことだった。


「いいさ。失敗をしない存在なんていないんだろ。次……そうだな、次はうまくやればいいんじゃないか。それに一緒に来てくれて助かってるんだ」


 次があれば。それは口に出さなかった。

 ぶっきらぼうな言い方になったが、それは彼の本心だった。彼女は、彼が見てきた中でいちばん強い存在だった。だが、世界で最も強いわけではない。それ以上がいた、それだけの話だった。なにより沈み続けているこのエルフは代理人なのだと、彼はそう思っていた。たぐいまれなその善性から力を貸してくれていたありがたい存在。対等ではない。


「うん。そうだな、次だ」

「次の代に伝えるときにさ、ただの恥で終わらせる話にしないためにも、いまはそこから出よう。美人でも、においがキツかったらだめだよ」

「どんな状況であっても、女に年とにおいのことを言うもんじゃないぞ。私だって悲しくなるんだから」

「はいはい、百七十一歳のお嬢様」


 手を差し出すと、素直に握り返される。白い手のひらには煮崩れたような草が絡まっていた。彼がつまみ取ると、小さな微笑みが返ってきた。普段であればその感覚も喜ばしいものだったのだろうが、そんな余裕はなかった。

 それよりも、彼はダミワードのことが心配だった。足を失った鼠が必死に這ってどれだけの速度が出るのか、よく知っている。カタツムリよりは早くトカゲより遅い。知る限り、老賢の鼠が魔術を用いることはなかった。小屋が燃やされて、運よく逃げ出したとしても、ポルインの手先の数しだいでは捕まってしまう。

 光の差し込まない都市の洞窟に入った。先導の盗賊少年は、すべてを把握しているかのように進んでいく。


「ここ右に曲がってあとはまっすぐ走る。そんでもって腐った河のそばをに突き当たったらそれに沿ってずっと走る。そうすりゃあんたと鼠の家につくよ」

「ほんとうに助かった、ありがとな」

「逃がしてくれたこともだぞ。私は恩を忘れない」

「また今度返してくれりゃいいよ。死んで踏み倒すってのでも、別にいいけど。慣れてるから」


 冗談で言っているのではなかった。その経験を何度も積んできたのだろう。まだオートの半分ほどしか生きていないだろう少年は、彼よりよほど過酷な環境で生き抜いてきていた。


「生まれてまだあれだけの年しか重ねていないのに……オート。ああいう風に生きなければならないというのは、どういう感じなんだろうか」


 走り出してすぐ、サーマヴィーユがつぶやく。余裕がなかった彼には、さあと返すのが精いっぱいだった。

 彼女も少年の背景を透かして見たのだろう。やるせなさをその顔ににじませていた。次代に繋ぐことに重点の一つを置くタルモー=スケィル大森林では、子供が捨てられて、己の器量と運のみで人生を切り開いていかなければならない――それは考えられないことなのだろう。街の暗い部分では、生命はそれほど尊重されるものではない。


 見覚えのある汚れ、河の流れに戻ってきたと感じたとき。オートの体が突然倒れた。理由が自分でもわからなかったので、えっという間抜けた声が漏れた。彼よりも足の速いエルフが、助け起こすために駆け寄る。


「ああ悪いねぇ。こんなのがひっかけちまって」


 そんな言葉が壁から発せられた。壁のシミと呼ばれる、生命の終わりを緩やかに待つだけの存在。それに足を取られたのだった。

 手をついて、伸ばされた手を取る。ついさっきとは逆の構図になった。


(あのときのサヴィにはなにが見えてたんだ?)


 いまのオートには赤が見えていた。

 視界を遮る建造物、協力者の美しい顔。金髪を橙に染める明るさ。その向こうにあるのは炎だ。


「ダミワード!」


 駆け抜けた。背後から彼を呼ぶ声があったが、反応することはしなかった。

 小屋とすら呼べないようなところで、彼と鼠は寝起きしていた。生活を共有して、言葉を交わし、知識を受けた。自分はなにひとつ返せていないと彼が言ったとき、鼠はそのようなことはなしと軽やかに断じた。肉と肉、意識と意識が向き合った場合、一方的な関係というものは存在できないのだと。

 片方だけでも肉がなくなれば、その関係は変質してしまう。

 赤が広がる。枯れ木が燃えさかる音が近づく。

 燃えているのはもちろん、オートとダミワードが暮らしていた小屋だ。



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