#1ー2
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頬の腫れが気にならなくなってきたころ。
オートは、主にスラム街の貧民から取り立てをしている。そのはずが、このごろは様変わりしていた。
上納分は九割だ、昨日取り立てたところからも取り立てろ、二重取りでもかまうな、なにをしてでも金を回収しろ。そして、貧民窟を出て下町にも行け。そこでだって執拗に、蛇のように取り立てろ。
太った(太りすぎなくらいだ)ポルインという元締めの男が、わざわざ下っ端を集めて訓示をしたのだ。陰湿な心得で全身を染めようとしていた。大勢の上司たちが、それに賛同して奇声をあげていた。オートはその中に混じることはなかった。
ダミワードに訓示のことを話すと、賢い老鼠は「近く大きなうねりが来るゆえ、おんしも心を定めておけ。揺らされども、揺るぎないように。そして、おんしが『心の中央に置いた』という言葉を思い出してみよ」と語り、瞑目した。
その鼠はゆうべから呼吸が荒く、話しかけてもときどき反応がなくなっていた。授業もなしだ。体調が悪いのは歴然だった。
薬を買って帰りたいと思うが、どんな薬がいいのかわからない上に、そもそも薬を買う金がない。そんな計算はしていないのだろうが、酒精中毒の上司は日々を生きられる最低限の額しか残さない。なにをするにも必要な金を貯めることができずにいた。
そんなオートのことなど一切かまわず、ミアタナンの下町は活気にあふれている。湿ったスラム街とは大違いで、日陰になった市ですら明るく見える。光を受けてきらめく砂ぼこりすら神々しく見えてしまう。熱量をもった人々が生活している場所を居心地悪く感じてしまうのが、いまの彼の心境だ。
陰気臭い、見るからにスラム上がりとわかる男に近づく者はいない。物乞いしかいないからだ。すれ違うヒトはみな、大きく距離を取る。自分でもどんな病気を持っているかわからないから、それが正しい判断なのだと思えた。
やがて市を抜けて、ようやく喧騒から遠ざかる。次の相手は、聖樹通りの北側から三軒目の家だ。ドリマンダ・チャンティという名の老女が、ひとりきりで暮らしているという。彼女が過去に背負った借金――二十年も前のことを、いまさらになってほじくりかえして生み出した借金を、オートは今から取り立てなければならない。家を建てるための金だったのだという。夫婦の家を建てて、そこで暮らすための。
一度は払い終わった痕跡がある借金だ。
それなのに、魔術師の手さえ借りて、証文から完済の文字を消して、借金を創造したのだ。借金術だった。そこまでやるのかよ、と耐えきれなくなったオートがこぼすと、酒びたりの上司が「一度でも借りたから、弱みになってつけこまれるんだ」ともっともらしく語った。
最初にこの上司から金銭を要求されたとき、きっぱりと断っていればつけこまれなかったのか、そう考えてもみたが。その場合は殴られ続けて死んでいたのだろうな、と思う。
弱いものは、ずっと弱いままで、死ぬまで食い物にされ続けなければならない。その論調には嫌気がさしているオートだ。ただでさえ好きではなかった借金の取り立てが、ここのところはますますつらいものになっていた。
聖樹通りの第一印象は、狭くて暖かいというものだった。
通りに緑はほとんどない。せいぜいが石畳の隙間から生えた雑草くらいだ。
家々の間は狭く、三人が横並びに通ることもできないだろう。それでも貧民窟の裏路地よりはずっと広かったが。
その狭い路地の向こうには家ごとの庭があって、スラムでは見たこともない桃色、赤、橙、白といった花が咲いている。
戸口もまた狭い。かわりに建物が長く、細長い箱のような形になっている。それぞれの家が勝手気ままに自己主張をしてできた、ふぞろいでご機嫌で、今にも破裂しそうな箱庭――そんな印象をオートは抱いた。
そんな中で、ガラス窓に映った貧民の姿は、どうやっても見栄えのいいものではなかった。背が丸まっている。髪もはね放題で、コケのかけらがついていた。ズボンにも湿った藁が刺さっていた。それらに気づけないくらいに疲れ切った眼もあいまって、スラム街の貧民の典型例、というありさまだ。
目立つ汚れを落として、北から三軒目の家をノックする。いま出ます、という声が返ってきた。
聞こえたのは若い声だった。老人のものではない。
どういうことだ、と思う間もなく扉が開いて、オートは赤い瞳にとらえられた。幼さを残しながらも整った顔だ。整いすぎていて、男か女か判別がつきにくい。自然にはありえない、調和の極致に至っているからこその不自然さがある。美は度を超すとそうなることがあると、ダミワードが珍しく講義を脱線させたときに語っていたことを思い出させた。
衣服は光導教徒の市民が好んで着るような、普遍的で、落ち着いた色合いのものだ。だが、首にあるくぼみ、手首のむき出しになった金属部分などから、純粋な人間でないことがわかる。
「ここは、ドリマンダ・チャンティの個人宅です。わたしは奉仕機械のムゥといいます。お客様は、お客様でしょうか」
はいともいいえとも答えづらくて、彼はすぐに言葉を返せないでいた。その反応をどう受け取ったのか。そのままの姿勢で動かない。まばたきをしない機械の瞳が、彼をじっと見つめている。返答が待たれていた。
焦ったオートは、正直に答えてしまった。
「借金取りなんですが」
「お引き取りくださいおばかもの、と言いたいところですが。少々お待ちください。借金が実際に存在するのかどうか、質問をしてきます」
扉が閉じられそうになったので、オートは慌てて足をねじこんだ。察知して、ムゥが動きを止める。それらの動作をしても、表情が変わることはなかった。
「急にそのように動いては、あぶないです」
「知ってる。悪かった。でも自分は、ドリマンダさんに直接話をしたいんだ。中にいるんだろ」
言葉を続けながら、オートは体を家の中に入れる。手際よく物事を進めるための涙ぐましい努力、と借金取りの間でいわれている技術だ。ただの押し入りだと彼は思っていたが、使えるものは使わなければならない。
花のにおいがした。どんな花なのか、記憶を無くしたオートにはわからないが。甘すぎない、落ち着いた種類のものだった。
「こちらです。ついてきてください」
ムゥのあとをついていく。玄関を曲がってすぐがドリマンダの部屋だった。
もとは居間だったのだろう、壁に寄せられた大きなテーブルやソファには、最近使われた痕跡がない。
ドリマンダは老婆だった。ベッドから半身を起こした姿勢だ。望まれていない来客であるオートの姿を認めると、あらあらと笑って、それからせきこんだ。すぐに奉仕機械が布を当てて、こぼれたものをふきとる。
「ドリマンダ、いけません。寝ていてください」
「いいの。借金取りだってお客よ。それにね、イヤになったら病気をうつしてやればいいの。死病だっていうんだから最後の善行を積むことになるわ」
一歩後ずさるオートを見て、してやったりという表情をする老婆だ。顔色は悪いが、室内は清潔だった。薄汚れた自分がひどく場違いであると、オートはそう感じてしまう。居心地が悪かった。
「どんな御用なのかしら、借金取りさん。うちも昔、一度だけお金を借りたことはあったけれど、それはきちんと返し終えています。なんなら完済の証明書もお見せしましょうか」
手を体の前で組んで、ドリマンダはきっぱりと宣言した。昔のこともはっきり覚えていて、手強い相手だった。老婆の言葉そのままに、すでに終わった件なのだ。
本来であれば。
「……残念ですがドリマンダさん。こちらが買い取ったあなたの証文には、完済されたとの済印が押されていません。我々はずっと待っていました。二十年分の利子は膨れ上がっています。この家も、抵当に入っています」
必ず返却するように。そうできなかった場合、お前は死ぬ。死んだら体は再利用する。
そんな直截の脅しを受けながら手渡された一枚の紙を、オートは広げた。スラム街に住む者たちの命は、驚くほど軽い。命だけは取られないだろうと考えることはできなかった。
終わったはずのものを終わっていないと告げて、誰かが働いて貯めた金を持ち去っていく仕事というものが、はたしてこの世に必要なのか。間違いなく否だと痛感する。
「うそ、光神よ……」
口に手を当てて短くつぶやくドリマンダを見ていると、彼の胸中にはやりきれないものが広がる。どうして自分はこんなことをしているんだろうか?
実際に嘘の借金なのだ。
それなのに、老婆には関係のない、まったくの第三者にとっての都合でもってすべて踏みにじろうとしている。ここまでしなければならない理由などあるものなのか。そんな疑問が生じた。
「借金取りさん。その用紙を見せてもらってもよろしいでしょうか」
動揺する主の背中をさすりながら、表情をまったく変えない機械が淡々と求めてくる。
「手渡すことはできない。破られたらひどいことになる」主にオートがだ。
「かまいません。見るだけでわかりますから。もちろん、魔術で破壊するということもいたしません。わたしには破壊的な手段が備わっていませんから」
不安になる物言いだったが、オートはムゥの前に差し出した。できればこのインチキの突破口を見つけてほしかったのかもしれない。
奉仕機械の目が、文字通りに光った。紙が分析されているのだ。五秒もたたないうちにそれは終わった。
「紙に蓄積された時間から、二十年前のものと判断して間違いありません。インクも同様です。ですが、一点だけ魔術の痕跡が認められました。返し終えたことを証明する印が消されています。つまりこれは、過去の返済が完了した借金を、ふたたび返すように要求してくる、詐欺の一種だと判断します」
そして不正は暴かれた。オートは大きく息をついた。
薄汚れた服を着た人間らしく、ばれなければいいという薄汚れた考えをまとっていたことを認めなければいけなかった。
「その通りだ……悪かった」
「わたしは借金取りさんを敵性の存在と定義します。いますぐここから出ていってください。当家にあと三十秒とどまった場合、憲兵を呼びます」
「ああムゥ……ありがとう、本当に助かったわ」
ドリマンダが、ムゥの手を握ってさする。奉仕機械は、老婆にちいさく笑ってみせてから、部外者であるオートに向けて険しい表情を作った。再度の警告を受けるまでもなかった。彼は早足で家を出た。敗北感やしくじりのつらさはほとんどなかった。これでよかったとすら思っていた。
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己の最も優れているところは記憶力で、その次が徹底して注意することだと、ポルインは自負していた。
客の顔を覚える。その人物が何を買ったのか、世間話の内容は、性別、歩き方や服装から生活水準をはかり、的確な品を差し出す。そうして彼は気に入られ、他人よりも早く、大きくなっていったのだ。彼の誇る武器だった。
記憶と注意。それらの武器が、この瞬間も働いていた。二つともだ。
貧民窟――ひるまずに言えばスラム街。そこに暮らしている堕落した底辺の顧客たちは、払いも金額もよくない。搾り取る数を増やして対応していたが、それだけでスプルドグルフトが満足するのか――たとえば己が構成員であれば、満足するだろうか?
そう考えたとき、答えはいつだって否となるのだ。だから彼は、普段ならやらなかったことをやっていた。陣頭指揮だ。部下の顔を見て、叱咤激励をしていく。だいたいの部下が迷惑そうな顔をしていたから、お前たちにおれの苦労がわかってたまるかよと喝破してやりたくなった。
ポルインは客の顔を忘れない。そして部下の顔も。一度見ただけの下っ端の顔ですら、彼ははっきりと覚えている。
名前は聞いていなかったが。やせぎすで存在感の薄い、特徴のない男だった。だからこそ、他人から奪うことをなんとも思っていない、落ちぶれきった連中が立ち並んだ場所において、空白のようによく目立っていた。
それが、直属の部下を取り巻きにして街を練り歩くポルインの前に現れた。ドアを開いて、少しうなだれた様子で。二度とこないでください、そう言われているのが聞こえた。
一瞬で目の前が真っ赤になった。
あれは失敗したのだ。それがすぐにわかった。
「おいっ貴様」
通りを横断しながら叫ぶ。腹が揺れる。ぼんやりとした男がポルインに気づいた。間の抜けた顔だ。目の前の太った男は誰だっただろうと思い出そうとしている。太ることができる生活なのだと、そういう考えには至らないらしい。無能に違いなかった。次の瞬間にはさらなる怒りがこみあげてきて、自制も聞かずに胸倉を掴んでいた。
己の欠けているところが、この怒ると考え無しになるところだと、その自覚はあった。
通りに販売に来ていたらしい、銀線細工車を牽引する売り子が、掛け声をやめて早足で通り過ぎていく。パンの香ばしいにおいが彼らのところにまで届いて、よけいに腹立たしくなる。
「お前は失敗したのかっ」
「ええ。そりゃもう、ものの見事に」
淡々と頷かれるから、もう止められなくなった。まず一発殴った。それでもやせぎすはにらみ返してくる。こういうことだろダミワード。意味のわからないつぶやきを彼の耳は拾った。
「やり口が汚いんだよ、あんたは」
「認めたのかしらばっくれろっお前は……それでも……」
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それでも借金取りなのか、と言うつもりだろうか?
「それでも借金取りなのかっおいっ」
本当に言ってしまった。オートはめまいを覚えた。
これが誇りある仕事でないことくらいは、記憶を失った男にもわかることだ。それが不正に手を染めてしまったらなおさらだ。
ダミワードの言葉が、ほとんど顔を押すように殴ってきたポルインの拳を受けても倒れない力をくれた。己を行う。情けないことをしない。詐欺の片棒を担いだ金で、己と鼠を生かしたくはないと、そう思えたのだ。もちろん死にたくもなかった。
オートのすぐ近くに、肥え太った男の顔がある。豚のようだが、獣よりもよほど息が荒い。至近で何事かを叫ぶたびに、頬がぷるぷると震える。殴られることは苦にならなかった。金は持っているのかもしれないが、ポルインの拳はまるで痛くなかった。
「なんでもいいのですが。ドリマンダが望むのは、ここでやらないでほしいと、それだけです」
機械だからなのか。どういう状況なのかをまるでかえりみずに、ムゥが扉を開く。
――たしかに、ひとさまの家の軒先でやることじゃない。
そう考えるだけの理性がオートには残っていた。
当事者の一人としては移動したかったが、相手のポルインは引き下がろうとしない。血走った目が奉仕機械の方に向きかけたので、次の言葉を放つ。
「自分は雇われの、それも下っ端のクズだよ。そんなやつでもわかってるんだ。越えたらいけない一線ってのがあんたにはわからないのか!」
狙い通りに、太った男の怒りがつきつけられた。
「ぶん殴ってやるっ」
「もう殴ってるでしょ。それにあんた、魔術師の手を借りてたのがバレてる。広めてやるぞ」
一発。体の使い方が下手で、弱い拳でも、当たりどころがよければ血は出る。今回は鼻だった。ポルインも拳を痛めたらしく、手を振っていた。その情けない姿を見られたことが恥だと思ったのか、また着火する。部下たちが顔を見合わせていた。
あと何発殴られるだろうか。オートが益体もない計算をした。殴るというのも、慣れていなければ体力を使う。五回と踏んだ。
それでも、もっと挑発をしなければいけない。ドリマンダとムゥに目を向けさせるわけにも、ポルインの取り巻きに殴られるのも。どちらも歓迎できないことだから、彼は意識と体ばかりが尊大な男の打撃を受け続ける必要があった。
予想は外れた。ゼロ。
「歩き売りの屋台を追ってみれば、街の民というのは白昼から血生臭いぞ」
赤子のようにふくらんでいるポルインの手よりも二回りは細い、芸術品のような手だ。それが最小限の動きで脂の詰まった手首を固め、行動不能にしていた。手触りが気持ち悪いのか、顔をしかめていたが。
古き森の民は、己が信仰する森そのものの精髄として生まれ、ヒトの形を持った。担うさだめは森の護り。森とともにあり、その代弁者として生きるもの。森と精霊のあいだに生まれた子供たち。
エルフ。
ダミワードから聞いた存在がそこにいた。まぎれもない美人の姿でもって。
なぜエルフが街に、どうして急にいさかいに割って入ってきたのか、それらの疑問よりもずっと――食べ歩きをしているのが目立っていた。
空いた右手の指の間には、それぞれ一本ずつ串焼きが挟まれている。エルフも肉を食べるのだと、場違いな感想を持ってしまうオートだ。
「離せこの馬鹿力め! 何してるっ早く助けろ、このおれを、ああ痛い、痛いんだこれは。やめてくれ頼む……」
ポルインが叫び、闖入者が握っていた空気が散逸する。
護衛は四人。いずれも鍛えられた体をしている。この場の第一の脅威をエルフに設定した彼らは、油断なく立ち位置を変えていく。包囲する態勢だ。
一人が殴りかかる。
エルフが、右手の串をすべて放り投げる。ポルインの手首に添えた左手はそのままに、細身の体を、糸でつりあげたのかと思うほどの跳躍を見せた。かかとが無慈悲に脳天をとらえる。豚のような男が、痛みと恐怖で悲鳴をあげた。
落下してくる串が、もう一度右手指の間に挟まれた。
「手加減はしたぞ。うん、これおいしい」
肉が一切れ、彼女の口に運ばれる。咀嚼。この場での頂点はまぎれもなくエルフだから、その食事に異を挟める者はいない。ひどい間だなとオートは思う。
「あの、みなさん、わたしの言葉は聞こえていますでしょうか。ドリマンダの願いは、ここから離れてほしいということなのですが」
ムゥが愚直にもう一度、家主の言葉を繰り返す。オート以外に聞いているのは、頷いたエルフくらいだろう。
「離したぞ。まず事情を聞かせてほしい。街にだって街の法というものがあるはずだから。そこに、一方的に殴っていいというものがあるとは思えない」
エルフが拘束を解いて、しごくまっとうなことを口にする。それほどこみいった状況ではなかった。内輪もめ、その一言で説明がつく。
「飼い犬に手を噛まれただけだ。森の古臭い引きこもりには関係のない話なんだっていってるんだから、さっさと去れ耳長っ。おれたちは法の中にある話をしているっ」
「私が古臭い? こんなものが法だというのか? ……前の言葉だけでもいい、取り消すんだ」
「いやだねっ借りたものは返さなきゃいけないっ、貸したほうが困るからだっ。それだけの理屈なんだよこれは」
部下の壁に隠れたポルインが、尊大な態度を取り戻した。手首を振って涙目になっているが、そこには欠片も愛嬌はない。
「街の法というものは、そこまで……」
耳を少し下げたエルフが、オートを見る。自分の介入が正しかったのか、わからなくなってきたらしい。
「名前も知らないけど、エルフのお嬢さん。これは自分と……こっちの、もうすぐ上司でなくなる男との間に発生した問題なんです。もちろん助けてくれたのは本当にうれしかった、ありがとう。けど、話はしっかりつけないといけない。ここから離れたあとで」
ボロ服をまとった、見るからに近づきたくない身なりをした貧民の男でも、誰かに助けられることがある。そのことにどれだけ勇気づけられたか。このうつくしいエルフには、きっとわかってもらえないだろうとオートは思う。
そんな様子を見たポルインが、侮蔑の笑みを浮かべる。
「お前。お前は……そうか。情が湧いたのか、一度会っただけの老婆に。機械人形に目を奪われたか? 見た目はいいものなぁこれでも」
「証文を持ってるのは自分なんだ。破り捨ててやろうか」
「何人が同じ言葉をおれの前で吐いたと思う? おれは飽きるくらいこう言ってきてやっているんだ――その証文は写しだっ。貴様らごときのやつらに本物なんて渡すものかよ」
「そこのムゥって子が、二十年前のものだって計測をしたんだよ!」
自分の家の前で蚊帳の外に追いやられていたのが一転して、急に話を振られる。それでもムゥははっきり頷いた。
「そいつが自分に都合のいいような言葉じゃないってどうしてわかるっ! それが写しだ、昔からおれは二枚作るようにしてるんだっ!」
「あんたのように不誠実でないと思ったからだろ!」
オートは叫んだ。そうしたところで、ポルインのにやつきを深めるだけだった。
「わたしは嘘を言いません。ですから、発言はすべて真であるのですが。機械の言葉すら疑われてしまうと、あなたの主観へ訴えかけることができなくなります」
「機械の分際でヒトを使おうとするのかっ」
「それは前提が間違っています。機械はヒトに使われるべきモノです」
ムゥとポルイン。どちらの言葉に対しても、真偽を確かめるすべがオートにはない。
エルフも状況がつかめていないから動けない。ただ、部下たちが彼やムゥに襲い掛からないようにと、牽制はしてくれていた。
頭の働きを取り戻してきたポルインが優位に立っていた。
いまや主導権を握っていることをはっきりと自覚した肥満男が、鼻を大きく膨らませて、堂々と言い放つ。
「貴様、やせ男。お前がどういう心変わりをしたのかだなんてどうだっていい。おれはお前を踏みにじってやるぞ。調べて、すべてをだ。まずはこの家からだ。おいガラクタっ」
「それはわたしのことでしょうか。生素材の占める割合のほうが多いのですが」
「どうだっていいっ差し押さえだ。この家はおれがもらう」
「やめろ、そんな理不尽の通るわけがない!」
だが理不尽は通されるのだろう。スプルドグルフトにまつわる二つの噂はオートも聞いていた。
エルフの前に進み出て、ポルインの正面に立ちはだかる。場数も、背負っているものも違う二人だったから、当事者の一人である彼にさえ、どちらが勝つかわかってしまう。敗北することを受け入れて、それでも立ちはだかるしかなかった。
「二十年分の利子を計算してみました。これほどの数字でよろしいでしょうか」
ムゥの算出した金額は、彼の薄っぺらいひと月ほどの人生からはおよそ考えられない額だ。ポルインも納得がいったのか、不機嫌そうに頷く。
「わたしが製造されるまでにかかったコストはそれを超えています。技術としても現行の水準より高いものが使われており、資産価値があると判断されます。わたしを差し押さえたのちに、資産家に売る、あるいは分解して金属素材と生素材を現金化することでも、あなたが要求する金額には満ち足りるはずです」
それじゃダメだ、とオートは思った。自分の手札をすべてさらしてしまったら、この男はそれでは足りないと言ってくる。だが、彼が身代わりになろうにも、そんな価値のあるものはなにもないのだ。
「……仕方ないからそれで納得してやろう。おい、連れていけ」
「最後にふたつお願いがあります。ドリマンダに挨拶をさせてください。もうひとつ、彼女の世話をする誰かの手配を」
「早くしろよ。逃げたらひどい目にあうぞ。もう一つは知らんな」
扉は中から開かれた。ドリマンダが、開いたそれにもたれかかるようにして、どうにか立っていた。肩で息をして、日の光のあたるところだというのに、オートが見たときよりも、さらに顔色が悪くなっていた。
「ムゥ、お願い。ばかなことはしないでちょうだい」
「わたし一体で、今後のあなたの安全が確保できる。これは賢い行いだと判断します。あなたが這うようにしてここまできたのとは違って。けれど、それがとても素敵なことであるようにわたしは感じています。ドリマンダ、いままでありがとうございました」
ムゥがオートを見た。出会ったときと同じ、感情のない瞳だが。人間の勝手な思い込みが、そこになにかがあるように感じさせるのだ。
「借金取りさん。あなたが少しでも罪悪感というものを抱いているのであれば、ドリマンダの世話をお願いします」
「待ってくれ、自分は」
「時間だぞっ歩け。それからやせぎす、お前はさっき言っていたな。おれのことを、もうすぐ上司でなくなる男だと、だから望みどおりにしてやる! お前はクビだっ野垂れ死ねこのゴミカスっ!」
捨て台詞と一緒に拳が飛んできた。一発目よりも力のこもっていない殴打のはずだったが。オートは耐えきれずにしりもちをついた。自分を突き動かしていたダミワードの言葉すら、心の中から消え失せてしまったようだった。
「ああ、ムゥ……」
ドリマンダがせきこむ。路石に赤いものが落ちる。それをふきとるはずだった奉仕機械はもういない。
「あなた、大丈夫か。ここが住処だというなら横になっていたほうがいい。私が入ってもいいだろうか」
老婆は簡単な返事もできない様子だった。エルフがオートを見る。頷いて、肩を支えようとしたが。汚れることもいとわず、森の民はドリマンダを一人で持ち上げてしまった。断りを入れて、家に踏み入っていく。
最後にオートは通りを振り返った。ムゥとポルインの姿が曲がり角に消える。どちらも振り返りはしなかった。そうする必要もないと断じられているようだった。
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オートを暴力から守ってくれたエルフの女は、古祖フレアヴィーユに連なりし者であるサーマヴィーユと名乗った。
「法とは掟なのだろう。であれば、あの肥え太った、不潔な豚のごとき男は正しい……そのはずだけれど。だが私は、そうであることに納得がいかない。許せないでいる。法であるという言葉だけで足が縛られてしまった、私自身のこともだ。恥じるべきことだ。それはそそがねばなるまい」
「嘘を法にしたんだ」
「そんなことがあっていいものか。生きるも死ぬも、すべてあるがままであるべきだぞ」
ベッドに寝かせて三十分ほどは、二人とも生きた心地がしなかった。特にオートにとっては。
どうにか容態が落ち着いたドリマンダを前に、サーマヴィーユが懺悔のように言う。挽回だ、と。
「答えてくれ、借金取りだったオート。私は街の法に明るくない。でもムゥという子をふたたびドリマンダに会わせてあげたいと思っている。きっとそれがあるべき姿だからだ。どうすればいい?」
「金があれば、すぐに解決できるさ。それがないならどうにもならない」
「……お金はそんなに大事だというのか」
「さっきのポルインみたいに、他人の命よりも重んじてる奴がいる」
ポルイン。豚のように肥え太っていて、いやらしく笑い、踏みにじっていった男。オートはそれに言い負かされ、職を失った。いまや無職の貧民だ。裏社会でそれなりの人物に目をつけられたという、厄介なおまけまでついている。そんなのを誰が雇ってくれるというのか。
「いやな話だ。ここでは、ただ生きて死ぬことすら難しいぞ」
「誰かの言いなりになって生きていれば、きっと簡単なんだ。死ぬまでそうしてれば」
それをやめようと思って、オートは反抗した。その結果がこの敗北だった。
それでも、助けてくれたエルフの女が言った通り、失ったものは取り戻されなければならないと感じる。あるべき姿に。
「今回の件は自分のせいだ。なにもかもしくじった。あの豚男の言う通りで、自分は野垂れ死ぬべきゴミなんだろうって思う。何の価値もない。ここにいちゃいけないんだ。だけどその前に、ムゥをドリマンダさんのところに返してから……それから立ち去りたい」
「月はほとんどの顔を見せてしまった。私もそろそろタルモー=スケィル大森林に帰るべき時が近づいている。その前に、これだけは成し遂げておきたいぞ」
オートとサーマヴィーユ、お互いの意思は通じ合っていた。やるべきこともわかっていた。方法だけがわからなかった。
「あなたたちは……ムゥを連れ戻す相談をしてるの。借金を取りに来たのに」
言葉にしてみれば、おかしな話だった。
かすれた声。ドリマンダが目を開いていた。エルフに怯えているのは、彼女が後から来た借金取りの一味だと思っているためか、と思った。起き上がろうとするのを、二人が押しとどめる。それだけの力がなかったのか抵抗はほとんどなかった。だが老女の口は止まらない。それだけに体力の多くを費やしているように、額に汗がうかぶ。
「お願い。取り戻して、あの子を……機械だけれど、二年も一緒に暮らしていた家族だったのよ。ほかに生きた家族はいないの」
ただでとは言わないわ、と続いた。あなたを雇う。その一言で、オートの気分は少し浮き立ってしまう。空いた腹がうごめく。あさましさを鎮めようとすると、自分の心の動きと向き合わなければならない。
「もう長くないってわかるの。死んだら、この家と財産はあなたにあげる。だから、もう一目だけあの子に会わせて。わたしが死ぬとき、立ち会っていてほしいの」
「わかった。そうなるようにする。絶対だ」
ドリマンダの上体が起こされた。紙を持ってきてちょうだい。あとペンと印も。そう、そこの棚の二段目よ。早く。……これでいいでしょう。証文になるはず――。
そこまでてきぱきと動いてから、老女は力尽きたように体を横たえた。あとは浅い呼吸を繰り返すだけだ。
「これからどうする?」
サーマヴィーユが聞く。それにはすぐ答えることができた。
「自分には知恵がないからあるところに行く。その前に、このひとの世話をしてくれる人を雇ってからだ」
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