#1ー3
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ミアタナンは広い。
大陸でいちばんの街であることは間違いないと、市民のほとんどがその自負を持っている。
王城のある街だ。種族を問わずにヒトが集まり、物流が生まれ、また広くなっていく。
そのうち、貧民窟や歓楽街、夜の市など――日の光の当たらない場所も、街の広さに比例するように育った。
都市計画や区画整理などないまま、無数の手で手当たり次第に拡張され続けた街には、そこに暮らす住民たちですら全容を知らない抜け道や空白地帯が多々ある。正確な地図を描くことは誰にもできない、野放図な地域だ。
「そういう場所に貧民たちが集まって、それがだんだん表にまで広がっていった……らしい」
オートの知識の大半は、ダミワードに教えてもらったことだ。だからそれらを口にするとき、彼は必ず伝聞であることを示す。
貧民窟の壁には、シミか堆積物のようにへばりつき、座り込んでいる者もいる。ここに来て日が浅いか、なけなしの財産すら奪われた人々、あるいは死人だ。蜘蛛の巣が張っていなければ、まだ生きている可能性が高い。そこから立ち上がるかは話が別だったが。
サーマヴィーユはあちこちに目を向けながら彼のあとをついてきた。
日光がほとんど差し込まず、建物群によって空を覆われた狭苦しい路地は、都市にできた洞窟だった。本来そこに住まうべき生き物がいることも含めて。
建てた意図のわからない小さな塔が横向きに突き出ていて、その上に立った闇鳥が蛇をついばんでいる。淀んだ魔力の流れのためか水路にはヒルが住みついている。死や腐食といった、生命消失の意味が加わった水の流れだ。どこまでも飲料に適してはいない。
苔むした墓には名前が何度も上書きされた跡がある。もちろん掘り返しては埋めなおした痕跡も。髪も爪も肉も、売れる場所があるのだ。そして空いた墓も再利用される。そのあと肉が取り出され、また墓が――。
ヤモリやネズミ、虫にヒル、ときどき屍圏――動く骸骨や動く死体をまとめて屍の圏にあるものと呼ぶ――までもが好き勝手にうごめき喰らいあう、独自の生態系ができあがっている。
最初は悪臭にせきこみ、顔をしかめていたエルフだったが。ニ十分も歩くうちに慣れてきたのか、もう動揺する様子はない。
「街は奥深いぞ……」
「街は街でもここは暗黒街。タルモー=スケィル大森林っていうのはどんなところなんだ」
「いくつもの生命の顔を持った、生き物たちの母である森だ。虚飾のない生の衝動と、代々受け継がれてきた血脈、そして森の掟が重要視されている」
「ここにだってコウモリくらいはいる。サーマヴィーユさん、森にはどんな生き物が?」
呪術の材料、あるいは栄養源として重宝される向きのある生き物だ。オートが知っている、わずかな世界に生息するものの一つ。毒も(ほとんど)なく食べられる、貴重な肉。
「不自然でない生き物ならだいたいいるぞ。目的となる、あのムゥという奉仕機械のようなモノ、つまり機械や造物は存在しない。あと、人間もいない」
「暮らしていけないのかな」
「私はいてもいいと思うぞ。掟にも『人間立ち入るべからず』とはないんだから。ただ――街で暮らしているヒトは少し、欲張りになるときがあると聞く。もう少しだけ、もう少し……そう言いながら限度を超えてしまうものなのだと。それがきっと森には合っていないのだから、お互いに離れてしまったんだ」
オートは頷いた。心当たりはいくらでもあった。
もう少しだけ大丈夫――それは借金を重ねる者の常套句だ。
「でもこうして、エルフが街に来てる。それもこんな薄汚い場所まで」
「私ははぐれ者だからな。集団があれば、必ず一人はいるやつだぞ」
サーマヴィーユの言葉には奇妙な響きがあった。子供がするような、自分をより大きく、理想の形であるかのように誇張したときの感じだった。オートはそこを追求しなかった。へそを曲げられても困るという打算と、恩人にそんなことはしたくないという義理があった。
「へぇ。どんな武勇伝がおありで?」
冗談めかして言うと、エルフは考える様子を見せた。足元がおろそかになっているはずなのに、荒れた道に足を取られることもなく進んでいく。
「そうだな。しろがね森氏族の伝統行事に、毒キノコだけを食べる虫、ナナホソリスベリハラグロという芋虫を食す――そういうものがあるんだが。子供から大人になったことを証明するための度胸試しのようなものだな」
「芋虫」
「うん。そいつがとてもおいしかったから、食べつくしてしまって、他の者が食べられなかったことがある。なぜだかめちゃくちゃ称えられて胴上げまでされたが」
はぐれ者というより大食い者なのでは――そんな野暮は言わなかった。
「森にありながら心が街を想うことが多かった。どうしてだか、森の端まで走って街を眺めることがあった。だからそうなる運命だった、そういうことなのかもしれないぞ」
「じゃあ、もう少し関係を欲張っても?」
「……からかうんじゃないぞ。私はおまえより、ずっと年上だぞ。だけど、サヴィでいい。サーマヴィーユさんじゃ長すぎるだろう、オート」
「これ以上縮めようがなくて残念だ、サヴィ」
「オトって呼んでみようか」
先を歩くオートは思わず振り返る。しっかりと彼を見つめるサーマヴィーユ――サヴィが、くすくすと笑っていた。からかった分だけ返ってきたのだとわかる。日中なのに薄暗い池の半ばで、彼女の金髪だけがひたすらに輝いている。
少し離れた場所で、異様に角ばった魚が池に入ってきた蛇を丸のみする。そんな光景を見ながら橋を渡り、やがて二人は少しましな場所に出た。
「流れる水の音だ。シミラビーの流れか」
「流れっていうか、ほとんど淀みだけど。それでもって家はここ。ただいまダミワード」
ドアなどという高尚なものはない。
虫が少しでも入ってこないようにと、布が垂らしてあるだけの入り口だ。オートに続いて、サーマヴィーユがおそるおそる立ち入る。
「早い帰りであるな……森の民を連れておる。騒動に引っかかったと見たり」
「正解だよ。知恵を貸してほしい……ああ、サーマヴィーユ、あなたはここに座ってくれれば。汚い布かもしれないけれど、ウチじゃいちばんマシなやつだし、直接この床に腰かけるよりよっぽどいいと思う」
「言葉と、その誠意を受け取るぞ。ありがたく使わせてもらう」
ヒト種が二人も入ることは想定されていない小屋だ。
足を伸ばすこともできず、サーマヴィーユは膝を抱えて座ることにしたようだった。長いローブのすそから見えた白い肌が、この薄汚れた場所にまったく似つかわしくない。
「聞かせよ。おんしら、なにがあったのか」
いつもの講義の時間のように、ダミワードはオートの目の高さに寝そべる。彼はすべて話した。自分の失敗のことも包み隠さず。
「金か。まったく気に食わぬわっ」
「そうカネって――ごめん。金って言わないやつはここにいないだろ」
生活が困窮しているのだから、家賃のない場所に住むのだ。日中は街に出て乞食をやり、夜になるとここに戻って静かに眠るという生活を続ける者もいる。
「それよりも……ダミワード殿。あなたはかつて、イーラトスクという名ではありませんでしたか。森の賢者、二度にわたる腐れ苦花の乱を治めた調停者。タルモー=スケィルの全域に伝え聞く功を宿した体。そう呼ばれていた鼠のことを、父より聞き及んでいます。それがなぜ、足を失ってこのようなところで」
その言葉を受けて、鼠が小さな目を閉じる。ひげが一度揺れた。
「その名を持っていた者は、すでに森に骨が埋まっておる。与えられたものを捨て、受け継がせるべき子を持たぬこの老鼠は、ただのダミワードであり、そのほかの何者でもなし」
サーマヴィーユの語ったことによれば。
森の知性ある生物は、みな己のルーツ――誰から生まれ、その親は誰の子供であるかを重要視するのだという。そして、隣人もまた己と同じようにルーツを持っていることを理解し、森という共同体の中で相互が作用しあうことが求められる。
それが自然を回し続けることであり、森の民の役割であると。
「ダミワード?」
であれば、ダミワードは名も過去も捨て、森の社会の中での役割も捨ててしまったということになる。地位があったはずの鼠が、どのような遍歴を経てオートの前に這いずってきたのか、彼はそれをむしょうに知りたくなった。それと同じくらい、聞きたくないという心境でもあった。
「おんし、そんなに情けない顔をするでないわ。捨てられた餓鬼のようである」
「だっ誰が。知らない名前が出てきたから驚いたんだ」
「ほぉう。まるで亭主の浮気を知った妻のような顔でおったが」
「……あなた、そんなことばかり言ってるとご飯抜きにするわよ」
「かあっ、もともと良いもの食わせんくせに言いよるわっ」
サーマヴィーユは鼠とヒトのやりとりを見て、頷いた。オートには見えないなにかを見たようだった。
「失礼、どうやら鼠違いのようです。オートも話を進めるぞ。知恵を貸していただきたい、ダミワード殿」
「よろしい。金の話をせねば……サーマヴィーユ。もっとも古き祖の名を」
「フレアヴィーユです」
「しろがね森の血であるか。次はオリネスィーユであるな」
「その通りです」
(どう考えてもあんた森の偉い人だっただろ――)
一瞬でエルフの家系図を呼び起こし、把握するのがダミワードだ。
オートは口を挟まなかった。かわりに一度も立ち入ったことのない大森林で、自らの拾い主が、小さな体で崇拝を集めている図を想像してみた。すんなりと思い浮かんでしまった。
「得物はなんであろうか」
「弓です。ナーリアとケラメイア」
「遡れば星に昇った双子にあやかったか。おんしが頂いた銘は」
「……言わねばなりませんか」
サーマヴィーユの顔が赤くなる。話から放っておかれているオートには、彼女が照れている理由がよくわからない。
「ダミワード。説明してほしいんだけど」
「銘というのは、その者の技法によって名付けられる。街でいうなれば『奴隷王』や『百三十二年生』のような、ふたつ名というものである。森で言えば『長老苔』だの『永遠謳い』というのもあるな」
「そりゃまた……イカすね?」
オートは自分が、おい記憶喪失のと呼ばれるところを想像してみた。なんだそりゃと言いたくなった。いたたまれない。
「じ、自分でそういうのを名乗るのって、恥ずかしいことだと思わないかオート。恥ずかしいんだぞ、いい歳して子供みたいに無邪気になって、あだ名みたいなもので呼び合うのは」
「……あいにく、そんな大層なものをもらったことがないんで」
瑠麗弓、と恥ずかしそうにエルフがつぶやいた。そうすれば耐えられるのか、自分の体をぎゅっと抱きしめて、顔だけでなく、よく目立つ耳まで赤くしていた。
「なれば兄は流麗剣であるな。弓を見せてくれぬか」
外套に隠れていた背中にくくりつけてあったらしい。しゅるりという音がして、二張の弓が差し出された。ナーリアと指されたものが太く、一方のケラメイアは細い。
どちらにも共通しているのが、金属が一切使われていないことと、細工の見事なこと。そして深緑の、星を閉じ込めたような石がいくつも埋め込まれていることだ。
「見事な森瑠璃である」
ダミワードが言った。オートの視線を受けて、急かすな、とでもいうように尻尾を一振りした。
「大森林の古木が、年月をかけてその身で育む精髄のことをいう。この大きさと質であれば、一粒で財産になる。これだけの数があれば家が何件も買えるであろうな。無論、機械人形とやらを買い戻す額としても不足なし」
「そうなのですか」
喜びかけて、オートは自分に待ったをかけた。森瑠璃の持ち主は彼ではなく、きょう出会ったばかりのサーマヴィーユだ。彼女は弓から宝石を外そうとしている。
「待ってくれサーマヴィーユ……サヴィ、自分から言わせてほしい。ドリマンダの願いもあるし、それ以上に、自分がそうしたいんだ。だからその宝石を使わせてほしい。お願いだ」
彼は深く頭を下げる。虫のいい話だということは百も承知だった。それでも、これを逃してはいけないという直感に従った。なりふり構うつもりはなかった。
女の細い人差し指がぴんと立てられる。
「千年も生き、その役割を果たし終えた木が最後の時を迎えたとき、命の精髄としてこの瑠璃が零れ落ちてくるんだ。装飾であるだけではない。この弓たちには、それだけの年月が宿されている。街に流してしまえば、二度と森には戻ってこないだろう」
それでも望むのかと、サーマヴィーユは目で問うてくる。
大森林と森の民とが積み重ねてきた歴史と時間は、ひと月ぶんの記憶しかないオートにはまるで太刀打ちできない重厚さだ。
「私にはこれを自由に手放す権限がない。森から預かっていて、いつかそこに還るはずのものだぞ」
エルフの言葉が苦しい。思わずダミワードの方を向きたくなるのを、意思の力でこらえる。
これはオートの問題なのだ。そして彼自身は、他所で積み重なった千年を超える歴史より、自分に正直に歩みたいと思っているのだ。
鼠が頷いた気配を、彼は確かに感じた。
「それでも頼む。宝石を貸してほしい。自分には質になるものがなにもないけれど、必ず……なにかの形で返すから」
大森林では、街で使われている通貨は必要ない。
だからオートは、いちばんわかりやすい方法を取ることができない。返すあてはまるで思いつかなかった。対価もなしに高額の金を求める。元借金取りとしてはありえないことを、彼はいまやっている。
(これまでは取り立ててきたけど。なんで借りるのか、気持ちがわかった……今をしのがないと先がない)
あまり知りたくないことではあったが。今なら、あの黒くて汚い乳首をした熊にも優しく接することができる気がした。
「そうか。だけどオート、お前はほんとうになにも持っていないのか?」
サーマヴィーユの視線には含みがあった。そして、二人を見下ろすダミワードにも。それでもオートには、なにも思いつかない。持っているのは、小銭と、着ている服くらいのものなのだ。それ以外には何もない。
「そうか。それならそれで、どんな形で返してもらえるのか、楽しみだぞ」
サーマヴィーユが笑う。森瑠璃が弓から一つずつ外される。弓の生気が少しずつ薄まっていくのが門外漢のオートにもわかった。
狭い家の中で、森の宝石が彼の手に落とされる。重たかった。ちっぽけで、吹けば飛ぶような自分の存在とは、まるでけた違いの密度。
それから夜になるまで、彼らはポルインの居場所や交渉の段取りを話し合った。
一度、聖樹通りのドリマンダのところに戻ってみたが。話すことはできなかった。容態が思わしくなく、眠っていると言われたのだ。
時間はかけられない、今夜で終わらせる――オートとサーマヴィーユの意見は一致していた。
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