怪奇妻

未来川 芥

第1話

「疲れた……」

 小さな会社の営業として働き始めて二年。ここに至るまで様々なことがあったがそれに精一杯打ち込んでいるうちに疾風の如く日々は過ぎ去っていき、失敗ばかりで自分のことだけで一杯一杯な自分でも先輩と呼ばれる立場となっていた。

 今日は社会人としての後輩が初めてできた記念すべき日なのだが、それだけに必要以上に緊張してしまい普段以上に疲れる結果となってしまった。

 正直言って自分は営業に向いていない人材だと思う。コミュ障気味であり、そのおかげで業務も滞りがちで下手を打ってばかりだ。営業成績も突き抜けて悪いというわけではないが最下位を僅差で独走中。こんな自分に先輩が務まるのか、人手不足のため後輩を二人も任されてしまったが自分なんかが責任もって教育することができるのだろうか、嫌われないだろうか。こんな不安やプレッシャーばかりが先に立ってしまっている。後輩は可愛いがそれだけに嫌われたくないし立派に育てるにあたって絶対に失敗は許されないと思ってしまう。


「先輩、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします!」

 きらきらとした眩しいばかりの笑顔。

「先輩と同じ部署で嬉しいです。是非とも仲良くしたいです!」

 一年前まで自分も本当に同じ立場だったのだろうか。一緒の空間に存在しているだけで浄化されていくような清々しくて新鮮で純粋な雰囲気。


「はあ……」

 それらを思い出してまた自己嫌悪に陥ってしまい思わず溜息を吐いた。幸せが逃げてしまいそうなのでこんな癖は卒業したいと思っているのだが、無意識に出てしまうようではまだまだ卒業は先になってしまいそうな予感だ……頭が痛い。

 スパイシーな匂いが鼻をくすぐる。

「一体どこから……あ、いつのまにこんなに帰ってきてたんだ?」

 気が付けば家が目と鼻の先にあった。だとすればこの匂いは妻の料理であろう、一気に暗い気分が晴れて目の前が明るくなった。

「今日はカレーか!」

 気が付けば僕は走り出していた。我が家まであと十メートル、五メートル……着いた!

「やっぱりカレーの匂い……! ただいま!」

 美味しそうな匂いに我慢しきれず、キッチンに入ると鍋をかき混ぜていた妻がこっちを振り返って満面の笑みで出迎えてくれる。

「和久さん、おかえりなさい。今温めてたところなの」

 彼女の名前は沙織、学生時代に知り合って五年間の大恋愛の末去年僕からプロポーズして結婚してくれた大事な妻だ。大学時代にミスコンに推薦されるくらいの美人で(人前が嫌いらしく断っていた)学生時代から相当モテたはずだがこんな冴えない自分に何故付き合ってくれてるのかは妻のみぞ知るところだ。

「ほらほら、そんな子供みたいに……ふふふ」

  妻はもう既に席に着きわくわくと待ちきれない様子の僕を微笑ましげに口に手を当てて上品に笑うと自分も配膳を完了させ席に着いた。

「ほら、どうぞ。おかわりもあるからね」

「いただきます!」

 やっぱり妻の作るカレーは世界一だと思う……! 夢中になりすぎたらしく気が付くと目の前のカレー皿は空になっていた。

「おかわり要る?「もちろん!」ふふふ、じゃあ待っててね」

 待ってましたとばかりに皿を出すと少ししておかわりが運ばれてくる。嬉しいことに大盛りだ。

「やった!」

 こうして来たおかわりもがっついているとまたしても空になってしまっていた。まだ食べれる気もするが流石に食べ過ぎになるか……やめとこう。

「ごちそうさま、今日も美味しかったよ」

 きょとんとした顔を向けた後、にっこりと微笑んでくれる妻。幸せだ。

「お粗末様、お風呂湧いてるから早く入ってゆっくり休んでくださいな」

「ありがとう、今日は早めに入って休ませてもらうよ」

 彼女の黙々と洗い物する背中に声をかけて脱衣所へと向かった。


「ふぅ……気持ちいい」

 丁度よく熱い湯に浸かると無意識に声が漏れてしまう。僕、少しおじさんくさいかもな……。頭を洗い、次に身体に着手する。長く一緒にお風呂なんて入ってないかもしれない、そう思うと少し寂しいな。

 彼女の裸体を想像して顔が蒸気ではなく少し熱くなるのを感じる。……のぼせてしまいそうだから今日は早めに上がろう。

 入浴を早めに切り上げて脱衣所に上がると目の前の籠にバスタオルと寝間着がメモと共に整然と置いてあった。

【お疲れ様です。湯冷めしないようにしっかり髪乾かしてくださいね】

「……はいはい、分かってるって」

 妻の徹底した気遣いに風呂上がりだが脱帽してしまう勢いである。僕は妻の用意してくれた着替えを身につけてドライヤーのスイッチを入れた。と同時にドライヤーが手から消えた。後ろを振り返ろうとして目を隠される。

「だーれだ!」

 妻だ。自分で乾かせみたいに言っておいて今はやっぱり甘えたい気分らしい。いつもとは少し違う無邪気な振る舞いに思わず笑みが零れる。子供みたいに小さい背丈で一生懸命背伸びしているのが愛おしく微笑ましい。

「沙織、それじゃ頭が乾かせないよ」

 目を隠してる彼女の手を取り両手合わせてぎゅっと握る。

「それとも沙織が乾かしてくれる?」

 彼女はいつもの静かな笑みとは違って輝かしい笑みを向けてくれる。いつもが静かな光を湛える月だとすれば今の彼女は無邪気で眩しい太陽だ。

「もちろん!」

 脱衣籠のドライヤーを勢いよく引っ掴むと僕を引っ張っていってソファーに座らせた。

「いいからいいからー、和久さんはゆっくり座ってて」

 彼女は近くに置いてある櫛を取って僕の背後に回り込むと優しい手つきで乾かしてくれた。あまりに優しい手つきに少し意識が遠のいた。僕、沙織と一緒になって良かった……。

「沙織、一緒だよ……」

 ドライヤーの風が止まって代わりに暖かい手が頭を優しく……。

「ずーっと一緒ね、和久さん」








 僕があの悲劇を回避できたとすれば、この時の彼女の笑顔の意味がいつもと違うことに気づくことだったのかもしれない。

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