第1話

いつの世も、お酒というものは人を魅了してやまない。高校生のぼくにはお酒の魅力は分からなかったし、酔った人間のことが嫌いだったのでできるだけ顔を背けてきたのだった。ただぼくにわかることは、お酒の缶には美味しそうなフルーツの絵が描いてあって、それを美味しそうに飲む女が、テレビや、雑誌や、中吊り広告なんかに堂々と出てくるということだけだった。まるで、お酒を飲むことが誇らしいことであるかのように振る舞う、乳房が露わになりそうなほど派手な格好をした女たちの写真を覚めた目で見つめていることが多かった。

小さい頃、ほとんど記憶がないような頃であるが、ぼくは親戚のおじさんにお酒を飲みたいといったことがある。子供が少なかったせいで、仲間はずれのような気がしたのだ。そんなぼくに向けておじさんはこういったのだ。というのもこの日の記憶のうち、これだけは鮮明に覚えているのだ。


そんなにいいもんじゃねえよ。



冷蔵庫の薄暗いオレンジ色の光が、ジーンと音を立てて中身を冷やしているのをみると、なんだか喉が乾くような気がする。

冷蔵庫はぼくがドアを開けたせいか音を一層強くして中の温度を元に戻そうとする。ジーン。

なんだかいけないことをしているような気になって、ぼくは冷蔵庫のドアを閉めた。それで良い、といっているかのように冷蔵庫が静かになって、キッチンは換気扇用のくらい光だけの空間になった。

梅雨もあけたというのに、このじっとりとした空気はいまだキッチンに居座ったままで、この空間だけ雨が降っているような空気だった。梅雨があけてもいたずらに温度が上がるだけでいいことがない、と口からため息がこぼれた。

暑い、と思った。じっとりと、というよりはドバドバ溢れる汗を肌着が吸っていく。重くなっていく背中がなんとなく気持ち悪くて、ぼくは体を捩った。


そう、ぼくは飲み物を取りに来たのだった。自室の冷房は25度設定だし、こんな夜中にわざわざ起き上がって暑いところにやってくる義理だってない。ぼくは思い直してまた冷蔵庫を開ける。ジーン。

中身はほとんど空っぽに近かった。母親は最近正社員として仕事を始めたせいで帰りが遅く、夕食はスーパーの惣菜か外食だし、父親に至っては出張が多く家にあまり帰ってこない。弟は冷凍庫に部活用に凍らせたペットボトルを入れているが、冷蔵庫に入れているものは特になかった。

あぁ、麦茶も作ってなかったなぁ……。

ぼくは棚から水出しのティーバッグを引っ掴むと、ピッチャーにぶち込んで、水を乱暴に入れ始めた。ざーっ。シャワーモードで注ぐ水道水の音だけが家に響いて反響していった。真夜中の2時にこの音を聞いて起きてくるほど寝付きの悪い家族はぼく以外いなかった。

ぴーっぴーっ。

開けっ放しの冷蔵庫が早く閉めろとぼくを急かす。待て待て、後もう少しだから、と誰も聞いていないのに勝手に返事をして、8分ほど入ったピッチャーをぼくは冷蔵庫に戻した。

作り始めたばかりの麦茶は当然飲めず、結局冷蔵庫の中に飲めそうなものはパックの牛乳か、母親が買ってきたお酒くらいのものだった。

運動部でもないので、夜中に牛乳を飲むほどぼくもタンパク質が欲しいわけはなく、ぼくは無造作にもう一方をとって、ブルタブを掴んだ。ぷしゅこっ。いい音を立ててそれは開いた。

せっかくだしはじめては彼女なんかと一緒に飲みたかったな、と思ったりもしたが、別に今飲んだって減るもんじゃないし、またいい機会があれば一緒に飲めばいいじゃないか、と思い直してみたりした。

まぁそもそも彼女なんか生まれてこのかたできたこともないわけで、ぼくにそんな特別な関係の人はいなかったなぁ、と自分の思考にふっと息を漏らして笑った。

缶はよく冷えていて、触っているところが暗くてもくっきりわかるほど結露していた。

口をつけてトクトクと缶を傾ける。

唇に触れた炭酸が喉の奥に入っていく。流れる液体は少し想像よりも遅くて、炭酸がパチパチ舌の上で弾けた。静かでじっとりとしたこの時間の間だけ、ぼくは感覚が薄く、時間の流れがゆっくりになっていくような気がした。

お酒をたった少し飲むだけ、炭酸のジュースを飲んでいる時となんら変わりはないはずなのに、なんだか勝手に盛り上がって、空気に酔っていた。

もう一口、もう一口と呼吸もせずにどんどんと液体を流し込んでいく。それはぼくが普段生きている上で外界から流れ込んで来る情報量を遥かに上回るような濃密さを持っていて、ぼくは目を白黒させた。湧き上がるような興奮とともに、アルコールの匂いと、合成されたレモンの匂いが炭酸を伴って鼻を抜けていく。なんだかもったいないような気がして、ぼくは鼻から空気を外に出すのをやめた。

喉に入っていく液体はドロドロと食道を溶かしていくように熱く、それでいて喉を冷たく冷やしていくのだった。一緒にドロドロとした身体の中身とか、思考とかがだんだんとお腹の底に溜まっていくような感覚がやってきて、ぼくはついに耐えられなくなって缶をシンクの脇に置いた。

ぷはぁ、と大きく肩を上下させて深呼吸すると、ゆらゆらと地面が揺れて、ぼくは冷蔵庫にもたれかかった。どれだけの時間が経ったのかもよくわからなかったし、どれだけのお酒が缶に残っているのかもよくわからなかった。

ゆらゆら揺れる視界の中で、ぼくは今ならばなんでもできるような気がした。オーバーヘットキックだって一発で決められる気がしたし、入学式の在校生挨拶だってかっこよくこなせるかもしれない。定期試験の難問だって瞬殺できるだろうし、好きな子への告白だってなんだって簡単に成功させることができる気がした。

そんな思考をまた俯瞰して、目標が低いなぁと自嘲しながら空気の中に溺れていく。これをお酒に溺れているというのだろうか、と思った。なんだかセンスがないなぁ、これを的確に表現するなら、そうだな、自分の思考に溺れているというか、自分の中に戻っていく感じというか、なんかそんな感じじゃないだろうか。不思議と不快感は少なく、幸せな溺れ方だった。

そうだなぁ、死ぬならこんな風に死にたいかもしれないな。と柄にもなく思った。

キッチンの漏れた薄明かりがリビングの青くぼやけている影を生み、なんとも無機質な空間を演出していた。その影は大きくなっては小さくなって、また大きくなるような不定形で、なんだかぼくを誘っているような気がした。ぼくは缶の中身をシンクに全部捨てて、リビングへと誘われていった。


その後に何を感じ、何を思ったか、そして何をしたかはよく覚えていないしわからない。気づいたらソファーで寝ていた、ということだけが、ぼくのわかる全てのことだった。

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平成最後の夏だと皆は言うけれど 一色彩乃 @hotcake-mix

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