第2話キザシ

「そろそろ起きなよー」

 誰かに体を揺らされる。目を開けるとツリ目の女の子が覗き込んでいた。

「……?」

 頭がぼんやりしていて状況を把握できない。

「起きろー」

 無理矢理、寝袋から引きずり出された。そこでようやく自分がテントで寝ていたことを思い出した。

「……パス」

 何となく少女の名前を口にする。

「え?何?」

「いや、再確認」

「もー、いつまでも寝ぼけてないで。起きた起きた」

 パスに促されテントから出る。白と黒の世界を再び目にして、未だ自分がこのおかしな世界にいることを認識させられた。そういえばパスは昨日、寝たのだろうか。ぼんやりとそんなことが頭をよぎった。

「ほら、昨日の水道で顔を洗っといで」

「……うん」

 ダメだ、頭がまだ寝ぼけてる。

「朝に弱すぎでしょ……」

 ブツクサ言うパスを背に、水道までフラフラと歩いていく。蛇口をひねるが水が出てこない。

「……あれ?」

 よくよく見ると水道は昨日と違い、色を失っていた。

「ああ、ゴメンゴメン。戻っちゃってたね」

 タオルを持ってきてくれたパスが水道に触れると、再び色を取り戻し水が出てきた。冷たい水で顔を洗うと意識がはっきりとしてくる。パスが渡してくれたタオルで顔を拭くとようやく人心地付いた。

「あ、そうだ。これも渡しておくよ」

 パスから差し出されたのは日記帳だった。

「毎日じゃなくていいから、記録つけとくといいよ。その日にあったこととか、思い出したこととかさ。後で読み返すと中々に楽しいよ」

「日記を付けるなんて小学生以来だなぁ」

 受け取った日記のページをパラパラとめくる。当然、全て白紙だ。ご丁寧に真ん中に鉛筆と消しゴムが付いていた。

「小学生?」

「ん?……何だろう、夏休み初日に日記を全部書こうとして、誰かに怒られた覚えが……。ダメだ、はっきり思い出せない」

 頭に痛みが走り、思わず手で押さえる。

「記憶が戻ってきてるんだ」

「パスの言う通りだったね」

「何が?」

「記憶は徐々に戻るって昨日言っただろ?」

「そうだね……うん」

 何故か、微妙な表情を浮かべるパスだった。

 噴水の前を見ると、途中まで縫い付けられた布が昨日と変わらず残っていた。パスが出してくれたパンと牛乳で朝食を済ませると、さっそく続きに取り掛かる。

 途中、休憩を挟みながらも、お昼前には縫い付けを完了させることが出来た。継ぎ当てられた布はみるみるうちに消えて、元の地面が現れる。もちろん、穴など残っていない。

「不思議なもんだね。これで治ったことになるんでしょ?」

「そう。前よりも丈夫にね。もう蟲に齧られることもないよ」

「ふーん。よく判んないけど」

「その内、判るよ」

 そんなやり取りをしながら、彼女の運転する車で次の穴へと向かった。


 それから二週間。

 見知らぬ白黒の街をあっちこっちへと行き、蟲がいればパスが処理し、穴が開いていれば僕が塞いだ。大きな商店街にも行ったし、古いお城にも行った。他にもどこかの大学、古い図書館、果てには地下鉄の駅などあちこちを回った。その間、テントで寝ることもあったし、近くのビジネスホテルに泊まることもあった。パスが一時的に時を動かして機能を取り戻してくれたので、設備は普通に使うことができた。久しぶりの熱いシャワーとフカフカのベットの快適さに、当然のごとく次の朝は寝坊する。その度に、起こしに来たパスに無理やりベッドから引きずり出された。

 ちなみに、食べるものは相変わらずレトルト系ばかりだった。一度、二人で自炊に挑戦しようとしたけれど、大変な失敗して以来、大人しくレトルト食品を食べることになった。

 今日やって来たのは高層ビルと駅が一体化している複合施設だ。箱型のビルの両端に円筒のビルがそれぞれ建っている。

「次でこの辺は最後だよ」

「長かったなぁ……」

「ここ終わったら、少し休もうか。高そうなホテルもあるし」

 休みなしで作業を続けてきたので、体だけでなく精神的な疲労も溜まっていた。まぁ、これで休めると思えば頑張れそうだ。

 だが、簡単には終わりそうになかった。

 駅前正面の広いタクシー乗り場に蟲がいた。数は一体だが……大きさが尋常では無かった。大型の重機、いや、戦車ぐらいはありそうだ。

 体の形もいつもの人が四つん這いになった姿ではなく、まるで手足は蜘蛛のような尖った爪形をしている。そのくせ頭は人の形で目も鼻も無く、異様に大きな口が歯を剥き出しにして笑っていた。非常に気持ち悪い。

「戦車ぐらいあるんじゃないか、あれ……」

「いつもライフルじゃ無理だねぇ」

 僕らは横転したタクシーの傍に身を隠して様子を伺っていた。距離にして三〇〇mほど。パスはダッフルバッグを降ろすと、中から何か長いものを取り出した。一mほどの円柱形で側面にゴテゴテと機械が取り付けられている。

「バズーカ」

「全然、違う。バズーカってのは対戦車ロケットのことで、そもそもバズーカってのはトロンボーンみたいな楽器に似てたところから来てるんだけど……」

「解説はいいから」

「男の子なら兵器とか好きでしょうに……これは対戦車ミサイル。おっとと」

 パスは取り出した対戦車ミサイルを重そうに持ち上げる。僕にはミサイルとロケットの違いが判らなかった。

「それ重いの?」

「二〇kg以上あるねぇ」

 そんなものを一人で担ぐのか……。

「ちょっと離れて。とくに真後ろには絶対立っちゃダメだよ?」

 パスは立て膝で馬鹿でかいスコープを覗き込む。僕は彼女に言われたとおり、距離を取った。

「くらえ、$40,000-アタック」

 なんだそのネーミング。砲身の後部から凄まじい爆炎を噴出し、ミサイルが飛び出た。ミサイルは空中で翼を展開し、後部から火を噴き出す。そのまま巨大な蟲に向かっていくかと思いきや真上にカッ飛んでいった。

「外れた!?」

 ミサイルは空中で反転すると急降下し、蟲の背中辺りに直撃した。轟音とともに大爆発を引き起こし、蟲の体は炎に引き裂かれ周囲に飛散した。

「トップアタックモードって言ってね、戦車とか分厚い正面装甲を避けて、上部装甲の薄い場所を狙い撃ったんだよ。相手が蟲じゃ、装甲とか関係ないだろうけど、避けられても面倒だしね」

 対戦車ミサイルをバッグに片付けながら教えてくれた。しかし、銃火器の扱いに詳しい系女子って……。この世界じゃ頼もしいけれども。

「ほら、後は君の出番だよ」

「了解」

 クモ型の蟲が居たところに行くと、穴はあったが思っていた以上に小さかった。せいぜい、人型の蟲一体が出てくるのがやっとだろう。

「うん?この穴からさっきの蟲が出てくるには無理がないか?」

 代わりにいくつもの穴が開いていた。

「蟲は基本的に何でも食べる。そして食べた分だけ肥大化する。おそらくこの辺りの空間では無く、他の蟲を食べたんじゃないかな」

「共食い……」

「連中に仲間なんて意識があるか知らないけど、まぁ、そういう事だろうね」

 パスの淡々とした説明に思わず顔を顰める。

「そもそもこの蟲ってなんなの?」

「世界を貪ることしか頭にない連中だよ。意思も思考もない。ただ貪ることしかできない。壊れたロボットみたいにね」

 表情こそ見えなかったが、声にドス黒いものが混じっていたのを感じ取った。何か恨み……のようなものでもあるのだろうか。聞くのが怖くて口には出せなかった。

 いつものようにポーチから布を何枚か取り出して穴を塞いで回る。後は一つずつ縫い合わせるだけだ。穴自体は小さいけれど、数が多いので手縫いでは時間が掛かってしょうがない。けれども、僕は一つずつ着実に縫い合わせていく方法しか知らない。腹をくくると多少は気が楽になった。

 集中して作業に取り組んだおかげか、全てをその日のうちに終わらせることが出来た。

「やっと終わった……」

「はいはい、お疲れちゃん。ご褒美の飴ちゃんあげるね」

「大阪のおばちゃんか」

 パスがねぎらいの言葉とともに渡してくれた飴を口に入れる。レモン味だ。甘酸っぱい味が口に広がる。

「これで終わりなんだっけ?」

「うん。最後に仕上げが必要だけどね」

「まだ何かやんなきゃいけないのかい」

「仕上げは私の仕事だよ」

 彼女は背負っていたダッフルバッグから袋に包まれた細長いものを取り出す。袋を片手に僕の目の前に立った。

「それじゃあ、君が今日まで頑張った成果を見てみようか」

 そう言うとパスは細長い袋で地面をコツンと突いた。

 次の瞬間、突いた部分に色彩が戻った。そして、一拍おいて、色彩が周囲に広がっていく。色を取り戻していく街並み。穴だらけの建物の外壁には傷一つなく、爆撃があったかのような穴ボコだらけの道路も元の真っ平らに、ボロボロで放置された車もなく、人だけがいない、元の世界。色彩はどこまでも広がり続けていくかに思えた。

「これでよし、と」

 目の前の光景に圧倒され、僕は言葉が出なかった。

 モノクロから色彩を取り戻した世界をとても美しく感じた。本当だったら、見慣れた光景のはずなのに。

「ツギ君がこの世界を治したんだよ」

「そんな僕はただ……」

 謙遜しようにも言葉に詰まる。この景色が自分の成果と言われてもピンと来ない。けれど達成感はあった。

「僕が……世界を……」

「あ、いや、この周辺だけね。まだまだ治す箇所はいくらでもあるよ」

「お、おぅ……」

 感慨にひたっていたのに台無しである。

「それに元通りではあるけど、時はまだ動かしていないからね」

「なんで?」

「時を動かすのは世界の全てが治ってから。まぁ、でも、ホントに……頑張ったね」

 パスに頭を撫でられる。子供扱いされているようで気恥ずかしいが悪い気はしなかった。

 僕は彼女と共に、しばらく彩られた世界に見とれていた。


 ふと、視界の端に黒い人影を捉えた。人影は駅の中を四足歩行でノシノシと歩いてくる。また蟲か?と身構えるも、それはゴリラだった。全く想像できない展開に言葉に詰まってしまった。

「どうも、はじめまして」

 ダンディな声でゴリラが喋った。この世界に慣れてきたと思っていたが、まだまだ甘かったようだ。

「こんちわ」

 パスが平然と挨拶をする。敵対する存在ではないということか。

「こ、こんにちわ」

 僕もあとに続いておずおずと挨拶をした。

「あなた方がこのエリアを修復してくださった、管理者ですね」

「あの……」

「おっと、失礼。自分はこのエリアを担当しているゴリラ・ゴリラ・ゴリラです」

「なんで三回繰り返したんだ……」

「ニシローランドゴリラの学名だよ」

「そう……」

 新たな動物豆知識を一つ身につけた。披露する機会があるか知らないが。

「この……ゴリラ×3《ゴリラサン》も管理者なのかい?」

「凄い略し方したね……。管理者ではあるけど、現場担当者みたいな感じかな。このエリアの保守管理を一手に引き受けてる。君がこの辺りを正常にしたから、ゴリラ×3も出てくることができるようになったんだ」

「はい、後は自分にお任せ下さい」

 ダンディなゴリラ×3は自信たっぷりに逞しい大胸筋を張る。

「各エリアごとにゴリラ×3みたいな担当者がいたんだけどね?まー、世界がこんな状態だからさ、みんな休眠状態なわけよ。でも、エリアの修復が完了すれば、あとは担当の子が保守管理してくれるよ」

「へー、そうなんだ」

 集中して作業をしていたせいか、パスの説明も何となくしか頭に入ってこなかった。と、ひと仕事を終えて、安心したせいかお腹が鳴る。

「今、結構、重要な説明してたよ?……まぁ、いいか。お昼も食べずにやってたしね」

「それなら駅の地下街が食品売り場になっていますので、そこで食料を調達してはいかがでしょうか。すぐに召し上がれるお惣菜やお弁当、さらにはスィーツなど美味しいものがたくさんありますよ」

 ゴリラ×3がアドバイスしてくれた。

「勝手に食べてもいいんですか……」

「後で私が元に戻しておきますので、ご自由にどうぞ。あと、お休みになるのであれば駅ビルにホテルが入っていますので、そちらをお使いください」

 なんてよく出来たゴリラなんだ。人格者過ぎて、後光が射して見える。それも普段、一緒にいる人との差だろうか。いや、パスがどうこうという訳じゃないけれど。ちらりとパスに視線を向ける。

「じゃあ、どういう訳よ」

「心を読まないで……」

 パスの冷たい視線に耐えられなく、すぐさま目を逸らした。


 それから、僕らは二日ほど駅ビルの入っている高級なホテルで体を休めた。惰眠を貪っただけでなく、駅地下の食品売り場から調達したお高そうな食べ物でちょっとした打ち上げみたいなことをしたり、駅ビル内にあるデカイ本屋で本を読み漁ったり、大型雑貨店の面白グッズで遊び倒したり、思うままに過ごした。

「じゃあ、そろそろ行こうか」

「えー、もう一日ぐらい休もうよ」

「ダラけ過ぎ!ほら、行くよ!」

 首根っこを掴まれ、パスに引きずられホテルを後した。スィートルームの快適さは舌筆し難いほどで、人をダメにするには十二分な威力を発揮した。

「今日からまたテントかー」

「テントいいじゃん、私はテントも好きだよ!」

「パスはあんまり寝ないからいいかもしれないけどさー」

 なんて会話をしていると、ゴリラ×3が見送りに来てくれた。

「まだまだ大変でしょうが、頑張って下さい」

「ありがとうございます」

 ゴリラ×3が手を差し出す。僕もそれに応え、手を握った。ゴリラ×3の大きな手はゴツゴツとしていて、暖かかった。短い付き合いとは言え、言葉を交わせる相手と別れるのはやはり寂しく感じる。

 僕らは車に乗り込むと、ゴリラ×3が手を振ってくれる。

「あなた方の今後の活躍をお祈りしていますよ」

 僕も窓から身を乗り出して手を振り返した。誰かに見送られるというがこんなに嬉しいものだと思わなかった。それが例えゴリラだったとしても。 

 ゴリラ×3は僕らが見えなくなるまで手を振ってくれた。

「いやぁ、いい人だったねぇ」

「そうだね。ところで君、よくゴリラ×3と握手したね」

「なんで?」

「ゴリラの握力は最低でも五〇〇kg以上、下手したら一tぐらいあるんじゃないか、って言われてるんだよ」

「ご、ゴリラ×3は力加減を間違えるような人じゃないし……」

 少しだけ背筋が寒くなった。ゴリラ×3がその気になれば自分の手が悲惨なことになってたかもしれないのか……。


 夢を見た。壊されていく世界の夢だ。

 思い通りに体を動かせないのは夢の中だから、と言うよりも脚を怪我しているからのようだ。痛みはない。その代わり左足の感覚が無かった。

 視線を下げると左膝より下がなくなっていた。血は流れていないし、骨も血管も飛び出していない。

 辺りを見回すとあちこちで蟲が暴れて、逃げ惑う人々を襲っていた。襲われた人は生きたまま蟲に食われている。人々は泣き叫び、もがき苦しむも蟲は一切の容赦なく体に食らいつく。体の3/2以上失っても意識がある人もいた。

 何とかしなければ。体を起こしポーチに手を突っ込むと、今まさに人を襲おうとしていた蟲へミシン糸を投げつける。伸びた糸は自動的に蟲に巻き付き、きつく縛り上げた。縛られた蟲が引き千切ろうともがくが、糸が切れそうな気配は無い。

 次々にミシン糸を投げつけ、蟲を縛り上げていくが、数が多すぎて処理が間に合わない。襲われる人々は増える一方だ。腕と残された右足を使ってどうにか立ち上がる。片足なので不安定なことこの上ない。

 どうにか付近にいる蟲を全て捕縛したが、残されたのは食いちぎられた人の残骸のみだった。

「そんな……」

 途方もない無力感に、再び座り込んでしまう。必ず助けると約束していたのに。

 茫然自失となりかけていると、背後で物音がした。振り返るといつの間にか一体の蟲がいた。それは。

 言葉を発する前に蟲が飛びかかってくる。糸を飛ばそうとポーチに右手を伸ばすも鋭い爪が肩に突き刺さる。左腕も尋常ではない力で押さえつけられる。

 目前に蟲の歯が迫る。

 そこで意識が途切れた。


 目を覚ますと、停車している車の中だった。気が付けば酷く汗ばんでいた。口の中が乾いて気持ち悪い。あの夢は僕の記憶、なのか。

 運転席に目をやるがパスはいない。彼女を探すべく車を降りると、すぐそばのバス停のベンチで寝転がって本を読んでいた。

「起きた?……何だかすごく顔色悪いみたいだけど大丈夫?」

「……ああ、平気。問題ないよ。ただ」

「ただ?」

「夢を見た」

「夢見でも悪かった?」

「昔の記憶かもしれない」

 本に向けたままのパスの目が細くなる。

「話して」

「壊れていく世界で大量の蟲に人が襲われてた」

「ふむ、続けて」

「助けようとしたんだけど、間に合わなくて。で、今度は自分が蟲に食われた」

「………それから?」

「それだけ」

「ホントに?他にも何か……いや、今はいいか。つまり自分の最後を見ちゃたわけね……」

 神妙な表情のパスは本を閉じた。体を起こすとこちらに鋭い視線を向ける。少し思案するかのような沈黙。そして小さく息を吐き出した。

「それは君の記憶で合ってるよ。あの騒乱はそんな感じだったし。他の記憶も徐々に思い出してくでしょ。ああ、もし記憶を思い出したら逐一私に報告すること」

「いいけど。なんで?」

「報告相談連絡は義務です」

「社会人みたいだな」

 そんな僕の軽口にパスは反応せず、何かを考え込んでいるようだった。

「あのさ……」

「何?」

 隠しごとしてないか?そんなことを気軽に聞けるはずもなく、僕は話題を切り替えた。

「車の運転を、教えてくれないかな?ずっとパスに任せっきりってのも悪いしさ」

 彼女の口元にわずかに笑みが浮かぶ。

「……しょーがないなー。その代わり私の教え方はスパルタだゼ?」

 男前な口調で言うパスに一抹の不安を感じた。


「この車はセミオートマだから、エンストなんてことは無いけど、シフト操作だけはしっかりね」

 運転席に座りハンドル握る。助手席には教官のパスが座っている。

「教官、セミオートマって何ですか」

「いい質問ですね、ツギ君。まず車にはマニュアルとオートマチックがあります。マニュアルはアクセルとブレーキに加え、シフトとクラッチの操作する必要があります。大雑把に言うとエンジンの回転をタイヤに適切に伝えるための操作ですね。オートマはそれらを全て自動でやってくれます」

「うん」

「セミオートマであるこの車はクラッチ操作は自動でやってくれ、シフト操作だけを自分で操作出来るのです。ただ、スムーズなシフトチェンジを行わないと車ががっくんがっくんしてしまいますが」

「なぜそんな面倒な車を選んだのか……」

「で、デザイン性を重視した結果です」

「つまり見た目で選んだだな」

「燃費もいいし、シフト操作に慣れればオートマ車よりスムーズに走らせられるんですー。いいから、走らせてごらん。人も車も走ってないから事故る心配もないし。ただしぶつけたら怒るからね」

「安心させたいのか不安にさせたいのかどっちなんだよ」

 そう言いながら僕は車をゆっくり発進させた。都市部の端っこ辺りまで来ていたおかげで、道路に放置された車も少ない。アクセルを少しずつ踏み込み、シフトを上げていく。車がガタガタと揺れる。

「シフトチェンジをスムーズに出来ないとそうなるよ」

「う、うん」

 それからしばらくシフト操作に四苦八苦しながらも徐々に運転に慣れ始めた。まっすぐ走らせるだけなら大丈夫そうだ。

 しばらく走らせると、世界の色が途切れている箇所までやってきた。向こう側には白と黒のモノクロの世界が広がっている。修復が完了したエリアはここまでということか。

「これでしばらく綺麗な景色は見納めだから、よく見ておくといいよ」

「今、そんな余裕ないから」

 ハンドルとアクセル、そしてシフト操作に必死で周りの状況を見る暇なんてない。

「そんな目の前ばっか見てたら危ないよ。車の数m先、自分が進みたい方を見なきゃ」

 と言われても。実は車を自由に運転できる人は凄いのでは、と思い始めた。居眠り運転なんてどれだけ余裕を持てば出来るのか。

「あ、車が停まってるよ、減速して…………ブレーキブレーキ!」

 パスに言われて放置自動車に気付くのが遅れた。急ブレーキを掛けてしまい、二人共車内でつんのめった。

「ふぅ……。ごめん」

「いいよ、いいよ。そんなすぐに出来るもんでもないし。少しずつ慣れていこう。ちょっと休憩しようか」

 車から降り、運転の緊張で凝り固まった体を伸ばす。

「何か飲む?」

「缶コーヒーとかある?甘いやつ」

「はいよ」

 パスが後部座席に積んでいたダッフルバッグから取り出した缶コーヒーをこちらに投げてよこす。プルトップを開けて口を付ける。甘さの後にほのかな苦味が香った。

「いやぁ、車の運転って難しいね」

「慣れれば誰でも出来るよ。じゃなきゃ、こんなにたくさんの人が車に乗って無いし。でも、どうしたの?急に車の運転がしたいだなんて」

「んー、何だろう。自分でもよく判らないんだけどさ。少しでも世界を治すために何かしなくちゃ、て気持ちがあってさ。それまでも、無くはなかったんだけど。あの夢を見てからより一層強くなったというか」

「記憶が戻ってきてる影響かもね。いい傾向だよ」

 パスが普段とは違う、優しい笑みを浮かべる。

「あ、あと何か思い出した?」

「いや、そんなにスグは思い出さないし……っていうか、そんな余裕無かったし」

「そりゃそうか」

 パスは少し残念そうにしながら、持っていたペットボトルの蓋を開けた。プシュッ、と炭酸の音がモノクロの世界に響いた。


 それからは再びパスと運転を交代した。自分が運転の仕方を多少、覚えたからだろう。パスの運転が如何に上手だったかが判る。シフトチェンジだけなく加速減速もスムーズだ。僕も早く運転出来るようにならなければ。彼女に頼りっぱなしというのも申し訳ないし。

 今日の目的地点に着いたのは午後三時を回っていた。途中でお昼休憩も挟んだので、少し遅れてしまった。もっとも太陽は登ったり沈んだりしないので、真っ白な風景は相変わらずだけれども。

 この辺はベッドタウンなのか住宅だらけだ。

「今回はあそこだね」

 パスが指差す先にはボロボロの二階建てアパートがあった。かなり距離を取っているのでぼんやりとしか見えない。

「はいこれ」

 パスがバッグから出した双眼鏡を貸してくれた。

「おぉう、結構数がいるなぁ」

 黒い蟲が数体這い回っている。建物に出たり入ったりしている様はまるでゴ……いや、やめておこう。

「遠距離狙撃だと時間が掛かっちゃうかな……」

 ダッフルバッグを降ろしたパスが立ち上がる。

「ぼ、僕も手伝うよ。銃の使い方を教えてくれないか」

 自分でも思ってもみなかった言葉が飛び出した。夢のせいか、世界を治さなければならないという、使命感、いや焦燥感と言ったほうがいいか。

 パスが困ったような顔をする。

「気持ちは嬉しいけど、さすがに素人のツギ君には頼めないよ。それに……これが私の役割だから」

「でも、いつまでも見てるだけじゃ……」

「今日は随分と積極的だね。記憶が戻ったおかげかな?……でもね、私達、管理者にはそれぞれ役割が決まってるんだよ。私は駆除する役。君は治す役。OK?」

「…………けど」

「これ以上の議論はナシ。それに駆除も修復も君一人で出来るようになっちゃったら、私が必要なくなっちゃうでしょ?」

「そうだね。ごめん」

 僕は彼女に諭され、素直に引き下がった。

「判ればよろしい。じゃあ、ちょっと行ってくるね」

 彼女はポンチョを脱ぎ捨てる。スラリとした手足がむき出しになる。白のタンクトップと緑のホットパンツに黒いニーソックス、ゴツいブーツという出で立ちで颯爽と歩き出す。

「バッグ忘れてるよ!」

 彼女はそのまま手ぶらで行こうとするので慌てて引き止める。

「無くても大丈夫だから、まぁ見ててよ」

 まるで散歩でもするかのように彼女は蟲達の巣となっているアパートに近づく。 いつの間にかパスの手には銃器?が握られていた。いつ取り出したのだろう。馬鹿デカい回転弾倉のついた銃だ。彼女は銃口を少し上に向けて引き金を引いた。スポン、と間の抜けた音とともに子供の握りこぶしぐらいありそうな銃弾がアパートに立て続けに撃ち込まれる。そして起こる爆発。

 次々と起こる爆発に蟲達が吹き飛ばされる。外にいた蟲達がようやくパスに気づき、四つん這いで近寄ってくる。相変わらず気持ち悪い。

 すでにパスの手には別の銃が握られていた。

 いつもの木製ストックのライフルではなく、これもまた丸い弾倉のついたライフルだ。引き金を引くといつもの腹に響くような低い発砲音ではなく、軽い発砲音が連続して続く。あとでパスに聞いたところ、ライフルではなくショットガンだったそうだ。

 散弾の連射に蟲達はパスに近づくことさえできず、穴だらけになる。弾切れになると、またしても違う銃へと変わっていた。しかも両手に携えている。一瞬も目を離していないのに、いつの間に持ち替えたのだろう。それに弾切れになった銃も見当たらない。

 両手それぞれに構えた拳銃のグリップから妙に長い弾倉が伸びていた。二つの拳銃が火を吹くと凄まじい勢いで弾丸が放たれた。無造作にばら蒔かれた弾丸が、蟲達を貫くと連中はひっくり返った。しばらく手足をバタつかせて苦しんでいたが、やがて動きを停める。

 わずか数分で蟲達の死骸が辺に転がっていた。

 いつ見ても鮮やかな手並みだ。怖いほどに。

 パスがこちらに手を振る。僕はダッフルバッグを担ぐと彼女のいるところへ走った。普段、彼女が背負っていたバッグは思っていた以上の重量があり、肩紐が食い込んだ。


 あれだけの爆発があったにも関わらず、アパートは元の姿とそれほど変わらない。煤でひどく汚れてしまったが。

 蟲達が這い出てきた穴はアパートの駐車場にあった。4~5mの大きさがある。これは治すのに時間がかかりそうだ。

「ご苦労さん」

 パスにダッフルバッグを渡す。

「ありがとう。……ん?一雨来そうだね」

 パスが空を見上げる。

「雲ひとつないけど。というか、世界が停まってるのに雨なんて降るの?」

「上の方は不安定だからね。ごくまれに雪も降るよ。大抵はすぐに止んじゃうけど。まぁ、治すのは雨が止んでからにしよう」

 彼女の言葉通り、雲のない空から水滴が落ちてきた。

「先に穴だけでも塞いでおくよ」

 僕は慌てて穴に駆け寄ると、ポーチから布を取り出す。

「待って!」

「えっ」

 パスの静止に立ち止まる。そこでアパートの陰から蟲が出てきていたことに初めて気付いた。隠れていたのか単に生き残っていたのか。少なくとも蟲の無貌の顔がこちらを向いていることは確かだ。

 開いた口が三日月のように歪む。後ずさりして距離を取ろうとするが蟲もそれに合わせ、ゆっくりと近寄ってくる。

 パスが拳銃を抜いて蟲に狙いを付ける。蟲に引き金を引く直前、穴から別の蟲が

飛び出してきた。口を大きく開けて僕に飛びかかってくる。パスは手早く狙いを変えて引き金を引いた。三発中二発が頭に命中し、蟲は再び穴へと沈んでいった。

 もう一体の蟲はパスの照準が外れることを狙っていたのか、タイミングをずらして飛びかかってくる。パスが慌てて銃口を向け直すが位置が悪く、僕は蟲の前に立ってしまっていた。彼女が慌てて移動するも、もう間に合わない。

 無意識のうちにポーチに手が伸びた。

 蟲の歯が届く直前、横っ面に拳が叩き込まれ、まるでボールのように蟲はすっ飛んで行った。地面に激突すると二~三m滑り、そのまま動かなくなった。

 助けてくれたのは紺の道着を着た屈強な男だった。金髪を短く刈り込んでいる。蒼い瞳をした男は真っ直ぐにこちらを見据えていた。

 相変わらず、この世界は予測のつかないことばかりが起きる。

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