5話


 そして翌日――、五日目だ。

 プロメは屋敷の玄関ホールでデルタを待つ。

 ぼんやりと天井を見上げる。先日掃除をしたばかりなのに、また照明に蜘蛛の巣がかかっている。屋敷の背後に広がる雑木林をどうにかしないと、虫の侵入を防げないことはわかっていた。虫の侵入がなければ蜘蛛が巣を張ることもないだろう。だからといって伐採を自分一人で行うのは無謀すぎる。

 チャーリーはなんだかんだ言って条件をあげて、それでも手伝ってくれるだろう。

 だけど――デルタはどう答えるのか、プロメにはうまく想像できなかった。

 確かにチャーリーの言うとおり、プロメはデルタのことをなにも知らないのだ。デルタの趣味嗜好のみならず、その思考体系も。

 猫は好きだろうか、この土地にはもう慣れたのか、いままでどんなところに住んでいたのか、戦争は怖かったか、伐採のために無頭四足馬ウォードッグをレンタルするのはどう思うだろう――デルタに訊ねたいことが浮かんでは消えていく。

 初めての感覚だった。ふと階段の上を見上げた。

 デルタが陽光を背に、立っていた。

「おはようございます」

 プロメが言った。

「おはよう」

 自然と、デルタのデジタル音声が朝というには遅すぎる挨拶を告げた。

 うれしくなって階段を一段だけのぼり、プロメは声をかける。

「もうよろしいので?」

「あと、五分くれ」

「わかりました」

 デルタは戸惑っている。そのことがプロメにはわかった。あまりにふつうに、まるで昨日までそうであったように会話が成立したから、してしまったからだろう――プロメも驚いていた。一方で、とてもうれしかった。一気に今日のピクニックが楽しみになった。

「待たせたな」

 きっちり五分後、目の前にデルタが立っていた。

「いえ、まったく」

「それで、どこに?」

 デルタが扉を押し開け、訊いてくる。ミラーシェードが外から差し込む光を反射して輝く。

「近所のかたに教えてもらったのですが、森を抜けた先に湖があるそうです。そこを目指したいな、と。いかがでしょう」

 そうだったな、とデルタが先を歩く。その背中には黒塗りの鞘に収まった、直刀があった。

(用意ってもしかして刀のこと?)

 素振りに出かけるわけではなくピクニックなんだけれど、とプロメは苦笑いする。

 ふと季節の変化に気がつく。

 夏の始まりを強く意識する、抜けるような青空だった。

 プロメは視界のはしで黒い存在を感知する。さっと近寄ってバスケットのなかに押し入れる。なにごともなかったようにデルタのあとを追いかける。

 驟雨のような音がする。でもそれは生い茂った木々の葉擦れだ。人の手が入っていない森は鬱蒼として、強い日差しもやわらいでいる。

 既視感――なくしてしまった記憶メモリィの底から旋律メロディがあふれてくる。自然と音が、言葉がつながってそれは歌となる。静かに口ずさむも、歩調はだんだんと軽くなる。

 デルタを追い抜く、その瞬間、手を取って駆け出す。抵抗もなくデルタはついて来てくれる。体重差があるので引っ張ることなどできはしない。だからデルタが一緒に駆け出してくれないと、成立しない。一度、路面のわだちに足をとられる。でも、デルタがバランスを取って支えてくれる。

 デルタの視線を感じる。それが妙に心地いい。歌の転調に合わせて、プロメは伸びやかにヴォリュームを上げる。

 気がつくと森を抜けている。

「わあ」

 夏晴れの空を写し取ったような湖面が、視界いっぱいに広がっている。遠くには峰に雪を残した急峻な山脈が見える。

「こんなに近くにあったんですね」

「その歌」

「え? あ、いえ――」

 思わず顔が赤くなる。ぱっと手を離してしまう。歌の勢いに乗って手までつないでしまった。急に恥ずかしくなってうつむいて黙るのもおかしいなと思って慌てて言葉を続ける。

「改めて指摘されると、恥ずかしいですね! あんまりうまく歌えてませんし」

 すみません、と小さく謝る。

「どこで知った?」

「どこでもなにも。そんな珍しい曲じゃないですよ。数年前の流行歌です」

 ほら、とデルタの眼前に投影現実オーバーレイを展開して曲のデータを開示する。

「そうか……この曲がそうなのか……」

 デルタが愛おしそうに投影現実オーバーレイに手を伸ばす。

 びっくりして思わず引っ込めてしまう。

 デルタは残念そうに手をおろす。

 プロメは自然と訊いている。

「なにか思い出がおありなんですか?」

「昔……、娘が歌っていた」

 プロメは知っていた。デルタに妻と娘がいることを。検索エージェントがグローバルネット内を渉猟してきた情報に記載されていた。

 デルタは、言ってしまえば有名人ミスターフェイマスだった。検索エージェントに課した、深度の浅い検索結果にすら膨大な数の情報が存在し、広範に渡るその内容は雑多を極めた。ただプロメが知りたかったのは〝救国の英雄ミスターフェイマス〟としてのデルタではなく、彼自身のもっとプライベートなことだった。言うなれば彼が心を閉ざしている、その理由が知りたかった。提示された多くの情報から、さらに有意な情報を引き出すため、プロメは新たに検索エージェントに条件を課した。

「娘さんとはお会いにならないのですか?」

「妻と娘はもういない」

 プロメは知っていた。だからこそ、こんなときにどんな顔をすればいいのか、わからなかった。

 新たに検索エージェントが調べた情報に、妻と娘を戦争で亡くしていることは記されていた。プロメはデルタのライフヒストリーを追いかけた。それでも、グローバルネット上に存在する情報は、愛国心に満ちた表現で誇張された〝救国の英雄〟としての、デルタの日常だった。プロメがほんとうに知りたいこととはかけ離れていた。

「そうなんですね……」

 それしか言えなかった。そのとき、どんなことを思ったのか、などと訊けるわけがなかった。

「おまえにはなにも教えていないからな」

 冷えた水をかけられた感覚に襲われ、プロメはその場から逃げ出したくなる。そんな自分を悟られないように努めてゆっくり、湖に向かって歩き出す。

「……行きましょう、デルタ様。この遊歩道のさきに東屋ガゼボがあるんです」

「わかった」

 デルタの声を背中で受け止め、歩き続ける。もう一度、手をつないで歩きたかった。誰かのかわりになることなど、できはしない。ましてやプロメはアンドロイドだ。だからこそ、奥さんと娘さんのかわりになれたら――傲慢な考えだとはわかっている。でもそう考えてしまうことを、止めようもなかった。

 湖岸にはまだ新しい魚雷艇ミサイルボートが打ち上げられていた。軍の徽章はこそぎ取られている。こんなところにまで戦争の名残りがあった。

 にゃあ。

 バスケットから黒猫が顔をのぞかせる。プロメを心配そうに見上げる。

「猫が、いるのか?」

「はい、こちらに」

 ふり向き、バスケットごと、デルタの眼前に掲げてみせる。

「黒猫――おまえが連れているのか」

「デルタ様!」

「なんだ」

「猫はお好きですか? この子、飼ってもいいですか?」

 にゃあ。猫が合いの手を入れる。

「名前も決めてあるんです、アンクと言います」

生命アンク、か」

「はい」

 デルタは視線を外し、湖を見つめる。風が吹いて、波紋が広がっている。なにかを思い出しているのかもしれない。

 ふたりはいつのまにか遊歩道のまんなかで歩みを止め、相対している。

「デルタ様、実は謝らなければなりません」

「なんだ」

「先ほど、私はデルタ様にとても失礼なことを言ってしまいました。私はデルタ様がご家族を亡くされていることを知っていたのに――ほんとうに申しわけありませんでした。」

「検索したか」

「はい」

「おまえは……不思議なアンドロイドだな。猫を飼うどころの話ではないだろう。おまえ自身の進退が喫緊の課題だろうに」

 忘れていた。

「忘れていました」

 にゃあ、と呼応したかのように猫が鳴く。

「なんだと」

 デルタから強い感情が放出され、からだが一回り大きくなったように、見えた。

 ただそれも一瞬のことですぐにその気配は霧散し、デルタはプロメの横を通り過ぎて歩き始める。

 不思議と怖いとは思わなかった。

 きっとデルタ様はびっくりしたのだ、とプロメは思った。

「すみません、デルタ様――。私はデルタ様のことが知りたかったんです。わからないままは嫌だから!」

 足を止めたデルタが、ちらりとふり向き、言った。

東屋ガゼボに行くんだろう」

「……! はい!」

 尖塔に、つる草の伸びた東屋ガゼボに着き、プロメとデルタはの向かいあうように座る。猫は膝の上のバスケットのなかから顔を出している。

 デルタが脇に直刀を置き、ミラーシェードを外す。機械化された瞳がプロメを見ている。そこにあるのは確かに人の瞳であるのに、ミラーシェードよりも感情を読み取ることはむつかしかった。

「私のことを知ってどうする」

「デルタ様の力になりたいんです」

「その必要はないと言ったはずだ」

「そんなことは、ないはずです。だって、デルタ様はいつも素振りに出かけられます。なにを斬ろうと、――いえ、ふり払おうとなさっているんですか。私には……そう、まるでなにから逃げようとされているように、見えるんです」

「……」

「そんな人を私は放っておくことはできません。ひとりになんてさせられないです。私の最優先事項に反します。――あ、もちろん、仕事だからという意味もあります。忘れてはいません。あんなお屋敷、ひとりで生活されるのはきっと不便ですよ。私がいるとなにかと便利のはずです」

 でも、もう少し失敗を減らすようにします、と胸の内で付け加える。

 不意に、デルタが腕をふる。個人用の投影現実オーバーレイを開く操作ジェスチャーだ。

「戦時中、おまえは……、開発期間に当たるのか」

 デルタがプロメの資料を見ているのだ。これは画期的なことだった。プロメに興味を持ってくれたということだ。

「はい、戦争中はチャペック研にいて、戦後、世情が落ち着くのを待って、プロメテウス級私たち姉妹はリリースされました」

「そうか、おまえは戦争を知らないんだな……」

 そう言うと、デルタは抑揚を感じさせない口調で、話し始めた。

「おれは最初期の機械化志願兵だった……」

 努めてそう語ることで、過去の記憶から生まれる激しい感情を抑えこもうとしている。プロメにはそう見えた。





 それはD3(デルタ・スリー)にとって特にどうということのない作戦だった。

 いつもの強襲任務だ。国防情報軍インフォメーションズ第十三独立機械化大隊フー・フォースの一個中隊、通称「D中隊」――重火器を携行しづらい空挺部隊の火力不足を、機械化による身体機能の強化によって補うことを目的とした実験中隊だった。神出鬼没の機動力と、圧倒的な制圧力を誇っていた。

 その日も、D3はD中隊を率い、高高度降下ヘイロウから反政府ゲリラの軍事基地へ潜入、敵兵を殲滅し、新たな情報を得る。

 繰り返されるルーティンワーク――なんの疑問も差し挟むことのない、代わり映えしない日常だった。ただその日は、新しく左腕にマウントした忍刀ニンジャ・ブレードの調子が悪く、そのことが少し気にかかっていた。

 フルフェイス型のヘッドマウントディスプレイには、今回の確保目標の情報が表示されている。

 扉から飛び出してきた敵兵には個別にタグ付けがなされ、軍事基地の敷地はグリッド線で覆われ、潜伏している敵兵の情報が丸裸になっていく。

 陽動の空爆が着弾するのを確認してから、D3は中隊を率いて、基地の北東から潜入した。それは戦闘と呼べるようなものではなかった。敵に状況を把握する余裕を与えることはなかった。出会い頭に一方的に打ち倒し、切り捨て、D3たちはすみやかに乱れることなく目標地点まで進軍する。戦力差は圧倒的で、一方的な掃討に等しかった。

 あと数メートルで目標地点というところだった。

 物陰から飛び出してきた敵兵に砲撃を喰らう。

 咄嗟に忍刀で防御――調子の悪かったハードポイントが砕け、忍刀がはじけ飛ぶ。ブレードがヘッドマウントディスプレイのバイザーを傷つけ、あらぬ方向に吹き飛んでいく。

 D3は目視で状況を確認する。

 ブロンドの女性がそこにいた。妻かと思った。はっきりした恐怖の色が見て取れる、その目は涙に濡れており、手にはレンガを抱えていた。

 砲撃などではなかった。

 殴られたのだ。さらに物陰から飛び出してくる人影は、まだ幼い少女で――。

「待て!」

 遅かった。

 銃火が薙いで、紙くずのように女性と少女は撃ち倒された。

「D3、大丈夫か?」

 分隊長のC4チャリー・フォーがてきぱきと指示を飛ばす。

障害物オブジェクトの沈黙を確認。E4エコー・フォーE5エコー・ファイブは先行して周囲を警戒。ほかはこの場で状況を把握しろ。衛生兵メディック、D3が負傷した、急げ」

了解ラジャア

 部下たちが散開し、防御態勢を整えていく。その様子をD3はぼんやりと眺めていた。じわじわと広がっていく赤い染みが、銃火の照り返しを受けてドス黒い色に変わりながら、足元まで迫ってきていた。

「なんだ、これは……」

 空爆の黒煙がいくつも立ち昇り、敵兵によってようやく打ち上げられた曳光弾が、世界を照らし出していた。

 こんな時になってようやくサイボーグ化したことの弊害に、D3は気がついた。

 建物が燃えていく熱さも、硝煙と血の匂いも、いまの自分にはなにもわからなかった。

 自分たちがなにと戦っているのか、それすらもわかっていなかった。

 ゲリラの基地と見えていたのは、町だった。非戦闘員のいる街道沿いの町だった。幾度も戦火にさらされ、弾痕と瓦礫と砂埃で埋まった土地をどうにか復興させようとしていた、そういう町だった。

 いや確かに反政府ゲリラがいたのかもしれない。散発的とはいえ反撃もあった。目標地点には重大な情報を握った人物もきっといるだろう。いままでも諜報部からの情報は確かだった。ただそれ以外の情報を、D3は意識していなかった。ヘッドマウントディスプレイに表示されている情報をなにも疑わず、ここまでやって来てしまった。

 ふり返ることができなかった。自分たちが進軍してきた道を想像すると、震えが止まらなくなった。

 するとどうだ、精神異常を検知した鋼のからだが、親切にも自我の崩壊一歩手前で意識の電源を落としてくれるのだ。

 ――We have.

 代わりにからだの主導権を握るのは、普段はD3の体内にあって義体の制御を司るナノマシン群だ。あくまで人を殺すのは人でなければならない――そんな前世紀の設計倫理のために緊急時にのみ適用される機能だった。

 D3は抗うこともできずに暗黒の、甘美な眠りに引きずり込まれる。

 機械の咆哮を、遠くに聞く。

 なけなしの思考を放棄することによって、鋼のからだを持った最強のゾンビ兵が誕生する。

 その後のことは記録で、知っている。戦闘は、戦争はただただ一方的で悲惨なものだった。

 D3が晴れて妻と娘に会うためには、その事実から目を背けることはできなかった。

 そう思ってしまった。

 ただ自分にできることは戦うことだけだった。

 だから――この戦争を終結させるために尽力した。

 要人暗殺ウェットワークス――自分に課したその任務が、結果的に己の首を締めることになったとしても、やらなければならなかった。

 そしてデルタの感情は、人を殺すたびに確かに失われていった。

 部隊員たちとのパーティは、たのしいものではなくなった。

 作戦の成功は、もう喜びをもたらしはしなくなった。

 敵味方の別なく怒りを感じる相手は、いなくなった。

 最後に、殺す相手に対して哀しみを感じることがなくなった。

 気がついてみればタカ派の要人は誰も残っていなかった。

 すると両陣営ともに厭戦感が強くなり、みるみるうちに休戦協定が結ばれた。もう政府も、反政府ゲリラも疲弊しきっていたのだ。

 戦争は終結した。

 すべてが終わり、D3はあらゆる誘いを蹴って軍を逃げ出すように退役した。

 帰るのだ、故郷に――ようやく妻と娘に会うことができる。

 しかし男は、故郷に足を踏み入れることはできなかった――。





 東屋ガゼボに山の影が落ち、夕焼けに湖面が染まっていく。風が少し出てきた。

「これで満足か。なにが〝救国の英雄〟だ、おれはただの人殺しでしかない。正義も国も関係なかった。ただただ妻と娘に――」

 おどろいたようにデルタが訊く。

「なぜ、おまえが泣く?」

 指摘されて、プロメは頬に手をやる。冷たいものが流れている。感情の昂ぶりが誘発した頭部の冷却液漏れ。

「わかりません」

「説明できないのか、説明したくないのか」

「わかりません」

 低くうなり、デルタが波打つ湖面に顔を向ける。

「……いい景色だ、と思うべきなのだろうな」

「はい、とてもきれいな夕焼け空です」

「以前に見たことのある景色だ。昔、ここに旅行で訪れたことがある。その時は、妻と、まだ幼い娘がいた。懐かしさを感じてもいいのだろう」

「はい」

「だがな、いまの私にはそれがむつかしいのだ。目の前にあるものを、ただそこにあるとしか認識できない。記憶の想起によって心が震えることがない」

「はい」

 冷却液は流れるままだ。返事をすることしかできない。

「ただ、なぜかな、……おまえが泣いてくれてよかったと思う」

「デルタ様……」

「なんだ?」

「これからもがんばりますので、どうかお側に置いてください」

 そう強く思った、と同時に言葉になってあふれだしていた。

 デルタに伝えなければならない、と思ったのだ。

 人が失ってしまったものを取り戻す手伝いをする――たとえそれが自身に刻まれた最優先事項ファースト・プライオリティに端を発する思いであったとしても、デルタのことを知りたいと思ったのは、プロメ自身なのだから。

「そうか」

 デルタは湖面から目をそらすことなく、静かにそう言った。

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