肌着女
アンケートモニターというバイトがある。文字通りアンケートに回答したり、インタビューを受けることでお金を受け取ることができるものだ。サラリーマンでも簡単にできる副業なので、俺も会社勤めの傍ら小遣い稼ぎをしている。
俺は暖房のきいたワンルームマンションでスマートフォンをいじりながら、アンケートサイトに掲載されている案件の中にそれを見つけた。
「肌着女?」
タイトルに書かれていた文言が思わず口をつく。
肌着女、裸族みたいなものだろうか? 家の中では常に肌着だけを身につけて生活する女、とか。そういう人々が何らかの社会現象にでもなっているのかもしれない。
そう思いながら案件について読んでみると、それはサンプルを受け取って感想を送るタイプのアンケートだった。肌着女というのは商品名のようだ。聞いたこともない衣料品メーカーが開発している、次世代の肌着とのことだった。
女性用の肌着なのだろうかと思えば名前に反して男性用の肌着であるらしい。少し悩んで、このアンケートに応募することにした。肌着を着るだけで報酬がもらえるというのならば、こんなにも楽な仕事はない。
しばらくしてから案件に当選したというメールが届き、その数日後にはサンプルの入った段ボールが配達されてきた。
早速取り出してみると、見た目はこれといった特徴のない黒の肌着だ。上半身に着る冬用の肌着ということなので、某有名メーカーの販売しているヒートテクノロジーのようなものだろう。
風呂を済ませて早速肌着女を着てみる。触れた肌と一体化するような着心地で、かなり上質な品であるように思われた。
「なんだか機嫌がよさそうね」
その声は突如として現れた。どこか艶めいた女の声だった。顔を上げると脱衣所の鏡が目に入る。そこに映っていたのは肌着を着たばかりの俺と、一人の女。
驚いて振り返ると、視線の先にはやはり女がいた。どこか熱っぽい瞳をした黒い長髪の女だ。包容力のあるお姉さんといった風情の顔立ちで、胸や尻を突き出しながらも腹部はしっかりと引き締まった抜群のプロポーションをしている。そのくせ身を包んでいるのは俺の肌着の丈を太ももの中程まで引き延ばしたような薄い生地の布だ。おかげでその肉感的な肢体の輪郭がこれでもかと浮き彫りにされている。不審者に対しては不用心極まりなく、俺は情けなくも彼女に見とれてしまっていた。
「こら、あんまりジロジロ見ないの」
こつんとしなやかな指で額をつつかれる。状況がわからず置いてけぼりを食らっている俺に追い打ちをかけるように、女は端正な顔を近づけてきて耳元で囁く。
「これからよろしくね」
ぞわりとした快感が耳朶から脳髄へと響き渡る。俺は置いてあった部屋着をつかみ取り弾かれたように脱衣所を飛び出した。部屋で慌てて着替えを済ませた頃に女もやってくる。
「その、あなたはいったい」
「肌着女よ」
女は当たり前のように言う。あまりにも堂々とした態度に、疑問を抱いているこちらの方がおかしいのではないかと思わされた。
「そんなに不安そうな顔をしないで。ちゃんと教えてあげるわ」
女から害意を感じないので、俺も少しずつ冷静になってきた。俺達は丸テーブルを挟んで向かい合わせに座る。フローリングの上に膝を崩した彼女のしなやかな脚が目に毒だった。
女によれば、彼女は言葉の通りに「肌着女」らしい。最先端の科学技術により作られた特殊繊維で編まれたこの肌着は、着た人間に女性の幻覚のようなものを見せるようだ。
荒唐無稽な話だが、実際に体験してしまっている以上は受け入れるしかない。とはいえ、わからないこともある。
「そもそも、どうして女性の幻覚なんて見る必要があるんですか」
「わからない?」
俺の問いかけに、女はいたずらっぽい笑みを浮かべて立ち上がった。何事かと考えているうちに彼女は素早く俺の隣に腰を下ろし、そのまま肌を密着させてきた。
「な、なにを」
「私は肌着女。あなたを暖かくしてあげるのが仕事なの」
彼女の柔らかな肌の感触が薄い布越しに伝わってくる。豊かな乳房が腕に押しつけられて形を変えている。とても幻覚とは思えないリアリティに意識が飛んでしまいそうだ。
「私のことはアツコって呼んで。これからよろしくね」
漢字で書くとしたら温子らしい。そんな補足説明は耳から反対の耳へと通り過ぎていって、俺はただただ眼前の甘美な現象に酔ったような心地だった。
俺と温子と、二人の生活が始まった。
彼女は俺が肌着女を着ていて、かつ一人でいる時にしか現れない。そういう設計がなされているらしい。
正直、変なことに巻き込まれたなという思いはあった。こういった案件には守秘義務があるため誰かに愚痴を吐くわけにもいかない。モヤモヤした気分を抱えたまましばらく経ったある日、温子が言った。
「会社で何かあった?」
その日は、小さなミスをして少し落ち込んでいた。そんなにわかりやすく顔に出ていたのか、それとも彼女が俺の幻覚だからバレたのか、そんなことを考えていると彼女の細長い腕が俺の頭を掴んだ。
すぽん、と赤子を抱き寄せるように温子は俺の顔をその大きな胸に埋める。突然のことに対する戸惑いはあったが、それ以上に言い知れぬ安心感のようなものがあった。彼女は慈しむような手つきで俺の頭を撫でる。高級な羽毛布団にでも包まれているような気分だった。彼女は肌着だというのに、変な話だ。
家に帰ると玄関に彼女が姿を現す、そんな日々が続いた。彼女は幻覚なので俺以外の物に触れて動かしたりはできない。料理を作ったり部屋の中を掃除したり、そういうことをしてくれるわけではない。ただ俺の傍にいて、俺の話を聞いて、楽しそうに笑っている。
冬空の下で動物達が身を寄せ合うように、俺と彼女はこの狭いワンルームで肩を突き合わせていた。
心地よい時間だった。こんなにも女性と二人きりで長い時間を過ごしたのは大学で彼女がいた時以来だった。
温子と会うためにはあの肌着を着ないといけない。上着であれば頻繁に洗濯に出すようなこともないが、同じ肌着を何日も連続で着るという人は少ないだろう。できることなら毎日を温子と過ごしたかったが我慢するしかなかった。一度だけ二日間肌着女を着続けたこともあったが、それは温子の方にも言い知れぬ不快感があるということなので諦めた。
男の独り暮らしでは洗濯をする頻度も多くない。それでもなるべくコインランドリーに足を運ぶようにした。今までは休日に一週間の分の衣服をまとめて洗濯していたのを、平日の夜にも行うようになった。週に三回は温子に会える。
「なんだか最近、機嫌がよさそうね」
「君のおかげだよ。寒いのは得意じゃなかったんだけど、君のおかげで今年は全然辛くない。一年中冬でいてほしいくらいだ」
「あら」
温子は口元に優美な弧を描くと俺の肩に頭を預ける。俺は彼女の艶やかな黒髪を優しく撫でた。
彼女のためならなんだってできる。俺は本気でそう思い始めていた。
年が明け、一月二月と過ぎていき、春が近づいてきた頃。
「そろそろお別れの時ね」
夕食を終えた俺に、温子が言う。
「お別れ、って……」
「私は冬用の肌着女。あなたの身体が寒さを感じなくなれば、消えてしまうの」
伏し目がちに告げる彼女の表情は憂いを帯びていた。彼女も俺との別れを惜しんでくれていることへの高揚感と、どうしようもない現実への絶望感とで、俺は何も言えなくなってしまった。
このまま彼女がいなくなってしまうのか。そんなことを受け入れていいのか。
忽然と立ち上がった俺を温子が見上げている。そんな彼女の手を引いて、俺は風呂場へと駆け込んだ。
二人で貪り合うようなキスをした。誰かをこんなにも愛しいと思ったのはいつ以来だろう。何かをこんなにも欲しいと願ったのはいつ以来だったろうか。
ガスはつけず水のままシャワーを流す。服が濡れるのもかまわず、温子を抱きしめる。
「そんなことをしてもダメ。外はちゃんと暖かいんだもの」
「だったら寒いところへ行くよ。地球の裏側まで君に会いに行く」
「それ、ブラジルってこと?」
言ってから、温子はようやくくすりと笑った。やはり彼女には、笑顔が似合う。
「そんなことしなくていいわ。私はあなたが元気でいてくれれば、それでいい」
「でも」
「それじゃあ、約束をしましょう。ブラジルにも北極にも行かなくていいわ。未来まで私に会いに来て」
「未来」
「そう、一年後の未来」
「こんなにも次の冬が待ち遠しいなんて、初めてだ」
「そうね、私もよ」
翌朝、風呂場で目を覚ました。風邪でも引いたのかくしゃみをした。霧がくしゃみに吹き飛ばされたかのように、温子は跡形もなく消えていた。
やがて春も過ぎ去り夏がやってくる。俺の家に、またしても郵便物が届いた。
「夏用肌着女?」
どうもあのサンプルは冬と夏のワンセットだったらしい。箱の中から出てきたのは白い肌着だった。こちらは夏用とのことなのでシルキークールのようなものなのだろう。これを着たら、また温子のような女性に出会えるのだろうか。
収納ボックスの奥に眠っている温子のことを想って苦笑いをする。彼女にも嫉妬のような感情はあるのだろうか、人が視る幻覚だというのならそれぐらいあってもおかしくはない。
かといって、モニター報酬を受け取っている以上は無視するわけにもいかない。妻がいながら上司との付き合いでキャバクラに行くような心持ちで、俺は夏用の肌着女を着た。いったいどんな女性が出てくるのだろうか。
背中を蹴られた。
ベッドに顔を埋めるようにして倒れ込む。何がなんだかわからないまま振り返る。
そこに彼女は立っていた。温子とは真逆の白いインナーを着た美女、髪の毛まで白のボブカット、勝ち気そうな顔には嗜虐的な笑みが浮かべられている。
「き、君は」
「私は涼子。肌着女よ。説明されないとそんなこともわからないわけ? とんだグズね」
鼻で笑われる。戸惑う俺に追い打ちをかけるようにして、彼女は続ける。
「こんな狭い部屋に一人暮らし、さぞ貧しい暮らしをしているんでしょうね。部屋も散らかってるし、これじゃ女っ気もないわけだわ」
「あ、あの」
「なによ」
鋭い目つきで睨まれる。怯みそうになりながらも俺は尋ねた。
「その……あまりにも温子との温度差というか、性格の違いが大きすぎて」
「そんな当たり前のことを訊かないでくれる?」
涼子はバカにするように笑い、
「私は夏用の肌着女よ。凍えて震え上がるぐらい、あんたの身も心も涼しくしてあげるわ」
腹白い 夢煮イドミ @yumeni_idomi
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