腹白い

夢煮イドミ

腹白い

 高校に入学してしばらく経った頃、他人の腹部が色づいて見えるようになった。


 腹黒いという言葉があるが、あれが可視化されたような感じだ。ニュースに出てくる政治家、バラエティに出演するアイドル、報道番組のコメンテーター、そんな人達のお腹が画面に映ると、墨を零したような真っ黒な靄が見えるのだ。私腹を肥やすと人は腹が黒くなるらしい。


 このことは親にも話していない。突然この能力のようなものが発現した時には驚いたが、この現象にはこれといったデメリットがないのだ。視界がサイケデリックな色合いに染まるというのであれば生活に支障も出るが、他人の腹部に色がつくだけ。そういうものだと受け容れてしまえば困ることはない。微熱ぐらいでは病院に行く人の方が少ない、それと同じことだった。


 むしろ便利なことにこの能力は見える色が黒だけではないのだ。それは休み時間に教室を見渡しているとよくわかる。

 窓際に集まっている坊主頭の集団の腹は赤色、甲子園でも目指して日々励んでいるのだろう。教室後方でひそひそと話している地味な男子達の腹は桃色、漫画かアニメの女性キャラのことでも考えているのかもしれない。黒板の近くで姦しい女子グループも同じくピンク色だが、たまに黒色が現れることがある。恋バナの最中に他人の悪口でも頭に浮かべているのだろうか。


 他人の心をのぞき見るとまではいかないが、腹づもりを色として見ることができる。人間観察としては非常に心躍る能力だった。

 落ち込んでいる人間の腹は青くなるし、楽しいことがあった人間の腹は黄色くなる。目は口ほどに物を言うらしいが、俺にとっては顔のどのパーツよりも腹こそが雄弁に語ってくれる。


 かといって能力を悪用するようなこともなく、俺はいたって平穏に日々を過ごしていた。彼女と出会ったのは、俺が自分の能力にもすっかり慣れてきた頃だった。


 花咲唄(はなさきうた)――彼女は別のクラスのどちらかといえば不良と呼ばれるカテゴリーに属する生徒だった。人目を引く金髪は腰のあたりまで伸びていて、いつも不機嫌そうな顔をしている。切れ長の目に睨まれると蛇でさえ逃げ出してしまいそうな迫力があった。


 ある日の放課後、クラスのゴミ袋を捨てにゴミ捨て場を訪れると、花咲がいた。


「何してるの?」


 尋ねると彼女の肩がビクンと跳ねる。肩越しに振り返った彼女の視線に射すくめられそうになるが、好奇心の方が勝っていた。

 秋も深まってきた夕暮れの下で、彼女はゴミ捨て場のゴミ袋を開けて中身を漁っていたのだ。とても尋常の光景ではない。


「なんだっていいだろ」


 花咲は不機嫌そうに言うとゴミ漁りを再開した。突き放されては仕方ないので、俺はゴミ袋を置いてそそくさと立ち去ろうとした。

 しかし、視界の隅に映り込んだものを見て、足を止めた。


「なんだよ」


 花咲がこちらを見る。よく見ればすっと通った鼻筋も瑞々しい唇も男を引き寄せるような魅力を伴っている。無愛想な様子がそれらを打ち消しているとはいえ、間違いなく美人の類いであることは間違いない。

 けれど、俺が注目していたのは彼女の顔立ちではなかった。


「なにジロジロ見てんだよ」


 花咲の顔がさらに不機嫌そうに歪められる。野生動物が威嚇するような表情とは対照的に、黒いセーラー服に包まれた彼女の腹は、新雪のごとき白色だった。

 現実で、テレビで、あるいはネットで、いろんな人を見てきた。そんな俺が、腹白い人間と出会ったのは初めてだった。


「おい、おちょくってんのか」

「ん、ああ、ごめん」


 鬼のような形相に染まっていく彼女に、俺は素直に謝ることにした。


「こんなに綺麗な人を見たのは初めてで」

「はぁ!?」


 白一色だった彼女の腹が薄い赤色に染まっていく。これは、腹を立てているのだろうか。


「ごめん、変なこと言ったかな」

「変な奴だな、とっとと帰れよ」


 しっしっと手で追い払われるが、俺はその場を動かなかった。いよいよ花咲も腹に据えかねたように声を荒らげる。


「なんなんだよさっきから」

「何してるのかなと思って」

「探し物だよ、探し物。もういいだろ」

「何を探してるの」

「ボールペン」

「ボールペン? 欲しいならあげようか」

「買う金がねぇから漁ってるわけじゃねぇよ!」


 また怒らせてしまったようだ。俺は贖罪のつもりで彼女の傍らにしゃがみ込むとゴミ袋の中身を覗いた。


「どんなボールペン」

「知らん、なんかピンクで、花柄がどうとか」

「曖昧だね」

「私のじゃないからな」

「じゃあ誰の?」


 問いかけるが、花咲からの返事はない。俺は黙ってゴミ袋に手を突っ込むと中身を漁り始めた。花咲は一瞬目を見開いたが、俺を追い払うようなことはしなかった。二人で黙々とゴミ袋を開けては中身を検分していく。


「……クラスの奴のなんだよ」


 日も沈みかけてきた頃、花咲が口を開いた。


「軽いイジメっていうか。マジだせぇんだけど。そういうのあって。ボールペンがないとか言ってたから、もしかしたらって」

「友達なの?」

「いや、べつに」


 俺は手を止めて花咲を見た。他人を寄せ付けない険しさはなくなり、真剣な顔つきでボールペンを探している。


「ただ、なんとなくイヤだから」


 それきり花咲が黙ってしまったので、俺も何も言わなかった。もうすっかり辺りが暗くなり校舎の教室の明かりが眩しくなってきた頃、俺達はそれを見つけた。


「あった、っ」


 花咲は勢いよく花柄のボールペンを持ち上げると、俺の前に掲げてにっこりと笑った。それからすぐ表情を引き締めると、仄かに頬を朱に染めてそっぽを向く。


「よかったね」

「……おう」


 その返事は無愛想というよりも、拗ねた子供のように聞こえた。




 しばらくして、ボールペンのことなんてすっかり忘れかけていた頃、俺は花咲に呼び出された。


「ん」


 校舎裏でたったの一音と共に差し出されたのは、透明な袋に包装されたクッキーの山だった。


「今日はバレンタインじゃないよ?」


 言うと花咲はむせ返る。やがて落ち着き、キッとこちらを睨みつけてきた。


「おまえが好きとかじゃねぇよ。この前のお礼だ、勘違いすんな」


 納得して、俺はその袋を受け取る。花咲の腹は相変わらず白くて、いまはほんの少しの朱色が混じっている。


「ボールペンの子は喜んでくれた?」

「さあ、喜んだんじゃね」

「なんで曖昧なの?」

「渡してねぇし。机に入れといただけ」


 明後日の方を向いた彼女を見て、俺は腹に落ちた。


「花咲さんは無愛想で不器用な人なんだね」

「おい」

「でもすごく優しい女の子なんだね」


 顔も腹も赤く染めた彼女に、俺は言う。


「花咲さん、友達になろう。俺は君に興味がある」




 案の定、花咲には友達がいなかった。普段の彼女の様子だけを見れば、近づこうとする奇特な人間はそういないだろう。花咲は自分の髪をいじりながら語る。


「これ地毛なんだけどさ、子供の頃からいじられたりすることが多くて。なんとなく、他人と付き合うのってめんどくせぇなって思うようになって」

「俺は花咲さんの髪、綺麗で好きだよ」


 本心からそう言うと、彼女は「バカじゃねぇの」と笑ってそっぽを向いた。

 人付き合いを億劫に感じながらも、決して人嫌いではない。むしろ率先して人を助けようとするが、表舞台に立つことは好まない。なんともこじらせた性格だが、なんてことはない。目に見えやすい性格と心の中とは、必ずしも一致するものではない。彼女は言うなれば腹白い人なのだ。


 俺は頻繁に彼女と会った。学校ですれ違った時は当然声をかけたし、彼女が一人で食堂にいたら向かいの席に座った。花咲は毎回面倒そうに顔をしかめていたが、本気で嫌がってはいないことは腹を見ればわかった。


 二人で出かけることもあった。ショッピングセンターで買い物をしたり、ボウリングで勝負をしたりした。カラオケに行った時は歌うのをやたら拒もうとしたので半ば強引に歌わせると、聞き惚れるほど上手だった。しかし曲が終わった途端恥ずかしさを紛らわすように俺の脇腹をつついてきた。

 映画を観に行った時には彼女に観たい作品を選ばせた。彼女が観たがったのは少女漫画が原作のラブストーリーだった。映画を観る時どこに注目するのかは人それぞれだと思うが、俺の場合は腹だ。役者の演技が真に迫っているほど、腹の色が役どころの心理とリンクしている。演技があまり上手くないアイドルなんかが主演の作品を観るとそれだけで萎えてしまうことがあるのだが、今回は当たりだった。主演の若手俳優がヒロインに告白するシーンで、彼の腹は燃えるような赤色に染まっていた。あれは愛の色なのだろう。




 俺達は高校三年生になっていた。夕暮れの教室には誰もいない。俺と花咲は窓際の席に前後に並んで座り、放課後の静けさを堪能しながら校庭の運動部を眺めていた。


「花咲さん、何か悩みでもあるの?」


 花咲はいつぞや出会った時と同じように肩を跳ねさせた。彼女は怖いようでいて優しいように、気が強そうでいながら不意打ちに弱いところがある。


「おまえって、時々妙に鋭いことあるよな」


 花咲は観念したようなため息を吐いた。彼女の腹の色は、珍しく青に染まっていた。それは人が落ち込んだ時の色だった。


「もう大学決めてんだろ?」


 花咲の問いかけに俺は頷く。第一志望の大学は、現在の自分の学力から考えて妥当なところに決めてある。


「私も、同じとこ受けようかな、って思うんだけど」


 そう吐露した花咲の表情は沈んでいる。彼女は決して成績が悪いわけではないが、俺が目指す大学の偏差値を考えると合格するためには相応の努力が必要になる。


「本気で目指すなら協力するよ」

「そういうこと、本心で言ってるから質悪いんだよ、おまえ」


 花咲の力ない笑顔を見て、なんとなく話題を変えた。


「俺さ、他人の腹の中が見えるんだよ」

「は?」


 お手本のように怪しむ反応に笑いそうになりながらも、俺は説明した。親にも打ち明けていないことを、どうしてか花咲には聞いてほしくなった。


「簡単には信じられねぇけど、めちゃくちゃ勘が鋭いことにはむしろ納得できるな」


 花咲は腑に落ちたように言ってから小首を傾げた。


「自分のお腹は、色ついてないのかよ」

「そうだね。鏡で見てもそのままの腹が丸見え」

「おまえ、それは」


 何かを言いかけてから、花咲は俯く。しばらくして、彼女は再び口を開いた。


「おまえの腹は、透明なんだよ」

「透明?」


 思いがけない推測に聞き返す。純粋な興味が沸いて身を乗り出すと、鬱陶しいからこっちを見るなと邪険にされた。


「おまえって包み隠すってことしねぇじゃん。思ったことそのまま口に出すっていうか。だから、そもそも腹の中に何も溜め込んでないんだろ」

「なるほど。すごく納得のいく論理だね。花咲さんって実は頭いいんじゃない?」

「そういう人を小馬鹿にするところもだからな」


 今まで聞いた中で一番のため息を吐き出してから、花咲は俺を見て、すぐに視線を外した。


「そんな奴に言われたから、嬉しかったんだよ」

「嬉しかった? 何が?」

「私の髪、綺麗で好きだって、言ってくれただろ」


 花咲は手櫛で髪をといた。光が可視化されたような金色の髪に、彼女の柔らかな指が吸い込まれていくようにさえ見える。


「だから私も、好きだよ」

「え?」

「おまえのバカ正直なとこ、好きだって言ってんだよ」


 花咲は俺を睨んで、すぐにまた窓へと視線を向ける。その横顔も、彼女の腹も、いまは白くない。

 胃腸のあたりにぞわぞわとした熱のようなものを感じて、俺は慌てて自分の腹を見やった。そこには、色があった。花咲の腹や横顔と同じ色。

 真っ赤な色の、靄があった。


「花咲さん」

「なに」


 不機嫌そうに聞こえる彼女の声が、鼓膜を通って熱を帯び、腹の奥へと響くようだった。赤色が一層濃くなっていく。胃もたれしてしまいそうだ。こういうのは腹八分目ぐらいがちょうどいいのではなかろうか。甘い物も食べ過ぎはよくないという。


「好きだよ」

「髪のことなら聞き飽きたよ」

「違うよ」


 ならば、多すぎる分は吐き出してしまうことにしよう。


「花咲さんのすべてが好きだ」


 考えとは裏腹に、盛大に愛をぶちまけている自分がいた。

 我ながら、太っ腹なことだと思う。

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