第10話聖魔宮――闘技場での一戦

 薄汚れた手足。


 ガリガリの体。


 ろくに物を食べていないのが見てとれた。


 弱弱しい姿態、肉付きの薄い背中。なによりはかなげな容姿。


 どれをとっても、勝てる要素の見えない戦いだった。


 聖魔宮では、魔王の娘であろうと生き残ろうとすれば、必然的に魔物と戦わねばならない。そういう場所だった。


「なんという戦いでしょう! 先ほど予選を勝ち抜いた両者、一歩も譲りません。いや、魔物の血を引いているとはいえ、肉体は人間と変わらない個体が、純粋な魔族を押しています。さあ、魔界のプリンス、プリンセスとなるのはどちらだ――!」


 雇われレフェリーの煽るかのような実況に、観覧席の魔族が失笑するのを隠さない。


 人間と同じ肉体、それが有利には働かないことは明白だ。


 その個体は首と手足に鉄輪をはめられ、数本の鎖でもう一人の魔族――敵の首、手足とつながれていた。


『弱きものは、血族とは認めない』


 魔王の一言で始められたデスマッチだった。


 大きなリング場は、内側を鋭い獰悪な魔界植物の棘が覆っており、時間が経つごとに重みのある天井が上から迫ってくる。


 早いうちの決着が望まれる戦い。


 それを――うわばみは余興として見ていた。


 まずあの雌の個体は生き残るまい――そう思えた。


 対して、剛腕の、いささか頭に栄養が足りていない個体が、やみくもに鎖を一気にまとめ、引き回して、相手をリング外へとぶん投げようとしていた。


 これみよがしな腕力での戦いっぷりと、己への自信に満ちた雄の顔。


 場内は、下卑た笑いとあざけりと嘲笑にあふれたが、すぐに覆された。


 幼い個体には、それらを相手取るには、どうやっても体格、戦いのセンスに差があるように思えた。


 なのに。


 なぜだか、その弱々しい個体からは、見たこともないような覇気が発せられ、決着はなかなかつかなかった。


(どうしてだろう? あんな小娘に負けるようにはみえないのに)


 最後に「彼女」はバネを聞かせて天井まで舞い上がり、その鉄の蓋に穴をあけ、リングから逃走しようとしたのが見てとれた。


 しかし、それは起死回生の策だった。


 優に倍以上ある上背の雄を天井の重みで踏みつぶし、見事生還。


「彼女」は魔王の継承者として、認められ、身柄の自由を得たのだった。





「とゆー感じでして」


「ふーん」


 少々ぶっきらぼうに応えて、わたしはソファの上で足を抱えた。


「すごかったです。あのときのししょーは」


「何十年前の話なのかな、それは」


「八十年以上前ですかね」


「おぼえてられっか」


 わたしは、そのまま後ろへひっくり返った。


 うわばみさんは愉快そうに笑っている。


 わたしはむっくり起き直って、つくづくとその顔を見た。


 うん……つくづく、うわばみさんは生粋の魔物だよ。


 ママの生まれ育った日本では、そういうの児童虐待っていうんだよ?


 思い出すんじゃなかった。


 軽くトラウマだよ。


 わたしは頭痛がするのをこらえ、引き絞るように身を抱きしめた。


 言っておくけど、ブルってるんじゃないからね! 本当なんだから!


 わたしの内面の葛藤を見越したように、うわばみさんが、


「まあ、ちょっとした伝説っすよ」


 頷いて、そう言い聞かせてくれた。


「わたし、そんな野蛮だったかな」


 クッションの房飾りをいじる。


「少し、荒っぽく育てられてしまっただけっす。魔物にはありがち」


「ありがちなのかあ……」


「アタシだってそうです」


「うわばみさんが?」


 わたし、少し笑ってしまった。


「のんべえのうわばみさんが、ねえ……」


「これでも馬鹿にしたもんじゃないっすよ。いざってときには、頼りにしてください」


「はいはい」


「本気ですよ」


 わたしがいなすと、うわばみさんは仕方なさそうに言った。







「っあー、いい天気ー」


 わたしは寝ていたソファから起き上がると、クッションをむやみと叩いた。


「埃が立ちますよ」


「なぜだか、そうせずにいられないんだもん」


「朝ごはん、できてますよ」


「わあ! 卵? スクランブルエッグ?」


「もちろん、ツナとオクラ入りっすよ。早く席についてください」


「わあい! うわばみさんの手作りだっ」


「あと、リサイクルショップでベッドと、ニ*リでマットレス、掛け布団を頼んでおきました。今日の午前中に来ますから、部屋の窓を開けて、空気を通しておいてください」


「ええ? どの部屋に入れるの? ベッドなんて必要ないのに」


「いつまでもソファで寝てるわけにいかないでしょ。梅雨入りになったら、ますます冷えるっすよ」


「はーいはい。そんでは! いただきまーす」


「はい、召し上がれ」


 うわばみさん、にこにこしてる! どーしたんだろー。


「あ、それとー、アタシの弟が上京することになったんですよー」


 へ? 


「うわばみジローっていうんですけどね。まあ、それで、住む家が見つかるまで、ここに居候させてもらえないかと」


 はっはーん。


「それで、わたしにベッドだの布団だのをあてがって……狭い部屋に追いやろうってわけなのね?」


「お願いしますよー。アタシらソファで十分ですから!」


 寝っ転がれる大きさのソファは今のところ二脚しかない。


「そんなことなら、自分たちでベッドをつかえばいいじゃない」


 このわたしの、安息の場をとられてたまるかってーの。


「は……でも。家主を差し置いてそれは」


「とにかく、わたし、このソファが気に入ってんの。リサイクルのベッドは自分でつかいなさいよ」


 わたしはリビングキッチンの、ふかふかのソファをポンポンと叩いた。


「はあ……」


「住む家ったって、物置を改造したっていいんじゃない? あるでしょ? そういうの」


「それも考えました。でも、設置する土地がないんす」


「それこそ、うちの庭にでも」


「そういうわけにいかないんすよ。かといって賃貸も保証人が必要ですし。貸しコンテナに隠れ住むことも考えたっすけど」


「あー、ルームシェアって面倒だなー。わたしは絶対、同居はしないぞ」


「そんなこと言って、れいの元勇者、気に入ってるんでしょー?」


「だれ? それ」


「だれそれって、トウマですよ。如月トウマ。あなたの御父上を倒した勇者団の一員」


「そんなの、いたかー?」


「いたかって……どうしちゃったんですか?」


「どうって?」


 わたしは首をかしげざるを得ない。


「恋人だったじゃないですか!? 住所も連絡先も知らないけど」


「? そういうのって恋人っていうの?」


「ししょーが、そう言い張ったんじゃないすか!」


 ほんとうにどうしちゃったのかと、うわばみさん、繰り返しているけど、おぼえがないんだよねー。


 なんだろ。なにか、記憶が剥がれ落ちてる気がする。


「はい、完璧に乾かしてあります」


 うわばみさんがよこしてくれた、ピンクのマント(実はフリルつきだったりする)。


 はうーん。もう離さないぞッ! わたしの安全地帯。


 まとうと、少しチョコレートの匂いがする。


 甘くて芳しい感じの。


 香りはほんのりビター。


 なにこれ、胸がうずうずする。


 夢を、見た気がした。


 この匂いに包まれて、なにか幸せな時を過ごした気がする。


 トウマ。


 如月トウマって言った?


 何か遠い記憶のような気がするけれど、その奥底に封印したはずのなにかが、脳裏によぎる。


 正体はさだかでない。


「んん? ししょー?」


 わたし、ソファに膝抱えて座って、ボーっとしてたら、目の前にうわばみさんの顔があった。


「やっぱり、ししょー! 熱あります!」


「梅雨のせいでしょー」


「んなこと言ったって、魔界で育ったアタシたちには免疫がないっすよ。どんな病原体か、調べなきゃ」


「調べるったってどーやって?」


「口をあけてください」


「んん? あー」


「いきますよ!」


 ひゅんっと小さなつむじ風のような音がして、うわばみさんは姿を消した。


 ううん、正確には目には見えないほどの、縮小をして、そのままわたしの口の中へダイブしたんだ。


「うえっ」


『吐かないでください、ししょー。せめて病原体の正体がわかるまで』


 そんなこと言ったって。


『多分、ししょーは雨に降られてからというもの、ろくろく体をかわかしもしないで、そのまま寝てたでしょ? 人間界での記憶が新しい順に飛んでるんですよ。アタシがなんとかしますから。安静にしていてください』


 なんか、腑におちない。


 だけど、まあ。


「らじゃ!」


 言って横になった。


 なにか胸が苦しいし。


 だけど、具体的になにがどうこう、っていう気配はない。


 それこそ、聖魔宮での競り合いほども、肉体的にはきつくない。


 わたしの体内から戻ってきたうわばみさんは言う。


「これは、申し上げるべきか……魔王の心臓に毛が生えてました!」


「ええっ。レーザーで永久脱毛できない!?」


「ごめんなさい、ししょー。冗談言いました。ことはもっと深刻なんす。慌てちゃって、つい口がすべりました」


「たいがいにせえよ」


「さーせん。えっとですねえ、ししょーの体の中、魔王の心臓がパンパンになってるっす。とりあえず、動脈を壊死させようと頑張っていたガンをやっつけてきたっす」


「え、ガン?」


「はい。ガン」


 とさ。


 わたしは、膝から崩れ落ちるように、ソファから床にへたった。


「ガン……」


 ママもだったな、そういえば。


「原因は、人間の体に魔王の心臓を宿したことによる、ストレスっすね。たぶん」


「たぶんじゃない。原因は!?」


「ですからストレス」


「ガン細胞がそう言ってたんかい?」


「おそらく、ですよ。だって心臓が一つ増えたことだけでも、体に負荷がかかるっていうのに、恐ろしいことに、移植されたのが魔王の心臓ですからね。拒絶反応があっても、おかしくないっすよ」


 それでなくても、わたしは純粋な魔族ではないのに、複数の心臓を持っているんだ。


「大丈夫、あいつらがまたきたら、返り討ちにしてやるっす」


 わたしは言葉もなくその台詞に頷いた。


 一旦は受け入れたんだ。


 だけど、心臓がガンにやられて、記憶欠損なんてあるのかな。


 わたしは、白い紙に「如月トウマ」と書いて、壁に張った。


 これでもう、忘れまい。


 大丈夫だ。まだ、大丈夫。


 とたんにドキドキいいだす心臓も、うわばみさんが何とかしてくれる。


 大丈夫、だいじょうぶだ。


 わたしの心臓、壊れたりしないよね……? 破裂しちゃったりしないよね?


 トウマ。


 今トウマに逢いたい。


 逢いに行こう。


 あの時計塔の下で、トウマが待っている。だろう。かもしれない。だから。大丈夫。うん、きっと。 

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