Lv.8 素直になりたいけれど⑨
「なぁ、今のこの状況って何?」
「ちょっと首筋に息がかかるでしょ! 喋んないでよ」
「いやさ、俺はてっきり二人で滑るっつーから、浮き輪的なものに乗っていくのかと思ってたんだよ」
「ひゃんっ……だから息が擽ったいってば」
周囲の目が痛い。妙な声を上げたのは、玲奈の方なのに端々から侮蔑の視線を感じるような気がする。
「まさか白昼堂々公然猥褻するなんて、思ってもみなかった」
「おい、お前まで俺を見捨てるのか」
「鼻からあんたなんてどうでもいいし」
「いや、衆目を晒しているのが現状、新聞デビューは道連れだぞ」
先のカップル騒動に際してジャンケンで順番を決したのだが、無事玲奈とペアになった。まぁ、そこまではさして問題はなかった。
先にも言ったように二人で滑るというのだから、浮き輪か何かに乗るものだとすっかり勘違いしていた。
ーー抱いて滑るなんて聞いてない。
畢竟、玲奈を合法的に己の体の上に抱けたのだが、これはこれで理性を保つのに一苦労だ。
丁度、鼻の辺りに玲奈の頭があるので、彼女の瑞々しく濡れた髪から水滴が淋漓と滴り落ちる。それに相まって香る香水が鼻腔を刺激し、胸の栄養を全部あてがったのか、想像以上に豊満なお尻が俺に理性をかなぐり捨てさせようとする。
このままでは、体が生理的反応を起こしてしまう。そんな事態に陥れば、玲奈から嫌悪されるのは、自明のことになるだろう。
俺は雑念を振り払って、かねてからの疑問を聞いてみた。
「つかぬ事をお聞きしますが、スタートはまだでしょうか?」
「申し訳ございません、只今、大変混雑しておりまして」
「えっ、でも前の人が滑ってから十分くらいは経ってるような気がするんですけど」
「……」
「あの、怒らないので、今の本音を教えてください」
実は、この係員先程から何度も終着点である下のプールを確認しているのだが、一向に滑らせてくれない。このままでは、本当に明日の朝刊あたりでデビューが決まってしまう。それだけは何としてでも避けなければ。
「正直、こっちは恋を諦めてバイトに青春を捧げた高校生なのに、何でこんな見せしめのようなこと! って思ってますけど、ご安心ください」
「どこをどう解釈すれば安心できるんだよ!?」
「お言葉ですが、お客様。公共の場で鼻の下を伸ばして、発情しているようでは些か、説得力にかけると思います」
「あんたのせいだよ!」
係員は、それでも笑みを絶やさない。
お客様は神様ですってか? 営業スマイル湛えていれば、何でもOKとでも言いたげだ。日本の闇を垣間見た気がする。
淋漓と滴り落ちる瑞々しい水滴が玲奈の匂いと綯い交ぜになって、ポツリポツリとスライダーを濡らす。
女子の肌は、蕩けてしまいそうなくらいハリと弾力があって、スベスベだった。しかし、この未知の感覚を長らく堪能していると、そろそろ正気が保てなくなりそうだ。そんな煩悩は打ち払え……と念じていたら、かえって玲奈の体をまじまじと眺めてしまう。
ダメだ、何か別のことを考えなければ。焦燥感に駆られてふと脳裏に浮かんだのは、スベスベマンジュウガニの姿だった。オウギガニ科・マンジュウガニ属 に分類されるカニ、有毒種。ウィキペディアには、そう書いてあった。
スベスベ……カニ……スベスベ……スベスベ肌。ダメだ、スベスベ肌がゲシュタルト崩壊を起こして、もはやスケベに脳内変換されつつある。
「……玲奈は首がいいんだよな」
「……へっ?」
如何せん、胸は乏しいからな。折角見つけた弱点だ、いつも横柄な態度ばかりとってくる玲奈に目にもの見せてやれる絶好の機会じゃないか。
艶やかな髪をかきあげて、白皙の項を恐る恐る撫でる。
「ひゃっ……」
玲奈が嗚咽を漏らす。己の指がここまで卑猥に見える日が来るなんて思ってもみなかった。
「……へっ?」
しかし、次の瞬間、間抜けな声を上げたのは俺の方だった。背中に何かが触れた……かと思えば、一気に体がスライダーに投げ込まれた。
最後の足掻きで後ろを振り返れば、そこには恍惚とした表情の係員と憮然とした様子の大和、お淑やかな笑みを湛える出羽さんがいた。
「ご希望通り、出発で〜す」
「くそっ、後で来場者アンケートに悪口書いてやる!」
これは、三人の手によって、事前に策定されたものだったのだと気づいたが時既に遅し。
視界が目まぐるしく移り変わる。
「うわぁぁぁぁぁ、ちょ……えっ、結構早い……」
「ちょっと、あんたどこ引っぱって……!」
「あ、やば……滑る」
虚をつかれたことに加え、汗ばむ季節に肌を密着させていたことも相まって、玲奈のお腹を支えていた手が離れる。
上に乗っていた玲奈を置き去りにするように、俺は水のパライソへと帰着。彼女と離れた間際、何か衣擦れのような音がしたがまぁ細かいことは後で考えよう。
散々な目にあった。今の俺は、賢者モード真っ只中。ケダモノのように玲奈の肉体を弄んでしまったことに、後悔の念が押し寄せてくる。
取り敢えず、プールから上がろうと足をプールサイドにおいた途端、後ろから凄まじい衝撃。物理的に後ろ髪を引っ張られた。今時単純な悪戯をする輩もいるのかと心底、呆れた。
しかし、そんな悠長なことを言っている場合ではない。プールの塩素水が濁流のごとく鼻に突進してきた。青の世界に封じ込められたことで、一瞬体が強ばる。けれど、人間の本能故か直ぐに酸素を求めて水中から顔を出した。
溺れずに済んでホッとしたのもつかの間、突如、襲ってくる酩酊感。ウォータースライダーで目を回した影響かもしれない。
暫くボーッと突っ立っていると、何者かに腕を掴まれる。何だ、しぶとい敵だな水中戦をご所望か?
背後から近づいてきた人物からふわりと漂う爽やかなフルーティーな香り。忘れるはずもない、先程まで直に感じて嫌という程胸に焼き付いた香りだ。
「……何だ、どうしたんだ」
恥ずかしさと気まずさが勝って、振り返らずに言う。
「ちょっと、こっち向いて……」
半ば、強引に身が翻えった。流石の玲奈でも先程の出来事は含羞に値するものだったのか、バツが悪そうに視線を逸らしている。
「……なぃの」
「は……?」
「下が……その、水に持っていかれたんだけど」
その言葉を呑み込むのに、数秒の時間を要した。
動じるな、上谷香月。冷静沈着に。何か策はあるはずだ。
「取り敢えず、水と戯れてくる」
「え……はぁ!?」
素っ頓狂な声を出す玲奈を放って、水中へ。先刻まで恐怖すら感じていた水の世界で、まるで泳ぎに一家言のあるオリンピック選手のように自在に動くことが出来た。
何ていい眺めなんだ、潔く清々しい気持ちは初めてのことだった。ラブコメの神様、グッジョブ。
「隊長、俺の目に偽りはありませんでした!」
「誰が隊長よ……へぇ〜、あんたプライド捨てたんだ」
向けられる侮蔑の眼差し。しかし、それも御褒美すらに思えてしまう。
先の後悔はどこに消えたのか、俺は感涙に浸っていた。
「まぁ何だ、安心しろって水着の一つや二つ俺が見つけてやるよ」
「鼻息荒くして言われても説得力に欠けるんだけど」
「大丈夫、お前のブラはこの目にしかと焼き付いてる、造作もないことさ」
端的にそう告げて、希望の一歩を踏み出した。さぁ、ミッションの開始だ。
「あんたのエセ爽やかなんて反吐が出るから、止めてよね。誤魔化さないで」
俺の明るい未来への扉が轟音を立てて、閉ざされた。
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