第5話 やっぱり暑いよ!

 右側の座席に収まった才子。


 反射的に、左……いや右座席だから右肩あたりを弄るがシートベルトは見当たらない。


「ほれ」


 真ん中に何も仕切りのない座席間、そこにはサイドブレーキとその付け根あたりに生えた小さなレバーがあるだけ。爺ちゃんはそこにだらりと投げ出されていた金属バックルのついた黒いバンドを渡してくれた。


「もう一方はそっち側な」


 キョロキョロとして座席の右横下に同じ様な対となるであろうベルトを見つけた。


「腰のところで止めるんじゃ」


 現代の様な肩と腰で止まる3点式のシートではなく、'まさに'ベルトの如く腰の位置で巻く感覚のシートベルトは少しばかり不安を覚える様な心もとない印象だけど、とりあえず言われた通り調整して止めてみた。(旅客機の其れの様に)


 この車が作られた年には日本ではまだシートベルトの装着義務はなく、市販車に備えられている事は稀であり高級車にもオーダー扱いだったそう。やがて運転席のみ標準装備が義務付けられ、後に全席に拡大し更には2点式から3点式へとその内容も変わっていったんじゃ……と爺ちゃんは説明してくれた。


 だからこれでいいらしい。


 才子がシートベルトを装着したのを確認した爺ちゃんは、右手で木製のシフトノブを操作し、細くて径の大きな同じく木製のハンドルを握りなおして静かに発進した。


 狭い車内、もの珍しそうに車内を一瞥してみた。まず視界に入ってくる極端に近い切り立ったフロントガラスと狭いダッシュボード。正面のアクセントとなっている横一線のシルバーの金属プレートの目の前には3桁の数字のバッヂが、真ん中あたりにラジオといくつかのツマミがあるだけごく質素な風景。


 しかし、朝とはいえ真夏の8月、車内は暑い!


「爺ちゃん、暑いよ! クーラー入れないの?」


 車は才子と爺ちゃんの住宅地の少し外れから、幾つかの角を曲がって幹線道路に出た頃でスピードも少し上がってきたところだ。


「ここをこうしてみ?」


 爺ちゃんは、自分側の窓の前方。金属の枠で仕切られたその部分の付け根にある留め具の様なものをキュッ!と捻って外側に押しやった。


 するとその三角の部分はくるりと回って内側に開いた。車内の風が動き爺ちゃんの残り少ない頭髪が少しだけ揺れた。同じ様にやってみようとするが上手く要領を得なかったが何度か繰り返すうちに、単純な構造の引っかかっていた部分がリリースされ少しだけ緩んだ。三角の大きな辺の部分を外側にやると風を巻き込み始め、更に行くところまで回してやるとブワッ!と一気に風をはらんで少しだけのびた才子の髪を撫でかきあげた。


「わ!」


 瞬間、吃驚した様に目をつむる。しかしまだ夏の最高潮への序章と言える朝の外気を取り込んで少しだけ車内温度を下げてくれたのは確かなこと。暫く法定速度ちょっと+のスピードで走っていると我慢できないことはない。田舎町、そして市街地のはずれとはいえやがて幾つか目かの信号が必然的にポルシェを止める。



「やっぱ、暑いよ爺ちゃん……」




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