天使の墓標

硝子匣

天使の墓標

 秋にもなれば、夜は相応に寒くなる。仕方ないとはいえ、どうしても恨み言がこぼれそうになる。早いところ、右手のビニル袋の重みと温かさを堪能したい。

 なぜだろう、秋の夜というのはどうしても落ち着いた気分にさせられる。月が夜空に映える姿や、涼しげな風、秋の夜長とはよく言ったものだと思う。

「月見でもしようかな」

 なんとなく、夜空を眺めながら歩いているとそんな台詞が零れ出た。

幸いすぐそばには公園がある。ベンチに座ってゆっくりしよう。寒さは缶コーヒーで凌げばいい。どうせなら、コンビニで団子でも買えば良かった。レジにあざとく並べられた和菓子たちが、この時ばかりは無性に恋しくなる。

 そうして、人気のない公園に足を踏み入れ、外灯の明かりの下、そこに鎮座するベンチに腰掛ける。

 さて、どちらにしようか。袋の中にある二種のコーヒー、ブラックとカフェオレ。対極といってもいいのではないだろうか。数秒ほど思案して、袋の中に手を入れる。引き抜いたのはブラック。

 缶の温もりを握り締め堪能する。自然と小さな溜め息が零れ、体が震えた。プルタブに指を掛け僅かな抵抗を得た後、一気に流し込む。安っぽい酸味と苦味が綯い交ぜの液体が、体の中に入り込んできた。

 ほおと脱力すれば、夜空が目に映りこむ。うたた寝するには厳しいけれど、ゆったりと過ごすにはちょうど良い、そんな空間が出来上がった。

「浮世の憂さを忘れたいな」

 気取っているのか嘆いているのか、言葉が出るに任せ空を眺め続けていた。

すると、

「憂さは晴らすものじゃないかしら」

女の子の声が聞こえた。やけに堂々としていて、凛という形容が似つかわしいほどに透き通った声だ。

「ああ、それもそうだ」

 気付けばベンチのすぐそばに中学生か、せいぜい高校生くらいであろう女の子が立っていた。妙な笑顔と長い黒髪が印象的な、病的に白い女の子。

「納得しちゃうんだ、そんなにあっさり」

 笑顔で首を傾げるその仕草は、きっと同世代の男子を惹きつけ悩ませるのだろう。ただそれは、目が笑っていればという条件が付くが。

「ただの言い間違いだよ」

「残念、お仲間かと思ったのに」

 おとなり良いかしら、そう言って彼女は腰を下ろした。

「こんな時間に出歩いて、大丈夫なの」

 この辺で不審者が出たとか事件が起きたなんて聞かないけれど、やはりこのご時勢、用心に越したことはない。口うるさく言うつもりはないけれど、せめて注意くらいはしたい。

「ええ、ご心配なく」

 なら良いけど。と、月が雲間に隠れていこうとしていた。小さな雲ではあったけど、確実にそれは光を覆い隠している。

「君は、忘れたい憂さでもあるの」

 彼女の方を向くと、どこか焦点の合ってない目で空を見上げていた。

「だって、こんな世界気持ち悪いだけだもの」

なんのことはない、思春期の子の言葉のはずだ。

ただ、そう言って笑う彼女の方が、はるかに気持ち悪かったのは僕の気のせいだろうか。

「早く遠くに行きたい」

 彼女が見つめる先には何があるのだろうか。

「……あ、」

 気付けば手の中の缶コーヒーが温くなっていた。そろそろいい時間なのだろう。

「僕は帰るよ。それじゃあ」

 またね、と後半は心の中で呟いて。

「ええ、おやすみなさい」


 まるで天使だと、昨夜の邂逅を場違いにも思い起こしていた講義中。結局彼女が何者なのか答えは出ないまま、興味だけが募っていった。

わかったことは、どうやら僕が、思春期少女に毒されてしまったかもしれないということだけだ。

今夜もあの公園に行けば会えるのかもしれない、なんとなくそんな確信めいたものがあり、僕は夜が待ち遠しくなっていた。


「そういえば公園の近くの木村さんのお宅って、どうしたの」

 家を出ようとすると、公園という単語が聞こえてきたのでつい反応して母親の顔を見つめてしまった。

「いや、ちょうど公園まで散歩に行こうかと思ったから」

「あらそうなの、そうそう木村さんのお宅、引っ越すんですって。確か娘さんが今年受験生だったと思うけど、こんな時期にねえ」

「……へえ」

 息子の外出よりも四方山話の重要度の方が高いらしい。というか、公園なんて単語ひとつで反応する僕も大概だけれど。


「こんばんは」

 昨夜に引き続き、ぼうっとしていた僕を現実に引き戻したのは涼やかな声だった。

「奇遇だね」

 そんなことはないのだけれど。昨夜同様、彼女は僕の隣に座って遠くを見つめている。

「お兄さんは、幸せ?」

 唐突に尋ねる彼女は依然遠くを見つめている。

「どうだろう、まあ不幸ではないかな」

 彼女は別段僕のことを気にしているわけでもないようで、人に聞いておいてと思うのだけれど彼女なら仕方ない気がする。

「君は?」

「論外」

 どうして彼女の笑顔は薄ら寒いのだろう。目が笑っていないからだろうか、それとも何か別の理由があるのだろうか。

「だって、こんなゴミ溜めに生まれたなんて最低だもの」

 一蹴すれば簡単な言葉も、彼女が言うと変に聞き入ってしまう。

 変な子だ。まるでこの世のモノじゃないみたいで、僕の中で彼女がどんどんわからなくなっていく。そして益々、彼女に惹かれている。

「きっと神様が間違えてしまったの」

 私はこんなところに生まれるはずはなかった、とでも続けるつもりだったのだろうか。それきり黙ったままの彼女の顔には、それはそれは、魅入るほどに気味の悪い表情が張り付いていた。

「そうかな」

「……そうなの」

 黙ったままどこかに消え失せてしまうんじゃないかと、変な期待があったのだけれど、彼女は隣に腰掛けたまま。


 その後も、この妙な逢瀬は続いた。毎晩、ほぼ決まった時間に公園へ行けば、彼女が現れる。他愛無い、とはけして言えない下手な詩情塗れの会話を交わして、僕がてきとうな頃合で帰宅する。

 ただそれだけなんだけれど、どうやら僕はこの変な女の子との時間をとても楽しんでいたようで、同時に彼女に対して神秘性を妄想していたらしい。

 いつか彼女をどうしようもなく、理解できなくなる時を僕は密かに待ち望んでいた。多分これが怖いもの見たさ、という感覚なのだろう。


「もうすぐ私は旅立つの」

 そう言って笑う彼女。僕はその真意を読み取ることはせず、ただ問いかけた。

「ええ、狭い鳥籠から抜け出して、遠くに行くわ」


 結論から言えば、確かに彼女はもう公園に現れることはなかった。

 旅立つと言ったその翌日から、彼女の姿を見ることはなく、それ以来僕は夜の公園に行っていない。

何日か後、昼間に公園の近くを通りかかると、引越しをしている家があった。

 確か木村という名前だったはずだ。母が噂していた家で、娘さんが引きこもりだとか、自殺未遂がどうとか言っていた。

 なんとなく様子を眺めていると生気の薄い少女が、壮齢の男女に連れ添われて玄関から出てきたのが見えた。

 恐らく彼女が引きこもりで、自殺未遂をしたという娘さんだろう。確かに、肌の白さはしばらく日に当たっていないようだし、何より表情が陰鬱だ。彼女の笑顔が想像できない。

「……行かないと」

 どうやら、僕の天使はいなくなってしまったらしい。狭い鳥籠から抜け出せたのか、それともどこか別のゴミ溜めをさまよっているのか。

 僕は公園の前から立ち去った。

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