第3話 陸奥八仙
今日は仕事がおやすみだから、お部屋でごろごろしていた。
大した趣味もないから、彼にお金を渡してもなお貯まる一方だ。
ふと、彼を大学に迎えにいこうと思った。
私が休みでも家事ができないことに変わりはないので、今日も彼は私のお世話をしに来てくれる。
今日は車で迎えに行って、お買い物を手伝おう。
夕方、彼の大学の前のコンビニで待ち合わせる。
大学の門から、数人の友達と歩いてくるのが見えた。
女の子もいる。
その光景を見て、疎外感を感じてしまう。
彼は大学生で、私は社会人。
もし彼と恋人になるなら、私よりはあのグループの中の誰かのほうが妥当だろう。
彼のことを考えたら、やはり自分のことは自分でやって、彼には彼の時間を過ごしてもらうべきなのだろう。
門で彼が友達と別れたのを確認して、声をかける。
「………おーい、おかえりー!」
「あ、真澄さん。
すみません、おやすみなのにわざわざ来てもらって」
「……いや違うよ、私がまともだったら、休みの日にまでわざわざ家事をしに来てもらわなくてもよかったんだよ……
ごめんね、本当に」
「ふふ、それはいいんですよ。
普段忙しいんですから、お休みの日こそ休んでほしいんです」
「……わざと?」
「え?」
彼を助手席に乗せて、近くのスーパーに向かった。
はじめて乗せたわけではないけれど、少し緊張した。
「えっと、あとサラダ油も…」
彼は携帯電話を見ながら買い物をすすめていく。
こういう姿を見ると、一応ただの幼馴染みなのにこんなことまでさせているという罪悪感がすごい。
今度、おいしいレストランにでも連れていってあげよう。
「…けっこう買うんだね」
「まあ、二人分ですからね」
「いっつもこれをママチャリで運ぶの?」
「ええ、でも大したことじゃありませんよ」
「…本当に、いつもありがとう」
「……大したことじゃないですって」
・・・
彼のお財布から出てきた私のお金で会計を済ませて、私の部屋に帰った。
「ごはんはすぐにできますけど、お風呂に行ってきてもいいですよ?」
「んー…、じゃあそうしちゃおうかな」
今日は私がパスタを所望した。
何パスタが出てくるのだろう。
シャワールームの扉を開けた瞬間から、いい匂いが漂ってきた。
「パスタが茹であがるのと同じ時間でシャワーを浴び終える女性ってどうかと思いますよ」
「い、いいじゃん!今日は休みだったから汚れてないの!
で、それは……」
「はい。久しぶりに作ったんですけど、それなりにできました」
今夜の献立は、カルボナーラとレタスサラダ。
お店ではなく自宅でカルボナーラを食べられるとは思わなかった。
「いただきます」
「いただきます!」
素晴らしい出来だった。
最後に外で食べたのはいつだったか忘れてしまったけれど、そのカルボナーラよりおいしいと感じるのは、贔屓ではないと思う。
「おいしい!これあと3皿食べられるよ!」
「ふふ、さすがに太りますよ」
「ごちそうさまでした!おいしかったよ!」
「ありがとうございます。
今日はすぐ飲みます?」
「うん、そうしようかな」
「分かりました、ちょっと待っててくださいね」
卓に座ったまま、キッチンの様子を覗き見る。
(今日は陸奥八仙で冷酒か。
どうせならお風呂上がりで飲みたかったな。
おつまみは……、おおおっ、お刺身だ!
何魚だろうあれ……
ん?なんかゴリゴリすりおろしてる?
お刺身に合わせるすりおろすもの……わさびかしょうが……?)
彼がものを持って卓に戻ってきたので、居住まいを正す。
「お待たせしました。
「み、みどり酢…。
これなに?あっ、まさかわさびじゃないよね!?」
「…ふふ、食べてみてのお楽しみです」
刺身とわさびが合うとはいえ、目の前のアジはたくさんの緑のみぞれと和えられていた。
これがわさびならさすがに罰ゲームだ。
みどり酢とやらを恐れて、先に陸奥八仙をちびりと飲む。
やはりおいしい。
陸奥八仙は多くのラベルがあり既に多くの種類を飲んでいるけれど、これはいい。
さて、この和え物は…。
彼はニヤニヤしながら私を見ている。
(ええい、ままよ!)
一口。
きゅうりのみぞれだった。
アジ刺にきゅうりのさわやかな香りがよく合う。
ポン酢だろうか、酸味と陸奥八仙の相性もばっちりだ。
「きゅうりならきゅうりっていいなさいよ!」
「すみません、面白かったもので」
「もう……
あ、そういえば、今日は大学でひろくんの友達が見えたんだけど……」
「あぁ、はい」
「友達いたんだね」
「……どういう意味ですか」
「あ、いや違くて、バイトもせずにいっつも私の面倒見てくれるから、大学でうまくやっていけてるのかなって思ってて」
「……ずっとここで家事をしているわけではないですからね。
ちゃんと大学にも行っていますから、そりゃ友達もできますよ」
「そうだよね、…そうだよね、うん…」
昔から彼を知っている私としては、彼には彼の世界があるということを信じたくなかった。
私が知る限りの世界の中で生きていてほしかった。
私と彼は幼馴染み、それ以上ではない。
昔は、私は彼の全てを知っていた。
でも成長するにつれて、私が知っている彼は彼の全てではなくなり、だんだんと小さくなって、今ではほんの一部になってしまった。
彼のことが、好きで好きで仕方がない。
それでも、弟離れというか、彼から卒業しなければいけない。
「んん、ふぁぁっ……」
「ん、眠いの?」
「…少しだけですけどね。
真澄さんが寝たら、すぐうちに帰りますよ、ふぅーっ……」
彼が、ぐぐっと伸びをする。
そのとき、見えてしまった。
彼のわき腹に、赤い痕があった。
たまに職場に、恥ずかしげもなく首筋に同じ痕をつけてくるひとがいる。
それと同じものに見えた。
酔った頭が、混乱してしまう。
「……あっ、あは、ちょっと今日は、体調がよくないかも」
「……え?」
「酔い過ぎちゃったから、お酒はもういいや。
アジは、明日食べるよ。
もう寝ることにするから、ひろくんはもう帰りなよ」
「…いえ、体調が悪いならもう少しいますよ。
どこが悪いんですか?」
「一人で大丈夫だよ。
急に酔っちゃって、なんか頭いたいだけだから」
「でも」
「一人で大丈夫だってば!
……大丈夫だから、ね?
また明日…………お願いね…………」
「…分かりました。お大事に。
なにかあったらすぐに連絡下さい」
彼はテーブルの上を片付けて、出ていった。
酔いに加えて、あまりに重大なことがあったとき特有の、あの底冷えする恐ろしさが視界を揺らした。
あの痕がキスマークだとは断定できない。
でも、もしそうなら、彼には恋人がいることになる。
恋人がいるなら、この関係は良いものではない。
やめないといけない。
それも、私の方から言い出すべきだ。
…………嫌だ。
幸せだった。
帰ると、おかえりといってくれる人がいる。
その人が作るおいしい手料理を食べて、おいしいお酒を飲んで眠る。
私は彼との間柄は幼馴染みだと自分に言い聞かせながら、本当は彼のことを夫のように慕っていた。
だってこの関係は誰が見ても幼馴染みではなくて、働く妻を支える主夫ではないか。
勘違いしてしまうのは仕方ないではないか。
まして、彼は私がずっとずっと昔から好きだった相手なのだから。
ずるい。
彼はずるい。
私を、彼なしではいられないようにして、そのくせして自分は恋人をつくるなんて、ずるい。
私も、彼に抱きついて、キスして、キスマークをつけたかった。
……きっと、いい機会なのだろう。
彼の誕生日に、この関係を終わらせよう。
彼に恋人がいようといまいと、私の願いは叶わないのだから。
だから、彼の誕生日までは、甘えさせてほしい。
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