第2話 天狗舞

朝。


きちんとベッドに寝た状態で起床する。

私がベッドにたどり着いていて、テーブルの上も綺麗になっているのは、彼のおかげと言うほかない。

本当に、頭が上がらない。


わがままなのは分かっているけれど、起きたときに彼の姿がないのは、寂しかった。

私の介抱をしたあと、自分のアパートに帰っているらしい。

朝は彼に起こしてほしいな、と思う。

とても言えたことではないけれど。


いい加減、この関係を改めないといけないな、と思う。

恋人同士でもない大人の男女が毎晩一緒にいるなんておかしい。

彼に浮いた話の一つもないのは私のせいなのではないか、と勘ぐってしまう。

しかしながら、今の関係の居心地が良すぎて、自分で壊すなんてことは出来そうになかった。


深酒をした次の日は、決まって陰鬱な気持ちになる。

彼への負い目や、自分の中に留めておくのがつらいほど大きな彼への愛情が、こぶし大の脳腫瘍になったみたいに頭が重たかった。



のそのそと起きて、歯を磨いてシャワーを浴びて、冷蔵庫を開ける。

彼の作ってくれた朝食が入っていた。

これも、いつものこと。

夕食と同時に朝食もつくって、温めれば食べられるようにしておいてくれるのだ。

小綺麗に盛られた朝食の品が、私の胸を締め付ける。

ただの幼馴染みなのに。

私の勝手な想いで、彼に負担をかけてしまっている。


「……いただきます」


今朝の献立は、だし巻き玉子、トマトサラダ、おしんこ、すまし汁。

お酒が残る内臓にトマトがありがたかった。



彼のおかげで、余裕を持って出勤できる。

車に乗り込んで、勤務先に向かって走る。

今日も彼は大学の講義を終えて、夕方ごろに私の部屋を訪れるのだろう。

既に、合鍵を渡してある。

また、食費、その他もろもろの費用とある種のバイト代を含めて、月にいくらかのお金を渡している。

学生のころは材料費で三万円渡してお釣りを返してもらっていたけれど、就職してからはしっかりお金を渡して彼を雇っている状態だ。

彼は隙あらば何らかの形で私にお金を返そうとしてくるけれど。

お願いだから、どうかお金だけは受け取ってほしかった。

受け取ってくれたなら私の罪の意識は軽くなるし、お金を渡し続ける限りこの関係は続くと思うことができるから。



・・・



彼の誕生日が近づいてきたので、行きつけの酒屋さんでよさそうなお酒を見繕う。

東西のお酒を備えたこの店の店主は、私のような二十代の女が日本酒に興味を持っていることが嬉しいらしく、とてもよくしてくれる。


看護学校の実習のハードさにへこたれたときに先輩からもらったここのお酒を飲んで、それ以来私は無類の酒好き、特に日本酒に重きを置く徒となった。


「すみません、この天狗舞の、山廃純米を。

あと、えーと……後輩の二十歳の誕生日で、おいしいお酒をプレゼントしたいんですけれど、なにかおすすめはありますか?」


「毎度。えぇ、そうですねぇ……

ご予算はどれくらいで」


「うーん……、特には。

せっかくの二十歳の誕生日ですから、とびきりおいしいのを飲ませてあげたいんです」


「ほぉ、そうですか。

でしたら、五日ほどで取り寄せできるおすすめのものがありますが、いかがですかね?」


「五日……、はい、大丈夫です。

……あの、いくらくらいですか?」


店主は黙って電卓を叩いた。

私は涙を飲んだ。

彼のためなのだ。



・・・



「ただいまー」


「おかえりなさい、真澄さん。

もうごはんできてますから、着替えてきてくださいね」


彼が私の荷物を受けとり、部屋着を渡してくれる。

シャワールームで着替えて、配膳された卓につく。

今夜の献立は何かの豚バラ肉巻き、なすのソテー、大根のなます、お味噌汁。


「いただきます」


「いつもありがとね。

いただきます」


肉巻きの中はいろいろな種類があった。

長ネギ、もやし、あと何かの茎。


「おいしいよ!ね、これは何?」


「ああ、それは豆苗です。

エンドウ豆の若いやつですね」


豆苗…、スーパーで見たことがあるような、ないような。


「そうだ、ひろくん聞いてよ。

同期の看護師がね、同じユニットの医師と付き合ってるらしいの」


「いいことじゃないですか。

珍しくもないんじゃないですか?」


「うーん、医師と看護師のカップルは珍しくないんだけど。

その医師…、奥さんがいるらしいんだよね…」


「えぇー……

看護師さんのほうは知ってるんですよね?」


「そりゃあ、私が知ってるくらいだし。

なんだかなぁ……」


職場の愚痴を、彼はしっかり聞いてくれる。

私の弱音を、彼は受けとめてくれる。

だから、つい話してしまう。

自分の弱くて駄目なところを、彼の前で積極的にさらけ出してしまう。

そんな駄目な私を、彼は女性として見ることができるだろうか。


「ごちそうさま。

今日もおいしかったよ」


「ありがとうございます。

ほめてもおつまみしか出ませんよ。

お風呂行ってきてください」


「はぁーい。……十分すぎるよ」



一瞬でシャワーを浴び終えて、キッチンの様子を見る。

やはり彼は、ふんふふんと鼻唄を歌いながら調理している。


(天狗舞は冷や。

うんうん、山廃の味わい深さが楽しめる飲み方だね。

おつまみは…、冷やっこかな?

…ん?大根おろしをあんなに…、ネギもたくさん。

しらすも乗せるの、さらに天かす…!

あぁぁ…!仕上げに熱した胡麻油を………!)


はやく食べたいので、急いで髪を乾かす。


「そんなに急がなくても酒は逃げませんよ」


「急がせてるのは君でしょ!はやく食べたいの!」


「ふふ、嬉しいです」



「天狗舞の山廃仕込純米酒と、たぬきやっこです」


「たぬき?あぁ、天かすだからたぬきなの?」


「そういうことです」


「なるほど、いただきます!」


ちびり、とお酒をひとくち。

強い味が舌を刺す。

その強さを保って、喉を焼きながら胃に流れ落ちていく。


(あ、これすぐ酔うやつだ)


たぬきやっこの、上に盛られている薬味はどうしても上手に箸でとれない。

彼がスプーンを持ってきてくれた。

崩して口に運ぶと、いろいろな味が口に広がる。

薬味の中の大根おろしとポン酢、隠れていたおろししょうが。

遅れてしらすがいい味を出して、それらを胡麻油が包み、やもすれば油っこくなるところを豆腐が土台となってさらに優しく包み込む。


「……ねぇ、ここに住まない?

ひろくんの部屋よりここのほうが大学に近いよね?」


思わず口が滑った。

彼は驚いたような表情を見せた。


「もう酔いが回っているんですか?

勘弁してくださいよ」


「…………酔ってないし、しらふだし。

ていうか一口しか飲んでないし」


「まぁ、ここに住めば楽かもしれませんね。

真澄さんのことに集中できるし、僕の部屋よりよっぽど広いし。

大学も、確かにここからのほうが近いです」


「じゃあ!」


「何言ってるんですか。

男女がひとつ屋根の下で暮らしていたら、まわりに誤解されちゃいますよ。

いずれは真澄さんも、お医者さんとかと結婚するんでしょうから…」


「…………そんなの、わかんないよ」


ぐぐっ、とお酒を煽る。

今日も慰めておくれ。

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