第3話 初デートInならまち

 そして迎えた最初の週末。観光客でにぎわう昼時の近鉄奈良駅のビルの前には、紺のジャケットを着た眼鏡の男性がぼうっと突っ立っていた。すっと伸びたベージュのズボンが長い脚を強調している。


「ああ……本当にいるよ……」


 そんな彼、藤谷先生の姿をビルの陰から窺っていた私は未だ落ち着かぬ胸に手を置いて呼吸を整えていた。あんなシチュエーションで突拍子もない形ではあったが、自分がようやくカップルの片割れであることを今ようやく実感として理解できた気がする。


 初デートということで先生が選んでくれたのは、私の家からそう離れていないこの近鉄奈良駅の近くだった。私はここから徒歩で15分ほどの家で両親といっしょに暮している。


 奈良ではJRよりも私鉄である近鉄の方が住民にとって身近だ。各線の中心駅も近鉄奈良駅とJR奈良駅が少し離れて存在しているが、官公庁も奈良公園も近鉄の方が便利な場所に位置している。


 時折腕時計をちらりちらりと覗き込む先生。そんなさりげない所作さえも周囲の目を惹くが、私の足は思ったように動かなかった。


 行くべきだろ、いいやまだ心の準備がと自問自答を繰り返す。成り行きで付き合うことになったものの、先生の恋人として私のような恋愛経験皆無の女が務まるのか、失態をしでかさないか不安で仕方ない。


 そして自分自身が先生のことをどう思っているのか。それさえも私の中で結論が出ていなかった。


 いや、憧れているのは事実だけれども、本当にそれは恋と言えるのだろうか? あくまでアニメやゲームのカッコいいキャラに抱く感情の延長であって、一般的な女性が男性に向ける愛情とは違っていたりしないだろうか?


 この心のざわめきを落ち着かせるのは私にはできなかった。実際の恋愛感情そのものがよくわからないのだもの。こんなことなら共学の学校に通って、クラスの男子に恋をするような経験を踏めば良かった。


 だがそう立ち止まってばかりいるわけにもいかない。待ち合わせの時刻は刻一刻と迫っている。


 えーい、女は度胸! 成せばなる、当たって砕けろ、よ!


 私はふんと強く鼻息を吐き出すと、覚悟を決めてズンズンと歩き始めた。


「お待たせしました! 待たせました?」


 私はにこにこ笑顔で先生に駆け寄る。ファッションに疎い私に代わって月路がコーディネートしてくれたのはフリルの付いたトップスに花柄の膝上スカート。こういう少女っぽい雰囲気をガーリーファッションと呼ぶらしい。


 100パーセントの作り笑い、そして作られた私だ。だが本心なら笑っているやら不安やらでホラーな顔になっていただろう。


 そんな私の気苦労を知ってか知らずか、先生は爽やかに微笑んで迎えてくれたのだった。


「いいや。じゃあ行こうか」


 くぅー、やっぱカッコイイよ!


 私は今まで悩んでいた自分があほらしくなった。このイケメンが私の彼氏なんだ、そうだ堂々としていればいいと、彼の笑顔を見て踏ん切りがついたのだ。


「先生、この辺りにはよく来るのですか?」


 私は大通りを先生と並んで歩きながら尋ねた。


 今日は先生行きつけのレストランで昼食をご馳走してくれるそうだ。自宅通いの私はいつも料理好きのお母さんがご飯を作ってくれるので、わざわざ近くのお店に食べに来ることは滅多に無い。


「ああ、実家から親が来た時やボーナスが入った時なんかはいつもよりも良い物食べたくなるからな」


 先生が話していると、近くから歓声が聞こえた。見てみると人気のよもぎ餅屋さんが店の前で名物の高速餅つきを始めたようで、道行く人々がぞろぞろと集まっていた。


 いつの間にか四角形のビルも少なくなり、道の両端にはお土産物屋や茶屋が並び、そして向こうには世界遺産興福寺のシンボル五重塔が聳えていた。ここはまだまだ観光地、私たちが向かうのはこの先の古い日本家屋の密集する地区、通称『奈良町ならまち』だ。


 先生が案内してくれたのは古い家屋を改造して作ったフランス料理屋だった。車一台がギリギリ通れるほどの小路に佇むそのお店は、地元の人間でも教えられないと気付かないだろう。


 外観は和風だが、内装はカウンターを備えた小さな料理屋と言った感じで、こじんまりとしながらも窮屈ではなく、むしろ過ごしやすい雰囲気だった。既に他の客が入っていた物の、先生が予約してくれていたのだろう、私と先生は向かい合って空いた机に通されると、すぐさま前菜が運ばれてきた。


「わあ、美味しそう!」


 思わず私は声を上げてしまった。目もきっと輝いていただろう。


 くるくると巻くように盛りつけられたサーモンのマリネ、それを彩るのは緑や赤の葉物野菜、そして黄色みのかかった独特の艶のあるソース。


 我が家は和食派だし、バイト先の小料理屋も日本食だ。美味しいことに変わりはないのだが、やはりソースを利かせたフランス料理の珍しい風味は、合わせ出汁に慣れ親しんだ私にとって新鮮に映った。


「おいしー!」


「なら良かった。東野が喜んでくれて嬉しいよ」


 そう言って先生はにこりと微笑みを見せた。




 ランチを終えた私たちは奈良町の商店街をぶらぶらと歩きまわっていた。ここは地元住民の生活圏としても観光地としても機能しているため、食料品店や古書店、伝統工芸の工房など様々な店舗が集まっている。


 結論から先に言うと、先生はどこまでも紳士的だった。


 私のペースに合わせてくれるし、適切にリードしてくれる。会話も高校の話、大学の話、そして今放送されているアニメの話とどんな話題でもしっかりと耳を傾けて聴き、こちらが話しやすい雰囲気を作ってくれる。


 おかげで終始ストレスに思うことも無かった。人生初のデートがこんなに満たされたもので本当に良かったと思う。


 最初のどぎまぎはどこへやら、すっかり先生に馴れてしまった私は、ふと少し変わった雰囲気の店を見つけ、思わずそちらを見遣っていた。


 すかさず私の様子を察知した先生は「ちょっと入ろうか」と方向転換すると、私より先に店の扉を押し開けたのだった。


 赤や青、様々な色の灯りは店中に展示されている精緻な細工のガラスランプから発せられている。そんな光に照らされているのは細かい模様の描かれた極彩色の陶器、そしてくびれた形の変わったガラスグラス。


 ここはトルコ雑貨を扱うお店だ。アジアとヨーロッパの文化が入り混じるトルコという国は他にない抽象的な造形と色彩感覚が根付き、雑貨好きの女性には大人気だ。


「わあ、これかっわいいー!」


 そんな商品の中、私は壁にかけられたガラス製の飾りに目を奪われる。深い青色の扁平なガラスに、目玉のような模様を描いたちょっと不気味だけれども思わず注目してしまうような装飾。


 これはナザール・ボンジュウ。メドゥーサの目とも呼ばれている、一種の魔除けのお守りだ。


「昔からそういうの好きだったもんな。修学旅行でシンガポールに行った時、みんながファッションやスイーツの店を回っていたのに東野は置物や民族衣装に興味津々だったもんな」


 後ろから先生が棚に並べられた商品を見ながら言う。


「覚えていてくれたのですか!?」


 驚いて振り返ると、先生もこっちを向いて頷いた。


「たしかプラカナン刺繍のトートバッグ買わなかったか? 学校にも持ってきてただろ」


 大当たりだ。私自身も忘れかけていたほどなのに。


 藤谷先生は本当に生徒のことをよく見てくれていた。その事実に私の胸は今日一番でとくんと高鳴った。


「そうだ、せっかくだから好きなのひとつ選ぶといい」


「いいのですか!?」


 私はいたずらっぽく聞き返した。この人なら肩肘張らず素で接することができる、自分のすべてを委ねることができると確信していた。


 そしてイケメン教師もまた今日一番の微笑みを向けると、流れるように答えたのだった。


「ああ当然だ、マキナが良いなら」


 ん?


 今、何て言った?


 私の耳が腐っているのかな?


 時が一瞬止まる。私の名前はたしか東野かなえだったような気がするけど……あまりに自然な流れで出てきたからよく聞こえなかったぞ。


「じゃ、じゃあせっかくですし」


 気のせいだろう、そうに違いない。


 自分に言い聞かせながら私は壁にかけられた手のひらサイズのナザール・ボンジュウを手に取った。




 そんなこんなで半日一緒に過ごしたものの、楽しい時間にも終わりは必ず来る。名残惜しいが今日はここらでお開きだ、最後に私たちは駅前のカフェでコーヒーを飲んでいた。


「先生、ありがとうございました」


「いや、俺もお前が付き合ってくれて嬉しいよ」


 ああー、やっぱかっこいいな。


 唯一あの雑貨屋でのことが心の底ひっかかっていたが、なあにやっぱりただの聞き間違いだろう。言い間違いだとしてもこもイケメンスマイルですべて許せるわ。


「来週は何か予定あるのか?」


「ええ、来週末はみやこめっせでイベントがありまして。またマキナのコスプレで参加するつもりです」


 コスプレイベントは意外と多い。最近は自治体がバックに回って観光地や景勝地でのイベントも各所で催されている。


 先生に今さら自分の趣味を隠す必要もない。何の考えもなく答えると、途端先生は「東野」とカップを置いた。


「俺も行っていいか?」


 その顔はかつて見たこともないほど、期待に輝いていた。

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