第73話 最後のジハード(8)〜逃走

「澤村ーっ!」


 趣味の悪い金色の「プレジデント」と書かれた黒いドアを、ドクターは勢いよく開けた。


 社長室には品のない装飾品が並べられていた。賞状やトロフィー、値段だけが高価そうな壺などが床に散乱している。その中に腹から血を流した澤村が横たわっていた。


「澤村ーっ!」


 ドクターが駆け寄ろうとすると、スーツの袖が肩から破け、顔中血塗れの男が銃口をこちらに向けた。香川だ。香川の後ろには財前恵美子らしき姿も見えた。乱れた髪が顔を覆っていて誰かわからなかったが、あの『執行』の時のヒステリックな喚き声で恵美子だとわかった。


 ドクターは銃口を向けられたせいで、澤村に近寄れない。香川から目を逸らさないで、ストレッチャー!と後ろにいる看護師たちに叫んだ。


「お父さん!」


 振り向くと、足を引きずって楓が立っていた。楓は銃に気づいていないようだ。前に出ようとする楓を俺は遮った。銃口が楓の方に向いた。俺は体で楓を庇った。


「動くな」


 香川は銃口をこちらに向けたまま叫んだ。誰も喋らない、警報機の音、ストレッチャーにぶら下がった機材が揺れてぶつかる音、澤村の荒い息遣い、それらが遠くに聞こえる。唾を飲み込むことさえも憚られる。

 その中で1人、恵美子だけが泣き叫び喚いている。

 香川は、自分の娘である恵美子に銃口を向けた。恵美子はなにが起こっているのかわからない、信じられないという呆けた表情になり、口を小刻みに震わせた。


 後ろでモーターの音が鳴る。どけ!という声とともに、ものすごいスピードで俺たちの横をアゲハが車椅子で駆け抜けた。


 香川は娘に向けた銃口を下ろしたと思えば、すぐさま自分の顳顬に当てた。それと同時にアゲハの車椅子は、社長室のソファに激突し、アゲハの体が投げ出された。アゲハはそのまま香川に体当たりをし、銃声がした。ガラス窓が、割れた。


 下のフロアが騒がしくなった。警察だ、という叫び声が聞こえる。階段を上る大勢の足音が聞こえた。


「逃げろ!」


 澤村は腹を抑えながら叫んだ。ドクターが駆け寄った。避難経路は頭に入れてある。南側の非常口、もしくは東側の窓の外は狭いバルコニーがあり、壁を伝って隣のビルに移ることができる。そのどちらかだ。

 みんな散った。各々、別の避難経路へ走り出した。


「お父さん!」


 楓は澤村に駆け寄った。


「お前たちも逃げろ!澤村のことは任せろ、俺がなんとかする」


 ドクターは楓を突き放した。澤村の息遣いがどんどん乱れてきた。


「あ、アサシン、はあ、浅野、あさ、真一くん」


 澤村が聞き取れないほどの小声で俺を呼んだ。俺は耳元を寄せた。


「に、逃げてくれ。楓のことを、頼む」


 俺は澤村に肩を押された。澤村にしがみつこうとする楓を引き剥がし、背負って避難経路に走った。非常口の階段を駆け下りていると、3階のフロアから警官隊の雪崩れ込む足音、叫び声、なにかがぶつかる音が聞こえ、駆け下りるにつれ、音は遠くなっていった。

 俺の背中から楓の啜り泣きが聞こえてきた。



 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



 翌日、俺は実家で目が覚めた。


 あの後、同じ非常階段から逃げたミントとロイホと合流し、人混みに紛れ大通りに出てタクシーを拾い、逃走用の車を停めてある立体駐車場まで行き、そのまま静岡に向かった。

 楓は実家まで口を聞いてくれなかった。


 実家に着くと、義母は楓の背中をさすり、


「大丈夫よ、あの人が死ぬわけないでしょ。だって、あのヤブ医者がついてるんでしょ」


 と言った。


 楓は俺の顔を見て、ごめん、と言っただけで眠っている里穂の隣に横になった。

 俺も、ミントも、ロイホも、話すことなく体を横にした途端、泥のように眠ってしまった。


 朝、親父の作った味噌汁の匂いで目が覚めた。俺は眼が覚めるとすぐに客間のテレビを点けた。7時台、8時台のニュースでは昨夜のことは報道されなかった。ライブ会場の爆弾騒ぎのことも、あっさりとした内容で伝えられたのみで、午後のニュースでは、どの局も報道しなかった。


 澤村は無事か、澤村とドクターは警察に連行されたのかどうか、香川はどうなったのか、全く知る術がなかった。


 ロイホがネットで調べても、なにもわからなかった。書き込みチャンネルでは、香川警備保障の近辺で、たくさんの浮浪者たちが酔っ払って道で寝ていたという書き込みがいくつもあった。他の情報は掴めず、数日が経過した。

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