#5

 だんだんと大きくなる音は、ずりずりとる音だけに留まらず、キーッと黒板を爪で引っ掻いたような音まで途切れ途切れに聞こえてくる。


 耐え難い不快音に思わず耳を塞ぐが、掌をすり抜けて聞こえてくるそれは、最早どうしようにもなかった。


 理解不能な白い壁の一挙一動に翻弄され続けている夏海の精神は事象を追うごとに削られ、限界に近付いていた。


 夏海は不快音に混じりながら、地に足を付けたままじりじりと後退すると、しきりに首を動かして他に出口は無いものかと見渡した。


「──あった」


 ぼそっと呟いた夏海の視線の先には、天井にぽっかりと空いた通気口があった。片側の螺子ねじが取れてしまっているのだろう、ぶらぶらとフィルターが前後に揺れている。


「さっき私が寝てた台を使えば、ジャンプしてあのフィルターに手が掛かるかも」


 わざと言葉にするのは、摺る音に意識を持っていかれ、今にも潰れてしまいそうな自分の思考を奮起させるためのものだった。


 夏海は実行に移そうと台に登り今にも跳躍しそうになっていた。しかし、そんな夏海の背筋に悪寒が駆けた。地を離れかけた足が寸出の所でブレーキを掛ける。


 いつの間にかあの不快な音が消え、辺りは静寂に包まれていたのだ。


 もしかして、あのまま何処かへ行ってしまったのか? それなら好都合だ。そんな考えが頭を過ぎる。


 目だけを動かして扉の方を見た。


──扉の向こう側は白いままだった。ただ、今しがた見ていた真っ白では無く、所々に変色したような侵食したような掠れた黄や赤黒い箇所がある。白と白の間には隙間が存在し、肉肉しい黒色が覗いていた。そして、その黒色を渡るようにぬらぬらとした透明な液体がいくつも糸を引いていた。



くちゃ ぐちゅ くちゅぅ



「くち?」無意識で呟いた言葉が脳内で『口』と変換された途端、夏海は自分より巨大なそれに恐怖を抱いたのは必然であった。


 衝撃のあまり、現実味の薄いそれから目が離せなくなる。冷静沈着を装っていた夏海の心臓は再び心拍数を急増させた。


 扉の隙間から見える不整な歯と歯の間から湿り気を帯びた生温い息が漏れているのが肌で感じられた。


 夏海の脚はガクガクと震え、とても立っていられる状態では無かった。


 ガタンと音を立てて尻もちをついたのを合図に、どこからともなく地鳴りとも号哭ごうこくとも言える何かが付近全体に反響を始めた。

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