#4

 しばらく「加山 聡太」の文字を見つめていた夏海は、くぐもった衝撃音が規則的に聞こえて来た事ではっと我に返った。


「なに、この音」


 音はだんだんと大きさを増しているように感じた。


「近付いてる?」



 どん、どん がん! ずどん!



 激しさを増していた音がふっと消える。


 恐怖に怯えて頭を抱えていたいた夏海は、音が消えるとゆっくりと顔を上げた。


「今度はなんなの……」


 ふと半開きになっている入り口の扉の方へ目を配った。


 扉の向こう側は白一色で、様子が今一つ把握できない。左脚を引きずりながら、ゆっくりと扉へ近付く。扉と数十センチメートル程まで距離を詰めると、ある違和感に気付いた。間隙から覗く白色が、少しだけ脈打っているように見えたのだ。


「……?」


 首を傾げながらそちらへ手を伸ばした瞬間、ぎょろりとした大きな目玉のようなものが突然現れた。


「ひっ!」


 夏海は伸ばした手を引っ込めると、まるでメデューサに睨まれたかのように、石の如く身体を強張らせた。


 ぎょろぎょろと動くそれは瑞々しく、生きている事を物語っていた。ブラックホールのようにどこまでも深い黒色に、意識が吸い込まれそうになる。


 依然として身体が動かない。自分が息をしているのかさえわからない。無限とも感じられたその時は、瞼を閉じるように、黒い満月が半月へ、三日月へと姿を変え、元の脈動する白い壁となった事で終わりを迎えた。


 夏海は緊張から開放され、肺に溜め込んだ空気を一気に吐き出すと、次第に落ち着きを取り戻した。


 ここに来てからというもの、心臓が張り裂けそうな思いを何度したものかと夏海は心の中で自問した。


 それにしても、なんだったの、今の黒いの。それに、この白い壁……まるで生きているかのように脈打ってる。


 夏海は脳に不足している酸素を補うように深呼吸を再三行った。覚束おぼつか無い思考回路で目の前の謎の物体が何なのかを理解しようと必死に努めた。


 しかし、いくらおもんぱかったところで今まで生きてきた十数年の知識量では見た事のないそれは韻鏡いんきょう十年と言うものだ。ただ、最初にこの白い壁が視界に入った時に感じたのは、つい先月生物学の授業で教科書に記載してあった蚕の幼虫だった。全体像は把握出来ていないが、身体は幼虫、先程の黒い眼の様な物は成虫のそれを彷彿とさせた。


「ふぅ…………よしっ」


 震える手をもう一度伸ばして、恐る恐るそれに触れようと試みたその時。扉の向こうが僅かに動いている事を視認した。


 ずる、ずると少しずつれながら動いている気配はあるのだが、それが上下左右どちらに移動しているのかは不明であった。


「やっぱ無理、無理無理無理。なんか急に動き出したし」


 幼虫だと感じたその瞬間から、夏海はこの白い物体に拒絶に似た反応を起こしていた。


 夏海は幼い頃に毛虫に刺されて以来、幼虫と呼ばれる類が苦手なのである。

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